小児救急がパンク寸前と言うか、そもそも存在自体が危うくなっている面があるのに説明は不要かと思います。神戸だって5年先、10年先を考えると不安視されています。ごく簡単には人手が足りない事です。こういう時に開業医の動員がよく話に出ますが、神戸でも小児科開業医の高齢化は確実に進んでいます。私の所属している区医師会でも、私が開業してから開業した小児科は1軒で、なおかつ私より年上の医師です。ごくシンプルに開業以来平均年齢が10歳あがったわけです。
今日は人手論とか、システム論は基本的に避けます。また料金によるハードル論もあえて控えさせて頂きます。念頭に置いているのはある医師の小児救急制限論です。具体的に誰の論かも控えさせて頂きます。その医師の論は小児救急が危機的なので軽症患者の受診を控えさせるものでした。もう少し具体的には小児の軽症受診で格段に割合が高い発熱患者の軽症の見分け方です。ごく簡単には
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そういう患者は救急受診を控えて下さい
親は子供の発熱に驚きます。子どもの発熱の特徴は成人に較べると非常に高くなりやすいと言うのがあります。40℃ぐらいはインフルエンザでなくともザラにありますし、39℃なんてありきたりの発熱です。これは小児科医なら常識で、主訴として聞いてもそれだけなら「熱があるんだな」ぐらいにしか感じません。熱の高さだけにイチイチ驚いていたら商売にならないからです。診察のポイントは発熱以外に何があるかです。これで重症度と診断を絞り込んでいくわけです。
ただなんですが、この熱の高さだけに驚かないようになるには経験が必要です。小児科医だって新米の頃はビビっていたはずです。ビビらないようになったのは数知れない経験を積んだだけのことです。発熱だけに驚かず、冷静になって他の症状を観察できるようになるには誰だって経験が必要です。医師だってそうで、小児科医以外の医師が我が子の発熱にうろたえるなんて珍しくもありません。内科医だって例外とは言えないところがあります。いや、小児科医だって我が子となれば狼狽を見せるものが居ないとは言えません。
発熱以外の症状に親が目を向けられる様になるには、どうしたって一定の経験数が必要です。救急ではありませんが、些細な症状で頻繁に受診される親もいます。発熱ならなおさらで、前日の夕方に受診して、
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クスリを飲ましたのに熱が下がりません。だから今朝は飲まさずに受診しています。
発熱以外で重症度を決めるエッセンスは、単純化すれば重症感です。ただこれを具体的な言葉で列挙するのは容易ではありません。子どもだって発熱すればグッタリもします。そのグッタリ感の違いが重症感になります。これを体感的に見極めるためにはやはり経験が必要です。そんな難しい経験ではなく、これまでの疾患のグッタリ感との比較です。これが出来て初めて「これなら朝まで待とう」とか「これは救急受診も考えた方が良い」が可能になります。そんなものが初めての我が子に最初から100点満点の解答を求めるのは机上論と考えています。
もうちょっと言えば、経験を重ねた重症感の判断だって外れる事はあります。さすがに重症を軽症と見誤る事はかなり少ないですが、軽症を重症を見誤る事は割とあります。これこそ結果論で、そんな事は医師だって問題にしようとも思いません。いや、少なくとも私は思いません。自分でやっても100%なんてとてもとても言えないからです。
小児の軽症救急で除外したいのは、親の経験の範囲で重症を軽症と誤って判断した患者では無いと思っています。経験度は上述したように差がありますから、まだ経験の浅い親が軽症例を「これは重症」と判断するのも許容範囲と考えています。そんなものが最初から出来るはずがないからです。求めたいのはあくまでも
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適切な急病診療所の利用
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昨日の晩から40度の発熱で朝から水も飲めずにグッタリしています。
精神論的な話は嫌われそうですが、医師だからと言って喜んで時間外の診療を担当を行っているわけではありません。医師として、医療として必要なものだの使命感からです。それを賄うべき体制論の話は今日はあえて置いておきますが、そこに受診する患者の真剣度が高いほど「やりがい」になります。医師も人間ですから打てば響くです。
真剣度とは言い換えれば受診の必要度です。ここを誤解して欲しくないのですが、必要度は医師が基準とする必要度ではなく、医師が納得できる必要度です。親の判断の誤りではなく、必要度の判断過程です。結果的に軽症なのは本質では無いと言うところでしょうか。
患者教育の言葉がありますが、重症度の見分け方は一律の基準で提示するのはある意味危険と思っています。マニュアル主義の怖さと、しょせん座学じゃ身につく知識になりません。たとえば小児科医から見て軽症で受診した時に、それが何故に今回は軽症であるかの理由を説明する事だと思っています。これはバリバリの実地教育ですから、親だって我が子と言う真剣そのものの対象が目の前にいますから、1回でこのケースでの判断基準を覚えられるです。覚えられるだけではなく案外な応用範囲さえ可能になる事は少なくありません。これが貴重な経験になります。
微妙な差かもしれませんが、冒頭に批評したいとした医師の論は手順前後の嫌いがありすぎます。そうそう、そんな綺麗事では支えきれないの「さらなる現実論」はもちろんあるでしょうが、そこまでになると次元の違う問題になります。
大きな問題への対策を考える時に理想と現実を常に見る必要があります。小児救急対策なら、理想論を叶えようと思えば十分なマンパワー、これを支えるだけの豊富な予算が必要です。この条件が10年スパンぐらいじゃニッチもサッチも整いません。むしろ整う日なんて果たしてあるのか状態です。これがまず大前提です。平たく言えば現状の戦力でどれだけ対応を考えるかが現実論になります。
アプローチもマクロ的なものとミクロ的なものになります。マクロ的とは医療機関の集約論も一つです。価格によるハードルによる半ば強制的な小児救急患者削減論もありとは思っています。これは制度的な枠組論であって、どういう手法を選ぶにしてもメリット・デメリットがあり、とくにデメリット部分に対して必然的に起こりうる反対論にどう対処するかの医療政策的なお話になります。
これに対しミクロ的なアプローチは、現在の枠組みの中でとりあえず可能な事はないだろうかの摸索です。スケールはダウンしますが、その代わりに現実的なものとなります。今日批評させて頂いた医師の論は、おそらくですが柏原方式の成功を念頭に置かれているかと考えています。これをそのまま全国適用すれば万事解決みたいな手法論です。
それはそれで一つの手法かもしれませんが、何故に柏原方式が速やかに広がらないかの理由を失念している気がします。柏原方式については私も実際の担当推進者の声を生で聞かせて頂きました。実に素晴らしい成果ですが、唱えれば実現したわけではありません。住民がこぞって柏原方式に共鳴してくれるように実に粘り強い地道な活動が基盤にあります。そういう基盤の上での成果です。
ポイントとしては、柏原方式は医学的啓蒙が先にあったのではなく、住民が主体になっての地盤作りが先にあったです。地盤があった上で医学的啓蒙が浸透したで良いと思っています。あからさまに言えば、医学的啓蒙を聞く耳を住民が持たなければ地域から小児科が消滅する危機感を共有できたです。ここが最大の難関であり、言ったら悪いですが医学的啓蒙なんて柏原方式では従です。だから容易に他地域に広がらないです。その現実を踏まえれば現実的な対策として、
- 柏原方式のカギである地盤作りを自分の医療圏でどう構築するかを考える
- 柏原方式の地盤がない事を前提に他の手法を考える
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柏原方式の地盤がないところに、柏原方式の成果である医学的啓蒙だけを持ち込もうとしている