田中さんの旦那だって良い人に見えたのよ。たぶんぐらいだけどエリート社員だと思うし、見た目だって好みはあるにしろ優しそうな人だったもの。あのクラスの旦那でも他の男を求めちゃうんだよね。
「その点で千草は安心しとる」
ちょっと待て。それはトゲが確実にあるぞ。素直に取れば千草がコータロー一筋で心配が無いって意味になるけど、同時に千草が不倫に走りたくても相手してくれる男がいないにも受け取れるぞ。
「そういう意味や無いって。オレの心の故郷に男はオレしかおらんからや」
それはコータローの心の故郷の話で、千草の故郷には他にも男はいるんだからな。もっとも、故郷に限定しなくても、千草に振り向いて来る男はいないのは・・・コンチクショウ、覚えてやがれ。
だからコータローが千草を選んだわけじゃないと信じてるけど、不倫をするにもやっぱり見た目が九割だよな。不倫だって恋愛の一種だから。見た目で惹かれなかったら始まるわけないもの。だったら美男美女同士の夫婦なら、
「芸能人の離婚なんて数え切れんぐらいあるわ」
そうなる。離婚してない方が少ないぐらいかも。不倫は文化なんて公言してるのもいるぐらいだものね。でもさぁ、結婚して夫婦にまでなってるのに、
「恋人同士でも別れるのはいくらでもあるやんか」
まあ、そうなんだけど、
「距離感はあるかもな」
なんだそれ、
「リスペクトって言うてもエエかもしれん」
リスペクトって尊敬って意味のはずだけど、わかりにくいな。
「親しき仲でも礼儀ありってやつや」
もっとわかりにくいぞ、コータロー、
「リスペクトがあるって言うのは、それだけ二人の関係に距離があるって事や。この距離感が夫婦は特殊な気がするねん」
夫婦の距離感は近いなんてものじゃないけど、同じように近いものなら親子関係もある。でも同じじゃないな。深い仲、それこそ同棲するぐらいの恋人関係とも違う気がする。
「親子とか、恋人ってどんなに近くなっても最後にリスペクトがあると思わんか」
親子関係なら親に対する敬意とか、育ててもらった恩とか、そもそも産んでもらった人ぐらいかな。それに歳だって離れてる。恋人関係は、
「相手にもっと好きになって欲しいとか、気に入られたいとかや」
なんとなくコータローの言いたいことがわかってきたぞ。どんなに関係が近くても、そこにリスペクトが存在したら、最後の最後のところで距離が出来るぐらいで良いはずだ。これが夫婦になると、
「その最後のとこを踏み越えてまうんちゃうか」
理屈はわかるけど具体的には、
「リスペクトがあったら、そこに礼儀があるやんか。礼儀があったら配慮とか、心遣いとか、遠慮が出て来るやろ」
コータローが言いたいことってそこか。人を好きになって恋するのも、その人に対するリスペクトが根底にあるってことだよね。そりゃ、リスペクトも出来ない相手に恋なんか出来るものか。
そのリスペクトを踏み越えてしまうことが夫婦関係で起こるということか。それはなんとなくわかるぞ。急に男尊女卑の亭主関白野郎になったり、妻よりもママン大好きのマザコン野郎に豹変したりだ。
「女かってグータラになったり、浪費癖に走るのはおるやろうが」
それは男もだろうが。リスペクトが薄まるどころか無くなってしまえば、そこには無遠慮が闊歩する世界になりそうだ。それとだけど、コータローの理論ならリスペクトとは愛情とニアイコールみたいなものになるから、
「不倫へのハードルも下がって行くんちゃうか」
ウンザリしかないような世界じゃないの。それって千草たちも、
「それはこれから二人で経験する事やろ」
そ、そうなるか。コータロー理論の夫婦に誰しもなるわけじゃないだろうけど、なにかをキッカケになっていく危険性はいつでもありそうだもの。千草だって夫婦をやるのは初めてだから、
「これもどこまでホンマかわからんけど、再婚カップルの方が上手く行くって話もあるよな」
それって初婚の時の苦い経験が活かされてるとか。でもそうかもしれない。キッカケのそれこそ始まりって何気ないものだと思うのよ。少なくとも片方にとっては取るに足らない些細な出来事みたいな感じだ。
それがいつしか二人の間に溝を作り、そこからすきま風がビュービューと吹きまくり、リスペクトも枯れはてるから、新たにリスペクトを出来る相手に流れて行ってしまうぐらいだとか。
嫌だよ、嫌だよ、そうなりたくないよ。コータローはこの歳まで千草が探しまくって、やっと見つけた男なんだよ。それもだよ、夢じゃないかと思うほど良い男だ。そりゃ、医者だし、人気イラストレーターとして二足のワラジを履いてるし、見た目だって惚れ惚れするほどのイケメンだ。
こんなもの二度と代わりが出てくるはずないじゃないの。千草がやっとつかんだ唯一人のそれも最高の男なんだよ。夫婦の呪われた運命から逃れるには、
「おいおい勝手に夫婦を呪われたものにするな。祝福されてなったのが夫婦やろ。そやから千草は安心してるねん。こんなもんな・・・」
コータローの考えてる対処法はアホみたいにシンプルだ。リスペクトを保つのが最後のカギなら、それを保たせれば良いって。そんなの当たり前じゃないと言いたいけど、
「それが保証付きで出来るのが千草や。こんなエエ女がそうそうはおるかい」
なんかバカにされてる気がするけど、千草はコータローが大好きだ。もう惚れて、惚れて、惚れまくって夢中になってる。これは夫婦になっても変わらないどころか。夫婦になってなおさらなのは胸を張って言えるぐらい。
それぐらいコータローは良い男なんだ。その中でも一番だと思うのは、怖いぐらい相性が良いところかな。あれだってメロメロにされるぐらい相性が良いのは体で経験させられてるけど、それだけじゃないんだよ。
千草はね、自分がブサイクの自覚はテンコモリあるのよ。だからコータローに求められたら、何があっても応じようって心に決めてたんだ。そのためにピルも飲んでるよ。せめてそれぐらいは頑張らないと千草の価値がないじゃない。
でもさぁ、現実はシビアなんだ。コータローとのあれは大好きとは言え、どうしたって気分が乗らない時は出て来る。仕事で疲れてるとか、あれこれ嫌な事があって、そんな気分にならないとか、
「若い時みたいにお日さんが黄色く見えるまでは無理やもんな」
やってたのかよ! でも千草は経験こそないけど、気分だけはわかるかな。
「オナニーを覚えさせられたサルみたいなもんや」
なんちゅう喩えだよ。それで死んだって話ってホントなのかな。でも近いのは近いかも。そうだな、好きなゲームに熱中するのと似てるかもしれない。大学生ぐらいだったら体力も時間もあるし、
「その代わりに遊びに行くカネがあらへん」
まあ、そうなるかもね。それぐらい夢中になれるものなのは、この歳になって実感させてもらってる。いかん、話が脇道にそれ過ぎた。そうじゃなくて、やりたくない日がどうしたって出て来るし、逆にやりたい日も出て来る。
この見切りがコータローは凄いと思ってたんだ。だって、見事なぐらいに千草の欲求にシンクロしてたもの。でもね、でもね、これは千草の思い違いだったで良さそうなんだよ。
「当たり前や、そんなもんが見切れるか!」
そういうこと。実際は二人のやりたくなる周期が怖いほど合ってるんだ。これって重要な事だと思うのよ。だってさ、これが合わないとこっちが欲しい時に応じてくれないし、こっちがやりたくない時に求められてしまう。
「こんなんもキッカケになるかもな」
なるよ絶対。だってさ、やりたい時にやれなかったら欲求不満になるしかないじゃないの。女だから無理したら応じることは出来るけど、そんな状態でやっても楽しいどころか辛いだけじゃない。
「そのうちにレスになって、欲求不満を満たすために不倫に走る」
夫婦の愛はあれがすべてじゃないけど、千草は欠かせない大事なものと思ってる。そもそもだけど、あれの相性が悪いと結婚なんか、
「しとるのもおるで」
うぐぐぐ。否定できない。それでも千草にとっては大事な大事な夫婦の営みなんだ。あれ以外だってコータローとの相性の良さはいっぱい、いっぱい感じてるんだ。夫婦生活って二人の生活リズムのぶつかり合いの部分があるじゃない。
コータローともあったけど、ぶつかる部分より合ってる部分が最初から多かったし、ぶつかった部分だって、すぐにピッタリと合わさってしまってるもの。それこそ、一緒にいるだけで、お互いが次に何をしたいかわかってしまうぐらい。コータローだってそう思うでしょ、
「ああそうや。オレなんか中学の同窓会で千草を見た時にビビっと来たぐらいや」
ウソつけ。あん時のセリフは今でも忘れてないぞ、顔を合わせていきなり言ったのが、
『千草はホンマに変わってへんな』
あれって昔のままにブサイクだって意味だろうが!
「なんでそないに悪い方に取るねんよ。四歳の頃と変わらん美少女やって意味や」
無駄な抵抗はやめろ。そんな気はなかったぐらいはわかるんだから。でもそれでも構わない。だって、それは千草の見た目に惚れたのじゃなく、千草の心に惚れたってことだもの。それにウソ偽りがないのは現実が日々証明してくれてる。
あんまり難しく考えるのはやめよう。千草は末次さんとの生野銀山との一件で、見たまま、感じたままのコータローを信じることに決めたんだ。
「ところで千草」
裸エプロンはNOだ。
「そうやなくて」
今夜は欲しかった。なんて幸せなんだろ。この幸せを手放すものか。