妙手???

妙手とは、

  1. たくみな技量。すぐれた腕前。また、その持ち主。「琴の―」
  2. 碁・将棋で、他人には予想もできないうまい手。

1.の意味ももちろんありますが、最近ではそれほど使われないような気がします。例に挙げられている「琴の妙手」ですが、これより「琴の名手」とする方が多いと感じています。ですから「妙手」と聞いてまず思い浮かぶのは2.の方が多いと思っています。また妙手と言うときには碁や将棋に限定されるわけではなく、ある難しい事態に直面した時に編み出された画期的な打開策にも使われると考えています。画期的と言う表現にも何となく違和感がありますので、ちょっと思いつかない方法ぐらいのニュアンスです。

ところで医療の問題の中で救急問題は大きなものになっています。周産期救急や成人の救急も難題ですが、小児救急の問題も出口の見えない問題になっています。私も小児科医ですし、医療問題については関心をもっている方なので、固い頭で対策を考える事はあるのですが、「妙手」みたいな解決策はとうてい浮かんできません。もちろん私だけでなく医療問題に心を悩ます者は種々の対策を考えはしますが、問題の大きさと打てる手の狭さからニッチもサッチも行かないのが実感です。

そんな中で「妙手」を提案された方がいます。だってタイトルからし【断 久坂部羊】小児科救急を救う妙手となっていますから、どんな妙手か興味を持たざるを得ません。それがたとえ閣下であってもです。

 小児科救急の崩壊が問題になっている。ただでさえ小児科医が少ないところに、救急患者の数が多いため、負担に耐えきれなくて、病院を離れる医師が多いせいだ。

 小児科救急の約9割は軽症患者だといわれる。この患者が受診を控えてくれれば、小児科当直医の負担は大いに軽減する。しかし、親は心配だから、どうしても病院に連れていきたくなる。

 この状況に対し、大阪のある小児科医が、子育て支援の一環として、病気やけがのときの応急処置や受診のタイミングを、母親に教える講座を開いている。

 ユニークなのは、一般的な医学知識は教えないことだ。それをやると、心配が増えるばかりだからである。教えるのは、ふだん家でできる具体的な対処法。たとえば熱が出たとき、ふとんを着せるのか、体を冷やすのか、エアコンはどうすべきか。あるいは、子どもの顔色はどう見るのか、手足のけがはどう処置するのか、お腹(なか)の調子を見るにはどこを押さえればいいのかなど、日ごろから子どもの状態を把握する方法だ。

 親は基本的に自分の子どもの状態がわかれば安心する。ふだんの状態を知っていれば、異常があったとき、病院へ行くべきか、もう少しようすを見ていいのか、ある程度、落ち着いて判断できる。

 そういう知識は、かつては家庭内で、祖母の世代から母親に伝えられたものだ。今の親も知識があれば冷静になれる。病気やけがに親が少し対応できれば、それは子育てにも有益だし、小児科救急の負担軽減にも大いに貢献する。(医師・作家)

閣下にすれば平凡なお話で小児救急への対策として、

    小児科医による母親への啓蒙
これを提案されています。啓蒙による対策は本筋として間違っていませんし、現実にも行なわれています。有名なのは柏原の運動で、かなり根付いているとの情報も仄聞します。柏原の例を持ち出すまでも無く、私のような開業小児科医も時間の許す限り行なっていますし、行政もこれを行なっています。また各種の育児雑誌でも繰り返し、繰り返し特集で行なっています。どの育児書にも基本的なことは必ず書いてあります。

ここで問題の焦点は啓蒙だけでは「どうしようもない」の段階で問題が検討されています。柏原の成功はとても一般化できないというのが認識です。柏原の成功には強固な地域コミュニティが健在であるという前提が必要です。柏原方式が成功するところは、どうしても限定的にならざるを得ない側面があり、地域コミュニティが希薄な都市部では同様の成功を収め難いと考えられています。

それと啓蒙方式の難点は、知識と実際の乖離があります。知識として持っていても、我が子のイザになればうろたえるのが親です。これは医療関係者、いやたとえ医師であっても例外とは言えないところがあります。知識の実際を経験しなければ身につかないのが現実です。知識だけがいくらあっても、それを裏付ける経験がないと、冷静に判断して行動するのは容易でないのは誰しも経験する事です。

それと閣下が例に挙げた小児科医の講座ですが、現在の医療に期待される水準からするとかなり危険な点を含んでいます。小さな子供の症状を把握するのは小児科医であっても容易でありません。容易でないからわざわざ小児科という診療科が成立しているわけで、見た目の症状を知識だけで表現するのは限界があります。知識で症状を表現すれば教条的な世界に陥る事はしばしばあります。

教条で表現すれば啓蒙はラクではありますが、教条の例外例が一番怖いのが医療です。小児救急の制限でもっとも難題なのがその点です。小児救急に従事するものは何とか制限法を考えようとしますが、制限を教条的にすることによるピットフォールが非常に怖いのが常に大問題になります。そこで例外例を少しでも強調すると、親の理解として「とにかく救急へ」になりがちになります。

軽症と重症の判断は時に結果論になります。軽症に見えても結果として重症であったり、重症と思っても思いの他に軽症であることは医師が診察してもしばしばあります。ですから啓蒙の方向性として、どこをどう見ても軽症であるものぐらいは、なんとかならないかが主眼にせざるを得なくなります。このどこをどう見ても軽症レベルの判断も、知識だけではやはり難しく、何回かは経験を積んでもらわないとやむを得ない側面があるとぐらいに考えざるを得ません。

もう一つの啓蒙の方向性は、日勤帯の通常診療に受診できるケースは、できるだけそうしてもらいたいというのがあります。ただこれは啓蒙を行なう上で最大の難題になります。啓蒙の効果がある方はすぐに理解し対応してくれますが、そうでない方はいくら啓蒙しても効果が非常に乏しいところがあります。小児に限らない事ですが、軽症であったから受診は不要のケースより、そちらの方が担当医の徒労感を深くします。

この啓蒙が通じない相手はわざわざ時間外受診を繰り返すだけではなく、その行為を周囲に吹聴する傾向があり、なんとか啓蒙できた人も再びコンビニ受診に戻してしまう事さえありえます。啓蒙と言う運動の限界点は、それを聞く耳を持つ人以上には通用せず、聞く耳を持たない人の数だけで小児救急は危機に瀕している状態が今とも見れます。

工夫の余地はまだあるとは言え、余地の伸びシロは夢のような期待が出来る程の物ではありません。


それと

そういう知識は、かつては家庭内で、祖母の世代から母親に伝えられたものだ

これは既に伝承が途絶えたのは小児科医の常識です。かつては「おばあちゃんの経験」は小児科医が軽視してはならないものとされましたが、現在では完全にそうでなくなっています。原因は幾つかあるでしょうが、核家族化と祖母世代の育児経験の現象です。育児技術が伝承されていた頃の祖母世代では多くの自分の子供を育てるだけではなく、身近の他の子供の経験例を豊富に情報として蓄えていました。それが綺麗に消滅してしまったという事です。

育児技術の伝承のためには失敗例の教訓の伝承が欠かせないのですが、人間は苦い記憶を忘れ去る動物です。成功体験は割りと覚えていますが、失敗体験はよほど強烈でないと忘れてしまうという事です。かつては忘れられないほどの失敗経験を積まざるを得なかったのが、現在では忘れ去る程度のものになり、現在の祖母世代が伝える伝承は漠然と「あんた(母親)の時はうまくいった」程度になっているのが現実です。


親に対しての啓蒙の必要性は主張として間違っていませんが、小児科医も関係者も営々とそれを行ってますし、様々な試行錯誤を繰り返しています。決して誰も気が付かなかった「妙手」ではなく、基本中の基本として行なわれている事です。つまり閣下にわざわざ指摘して頂かなくとも対策中の事柄であるという事です。さらに言えば現在直面している問題は、啓蒙ではどうしようもない現実への苦慮です。

今日は余りにも常識的なお話ばかりで退屈だったでしょうが、閣下の提案した「妙手」は、作家としての提案なら単に苦笑ですが、医師としての提案なら用法を誤った「タイトルに偽りあり」の内容です。