懐かしい時代の甲子園のスコアボード

この炎天下の真昼間に試合をするとか、1人の投手が連戦を投げぬく無謀さとかが最近は問題視されている面もあるようですが、今日はあえて置かせて頂きます。

甲子園も大改装と言うより実質建替えていますので昔とは違うはずですが、かつてのイメージを巧みに残していますので、たまに高校野球を見てもそんなに違和感がありません。伝統を良い方に受け継いでいると思っています。それでもやはり変わっています。悪い方にではありませんが、盆休みの徒然に見ながら思い出していた雑談です。


甲子園のスコアボードも開設当初は仮設であったとされ、バックスクリーンまで観客席があったとされます。でもって初代のスコアボードは1925年に正式に設置されたそうです。どんな感じかなんですが、

1933年の伝説の中京商−明石中の延長25回の時の映像ですが、延長16回まで標示可能になっています。今見ながら面白いのは、延長戦がスコアボードを越えた時の対応で、当時は大工を急遽呼び寄せて仮設の得点板を作ったとなっています。なるほどいかにも急造の仮設です。では中京商−明石中が初めて延長16回を越えたかと言うとwikipediaより、

1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長十九回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ

当時の常識としてスコアはすべて表示しなければならないのお約束があったんだろうぐらいしか言えません。ただなんですがいくら急ごしらえと言っても、延長が決まった時点で大工や丸太がイニングの交代時に間に合うとは思いにくいところがあります。大工はまだしも丸太は無理でしょう。そうなると延長用の仮設スコアボードの資材はどこかに準備されていたのかもしれません。


この初代スコアボードは1934年に2代目に変わります。2代目は1983年まで延々と使われ私も子ども時代から大学時代まで慣れ親しんだものはこれです。これもまた変遷があるようで甲子園スコアボード史に詳しいのですが、まずは1939年のものです。

戦時下体制なのでスコアボード上に戦意高揚スローガンが設置されているのは愛嬌としても、私の記憶に残る旧スコアボードと若干違います。相違点は、
  1. 真ん中の凸部がSBO(当時はスボア表示)になっている(後年に大時計になる)
  2. スコア表示が9回までである(後年に12回までになる)
スコア表示ついては微妙でどうも下段があったようで、、延長になればここに表示されていたようです。それでも18回表示なのですが、越えた事は1回あったようで、この時も仮設が作られたそうです。どうもなんですが中央の凸部に大時計が配置され、延長表示が12回になり、足らなくなったら仮設を作るのではなく、
こうなったのは1954年からのようです。以後野球漫画の中の強打者が幾度も大時計を打ち壊す事になります。


スコアボードは手書きなのですが、1978年まで重さ7kgの鉄板だったそうです(以後はベニヤ板に変更)。これも知っている人は知っていますが実に雨に弱かった。ボードは使い回しが前提のため水で簡単に洗い落とせる塗料でしたが、雨が降れば落ちてしまいます。

甲子園大会はプロに較べると雨天決行のハードルが低くグラウンドが泥田ぐらいなら中止になりません。そうですねぇ、泥田から水田になったら中止でしょうか。そんな状態で試合を行えばスコアボードの字はドンドン消えていきます。横なぐりの雨ならとくにひどくて、中継でスコアボードを映しても

  1. 出場校は不明
  2. 選手名は不明
  3. 得点はゼロ以外は不明(ゼロはペンキだったようです)
スコアボード内の裏方は大変だったそうです。後期の延長戦が13回に入った時の風景も懐かしいものです。12回までの表示を一旦消さないといけないのですが、その時に1回から順番になんて方式ではありませんでした。それこそランダムにバタバタ消していく状態です。たぶん裏方の人数の配置の問題でしょうが、ある種の名物でした。

それとこれも大変だったと思うのは大量得点時です。時に5点とか6点とか、たぶん2桁だってあったと思っています。公式記録員からでも連絡があったのでしょうか。それとも得点が入るごとに書き直して表示していたっけ? さすがに忘れてしまいました。


現在のスコアボードは先代のスコアボードの面影をよく残しています。ただあれも出来た時には少し違和感がありました。一回り大きくなったのはともかく、そっくり後ろに移動しているからです。つまり旧スコアボードは現在のスコアボードの前にあったのです。それでも人間の慣れは怖ろしいもので、今ではすっかり馴染んでしまいした。

もうどれだけの人が旧スコアボードを覚えているんでしょうかねぇ。