軽症救急車問題・現場の気持ち

パラメディック119様から

記事は2009.11.13付でちょうど新型インフルエンザ騒ぎの頃のエピソードですが、シチュエーション的には今も同じ問題が続いています。話をかいつまんで紹介しておくと、軽症救急のお話です。どれぐらいの軽症かなんですが、

隊長「救急隊です、患者さんのご家族ですね?」
娘さん「そうです、娘です」
隊長「患者さんはどちらにいらっしゃいますか?案内をお願いします」
娘さん「こっちです、今、支度をしています」

娘さんの案内で玄関を開けるとそこには男性が靴を履こうとしていました。

奥さん「すみませんお願いします」
Yさん「お世話になります」

靴を履いただけで判断するのはまだ早いところですが、

隊長「こんにちは?患者さんはあなたですか?」
Yさん「ええ、どうも」
隊長「歩かれて大丈夫ですか?動くことができないとお聞きしているのですが」
Yさん「大丈夫、ちょっと歩くくらいなら問題ないよ」
隊長「そうですか…では、あそこに救急隊のストレッチャーが準備してありますから、あそこまで歩くことはできますか?介助しますから」
Yさん「ストレッチャー?介助?いや…そこまでしてもらわなくても大丈夫なんだけどな…」
隊長「まあそう仰らずに、救急車の中で血圧や体温を測らせていただいたり、詳しいお話を聞かせてください」
隊員「さあどうぞ、私につかまってください」
Yさん「いやいや、申し訳ないね」

意識も清明であるのも確認できます。それでもって

隊員が介助しましたが、Yさんはその必要もないしっかりとした足取りでストレッチャーに乗り込みました。

傷病者は60歳代の男性のようですが、これといった持病もなかったようです。この日は平日のようで呼ばれたのは朝の8時チョット前となっています。傷病者は昨晩から発熱があり、翌朝に近所のH病院に受診するつもりだったようです。ところが、

隊長「今日は平日ですがH病院はやっていないのですか?」
奥さん「やっていますよ」

やっている?今は朝の8時台、病院によってはもう開いているし、あと30分もすればどの病院も外来診察を始める時間です。では何で救急車なのでしょうか?

隊長「H病院にかかろうと思って今まで様子をみていたのですよね?H病院には連絡を取られたのですか?」
奥さん「H病院はさっき行ってきました」
隊長「行ってきた?」
奥さん「やっぱりインフルエンザが流行っているのね、朝一番で行ってきたって言うのに20人近くも待つ事になるって言うんです、そんなにはとても我慢できないので一度帰ってきたのですけど…」

判りましたか? 傷病者である60歳代の男性は前夜からインフルエンザを疑わす発熱があり、朝に受診しようと一度は歩いて出かけたが、混んでいて待ち時間が長くなりそうだから歩いて帰宅し、救急車を呼んでの受診を行ったと言う事です。ま、行って帰ったらくたびれて「動けなくなった」とは嘘ではないかもしれませんが、「はぁ」と感じてしまうのは禁じ得ません。


こういうケースが軽症救急の大部分を占めるかどうかまでは私は存じませんが、仄聞する限り滅多に無いとは既に言えない状況であるとしても全く差し支えないかと考えます。小児救急では比較的少ないようには思っていますが、成人救急では医療関係者、救急隊関係者なら誰しも類似の話の経験談を持っていると存じます。

話はこの後に受診した病院の医師がこの患者に

「…あのね、奥さん、救急車って言うのは命の関わるような症状の方のためにあるものなのですよ、混んでいたから帰ってきて救急車って言うのはいかがなものですか?救急車の使い方が問題になっているってご存知ありませんか?」

こういう説教を行っているのですが、

医師「この病院も今も待合室で何十人も診察を待っていますよ、救急車なら早く診てもらえると思ったのですか?」
患者「あは…いや…ほら、まだ診察が始まる時間じゃないから救急車なら待たないで診てもらえると思って…」

こういう悪びれない対応があり、医師が救急隊員にも、

「…ふぅ。平然と早く診てもらえるから救急車を呼んだって言ってのける…、こういうのをどうにかしないから救急医療体制は何も変わらないって思いませんか?」

これはこれで医師の対応として文句のつけようがないのですが、個人的に非常に複雑な思いになるところがあります。医師が救急隊員にこれぐらいを言う事自体は基本的に正しいと思ってはいますし、言われた方の救急隊員にしても「正論ごもっとも」であっても実践は現実問題として難しいです。これは救急隊員だけでなく、医師であっても実は同様です。

言い古された言葉ですが「医療の不確実性」の問題が常について回るからです。現場まで到着した救急隊員が軽症そうに見える患者を置き去りにするリスクは非常に高いです。リスクと言うより「医療の不確実性」が炸裂すれば、一方的にリスクを負うだけの立場にしか無いという事です。

嫌でも何でも搬送してしまえば救急隊員の責任は終りますが、置き去りにすれば下手するとすべてのリスクを背負い込む事態が生じます。ちょっとシチュエーションは違いますが、酔っ払いを警察署に置き去りにした奈良のケースを思い起こしてもらえればと思います。奈良のケースはある程度搬送しておいた方が良さそうな条件もありましたが、今回紹介したインフルエンザみたいな発熱でも結果論として同じリスクが生じる可能性を誰も否定できないです。

このリスクの高低はどこかで線引きできるような代物でなく、それこそ「医療の不確実性」です。あえて喩えれば、出産で無事終わったものだけを安産と言うのと同じです。産科医であってもその産婦が安産に終るかどうかの絶対の予言は不可能です。リスクの高低は長年の経験からある程度予想できても、あくまでも予想であって絶対はないのは常識です。まさかの展開の経験などいくらでもあると言う事です。


世の中の机上の医療議論に「重症」「軽症」があります。まるで最初からこの2つが誰でも判るかのように平然と議論されている有識者が多々おられます。確かに99%精度、いや99.9%精度ぐらいは予見は医師なら可能です。ただし99%であれば100人に1人、99.9%であれば1000人に1人は外れます。たとえ99.99%であっても1万人に1人はハズレです。

1万人は多そうですが、私でも年間に1人以上は99.99%精度でもハズレが出ます。私はとても99.99%まで自負出来ませんから、せいぜい99.9%程度もなく、それ以下です。診療所医療の場合は、ハズレが出ても後日修正は可能です。それこそ「こんな悪くなるとは・・・」で、そこからやり直しは可能です。しかし救急隊員の場合は、その場の一発勝負ですからリスクは非常に高いものになります。



軽症患者の救急車利用問題はある種の社会問題化しています。搬送する救急隊員も、これを受ける救急医療機関も増大した救急需要に青息吐息である事に解説は不要でしょう。だから本来は救急車利用の不適切者である軽症患者の救急車利用を抑制したいの議論が出ています。ここまでは不自然な展開ではありません。ただ「どうやって」の段階で議論は紛糾します。

有力な手法論として救急車の有料化があります。大勢はこちらに動きそうな感触もありますが、有料化でも一律には根強い反対論があります。「本当に救急車が必要な傷病者まで有料化するのは問題である」です。これも正論なのですが、この延長線として「軽症のみ有料化すべきだ」があります。机上の理論としては正論です。

この「軽症のみ有料化」の最大のネックが長々と上で解説した事柄になります。結果論的に軽症そうに見える重症者のリスクを誰が背負うかです。これが救急隊員はもちろん医師であっても100%は不可能であると言う事です。どうしても見落としが生じます。見落としが生じた時に事は医療ですから重大な結果、時に命に関る事も起こります。

死亡に繋がった時はもちろんですし、重大な後遺症が生じた時も遺族や家族は当然のように怒ります。もっと軽い結果であっても不満は渦巻きます。その怒りの償い問題は必然として発生します。責任問題は軽症重症の判定者に向けられるのもまた必然の流れです。救急隊員が判定者なら救急隊員、救急医療機関の医師ならその医師です。

金銭としての責任者は現場の救急隊員や医師に必ずしもなるわけでなく、その管理者である消防署や医療機関に訴訟手続上はなるかもしれませんが、とりあえず非難の矢面に立たされるのは現場の救急隊員なり医師になります。


ここで問題なのはそういうリスクを負う者に直接のメリットが非常に乏しい事です。救急車問題全体から見れば、そういうリスクを背負って軽症救急抑制に努める事はメリットとは言えますが、現場の個人はデメリットが余りに大きいことです。現場の個人だって軽症救急が減少する事はメリットにはなりますが、引き換えに負わされるデメリットはとても等価とは言えません。

軽症救急抑制のためのポイントは抑制による発生する見逃しリスクを誰が背負うかにあると見ています。背負う対象は医師、救急隊員、そして傷病者です。この3者の誰が背負うかに尽きると思っています。有料化のうち一律方式は傷病者に背負わせる方式と取ります。軽症のみ方式は医師や救急隊員に背負わせるものと考えます。

当たり前ですが本音では3者とも背負いたくないです。難しいお話と思っています。