続々原因は

どこの続きの話かと言うと、

この話の続編です。ちなみに事件が起こったのが2010.5.27、報道が為されたのが2010.12.21になりますから、2年前のお話です。当時はマスコミ報道を中心に情報をかき集めた上での推測でしたが、続編を書いたのは新たな資料を入手したためです。出所については明かせませんが、この事件に関連して助産師会が出産に関った助産師を除名処分にした文章です。なにぶんjpgなのでやや読み難いのですが、偽造品ではなく本物のコピーと判断できると考えます。


出産前の経緯

前回までは産婦の年齢ぐらいしかわからなかったのですが、かなり詳細な情報が掲載されています。

 39歳の初産婦で、近くの産科診療所で健診を受けていたが、助産所での出産を希望し、34週から助産院を受診した。助産院での健診は、34週、37週、38週の3回のみであった。36週の医師健診で「胎児が小さい2298g」と指摘され、自宅で安静にしていた。

ここで助産師会が指摘した問題点は、

  • 39歳、初産婦を妊娠34週から扱っている
  • 36週の医師健診で「胎児が小さめ2298g」といわれたが、医師と管理方針を話し合っていない

平たく言えば、ハイリスクにあたる高齢の初産婦の分娩を請け負った上で、医師によるIUGR(今はFGRと言うそうです)の指摘を無視しているぐらいで宜しいかと思います。助産師会の指摘は間違っていないと思うのですが、事実関係は何かを伏せているような違和感を覚えます。妊婦が助産所出産を望んだのは事実でしょうが、この事をそれまで診ていた産科医に果たして伝えていたのだろうかです。

34週から助産所に受診したとなっている一方で、36週にも産科医の検診を受けています。産科医と助産師の連携があれば高齢初産婦であるだけでなくIUGRの可能性のリスクも加わるので、当然ですが「どうする」の協議が必須のはずです。どうやら妊婦は助産師に産科検診による「胎児が小さめ2298g」を伝えた様ですが、これに顧慮せずに分娩に突き進んだのは事実です。

あくまでも憶測ですが産科医に断りなく助産所分娩に切り替え、助産師もこれを受けたんじゃないかの可能性も考えます。


分娩までの経緯

助産師会の記録より、

 2010年5月27日、39週0日(出産前日)午前3時より不規則な陣痛があり、午後6時50分に間欠10分発作30秒、子宮口開大1cmであった。自宅が助産院のすぐ近くであるため、自宅待機を指示した。

 2010年5月28日、39週1日(出産当日)の朝、産婦より助産院に電話があったが来院しなかった。当該助産師が午前6時20分に産婦の自宅を訪問すると子宮腔全開大で、産婦は動けない状態であった。午前7時10分破水し、午前8時12分に自宅にて分娩となった。

この経過に対する助産師会の指摘です。

  • 陣痛発来している産婦を自宅待機させ、来院できない状況になるまで約12時間観察していない
  • 自宅到着時の胎児心拍聴取の記録はあるが、分娩にいたるまで約2時間の胎児心拍記録がない

12時間か・・・これの数え方は「午後6時50分に間欠10分発作30秒」からになります。その前の「午前3時より不規則な陣痛」からだと15時間以上27時間以上になりますが、おそらくですが産婦から助産師に連絡が入ったのが「午後6時50分に間欠10分発作30秒」ではないかと考えます。

さて前に考察した時にはアングラ情報として出前専門の助産師だとありましたが、助産師会のレポートを読む限り助産所を経営している気配を窺わせます。ここは一つのポイントで助産所を持っているか、出前専門かで助産師も少々違います。簡単に言えば嘱託医を持っているか持っていないかです。助産所を持っているなら産科嘱託医の存在が必要ですが、出前専門ならそれは不要の見解を助産師サイドは持っています。

この助産師が助産所を持っているのなら、高齢初産婦かつIUGRの可能性もある妊婦の取扱いを嘱託医に相談しているかどうかも問われるところかと思われます。もちろん分娩後に起こるトラブルに対する対処にも嘱託医の存在理由が出てくるはずです。

どっちにしてもですが「午後6時50分に間欠10分発作30秒」からさらに「朝、産婦より助産院に電話」があっても助産師が「自宅が助産院のすぐ近く」であるにも関らず動こうとしなかった理由自体は説明されていません。あえて推測すれば高齢初産婦ですから「どうせ時間がかかる」で高を括っていたぐらいです。


分娩後の経緯

助産師会の報告より、

午前8時12分に自宅にて分娩となった。APスコア7点(1分後)。

 出生後の新生児の呼吸状態が悪く、出生1時間20分後に当該助産師の自家用車にて近くの小児科Aクリニックに搬送した。Aクリニックでは対応しきれず、出生約2時間後に当該助産師の自家用車にてH病院に搬送した。しかし、H病院では人工呼吸管理ができないため、出生約4時間30分後に救急車にてC病院に搬送された。ところが、C病院にて重度の熱傷が判明し、熱傷管理のために出生約10時間後に救急車にてY大学病院に搬送された。

診断:低体温、呼吸障害(胎便吸引症候群)、重度熱傷(足指3本切断、熱傷の原因は不明)

ここでまず2010年12月時点でマスコミ情報からかき集めた経過を再掲しておきます。話が少しだけ遡りますが、

日付 時刻 事柄
5/27 不規則な陣痛があり助産所受診。「まだ大丈夫」と言われ帰宅。
深夜 陣痛が強くなり助産師に連絡
5/28 8:12 助産師立会いの下に出産
9:45頃 乳児の呼吸状態が悪く、助産師の判断で診療所に搬送
時刻不明 診療所では対応しきれず、秦野日赤に搬送。呼吸不全、低体温症の診断
13:50 秦野日赤から市立病院に転送
日付不明 時刻不明 熱傷が発見され、大学病院に転送
6月 右足の小指と薬指、左足の小指を切断


当時の情報で
    不規則な陣痛があり助産所受診。「まだ大丈夫」と言われ帰宅。
出産前日の陣痛発来の時には産婦は助産所まで行っているようです。たしかに出産当日の朝は助産師会のレポートでは「電話」と明記されていますが、前日の陣痛発来時については記述がありません。さらに助産師会の「12時間」を信じれば助産所を訪れた時には
    午後6時50分に間欠10分発作30秒
こういう状況であったわけです。いや助産所を訪れた時にはまだ至ってなかったかもしれませんが、どう考えても間もなくそうなったわけです。そうなると不思議なのは産婦が次に連絡を入れたのは翌朝です。どういうアドバイス助産師が産婦に行ったかは興味深いところです。



この話はこの辺にして、新生児への対応への助産師会報告です。

  • 分娩を1人で扱っており、出産後新生児搬送が切手からも助産師を手配していない
  • アプガースコア計測が生後1分のみであり、低体温、胎便吸引症候群と診断されているが、バイタルサイン計測を一度も行っていない
  • 出産時に羊水混濁なしと判断しており、吸引が十分に行なわれていない
  • 搬送の必要性を判断する時期が遅い
  • 呼吸障害があって搬送しているにもかかわらず、呼吸障害の治療が行えないクリニックに搬送している
  • 自宅に出産直後の産婦を残して新生児搬送に同行しており、産婦の管理が行われていない
  • 搬送から戻ってきてすぐに産婦を訪問しておらず、産後のフォローが不十分である
  • 搬送先2施設目まで救急車でなく、自家用車で搬送している
  • 4施設にわたっての新生児搬送となったが、同伴したのは最初の2施設のみで、2施設目も処置の途中で、30分程度で帰宅している
  • 新生児の搬送先に対して経緯説明等を行なっておらず、本会の指導を受けてから説明に行っている

少し的外れじゃないかの指摘もある様には思いますが、確認できる事実として幾つかピックアップしておきたいと思います。

まずなんですが出生時体重の記載がありません。出生時データの記載の常道は週数に続いて、出生時体重を記載するのは初歩の初歩です。今回は妊婦検診でIUGRの可能性を指摘されているわけですから、小さくないポイントだと思うのですが、助産師会レポートが伏せたのか、当該助産師が計測していなかった、もしくはカルテに記載していなかったぐらいが推測されます。

それ以外で助産師会報告で気になるのは、

  1. アプガースコア計測が生後1分のみ
  2. 自宅に出産直後の産婦を残して新生児搬送に同行しており、産婦の管理が行われていない
  3. 新生児の搬送先に対して経緯説明等を行なっておらず

Apgar計測の原則は、満点(10点)になるまでの経過観測が必要です。最低でも生後5分の計測が必要です。1分値が7点は無茶苦茶悪いとは言えませんが、注意を要する数値であるのは常識です。それとこれは私の狭い経験に過ぎませんが、小児科医が計測するのに較べるとやや甘い印象があります。当該助産師がどうであったかは確認する術もありませんが、通常の感覚であれば1分値7点と計測すれば、必然的に5分値はどうかは自然に注目されると言う事です。

もちろん場合によっては5分値を計測する余裕がない時もあります。助産師は1人で対応しているわけですから、児の処置に追われて計測するどころでなかったです。ただこれも状況からして疑問符は付けられます。最初の搬送判断まで1時間以上あるからです。


秦野日赤搬送を巡る推測

最終搬送先のY大学病院(横浜かな?)からの指摘にも注目すべきものはあります。

  • 当該助産師の新生児の異常に対する緊急判断が極めて乏しいこと
  • 周産期救急システムを利用し、嘱託医療機関の2次救急機能を有するO病院に搬送すべきであったこと
  • 到着時にはまれに見る重度の低体温状態であったこと
  • AクリニックからH病院に自家用車で搬送しているが、救急車で搬送すべきであり、救急隊員が対応していたら状況は変わった可能性があること
  • 助産師が新生児蘇生Bコースを受講しているのに適切な対応ができていないこと
  • 家族への対応が不十分であること

ここから推察できる点は、当該助産師には嘱託医がおり、それはO病院(小田原かな?)である事です。そこへの連絡はまったく行なわれていなかったです。これはたぶんですが、高齢初産婦の分娩を請け負った事も、産科検診でIUGRの可能性もある事も連絡・相談は行なわれていなかったと考えて良さそうです。それと小児科開業医から秦野日赤への搬送手段の選択の主導権も当該助産師にあったと判断してこれも良さそうです。


前からの疑問なんですが、開業小児科医から秦野日赤の選択はどう行われたのだろうです。常識的には受診が行われた開業小児科医が搬送先を探したと考えたいのですが、どうもそうシンプルなものではなさそうな気配があります。助産師会報告で確認できる事実として、

  1. 助産師は嘱託医療機関であるO病院(小田原かな?)に連絡を取った形跡がない
  2. どうも秦野日赤への搬送手段として自家用車を選んだのは助産師主導の形跡がある
小児科医が主導権を取っていれば救急車を選択しない理由がチョット思いつかないのです。助産師が主導権を握れる理由として強いてあげれば、手続き上の問題があります。通常の小児入院と異なり、新生児入院の場合は新生児搬送用紙が必要です。なくても入院は出来ますが、あった方が好ましいです。これはまず開業小児科にはありません。うちももちろんありません。持っているとすれば助産師じゃないかです。

さらに報道時のドライヤー話があります。今日は熱傷の原因について新たな情報がありませんのであえて深く触れませんが、秦野日赤ではクベースを温めるためにドライヤーをどうやら使ったらしいはあります。ではクベースを温める時間がなかったかですが、助産師会の報告では

    出生約1時間20分後に開業小児科医
    出生約2時間後に秦野日赤
単純計算ですが開業小児科医に到着してから秦野日赤に到着するまで40分あります。いつの時点で秦野日赤に連絡が入ったかは不明とは言え、開業小児科医を出発する時にはクベースの保温は始まっていたはずです。前に調べたらマップ上で6.5km、時速40km平均でも10分ぐらいは必要です。10分もあればクベースは温まっているんじゃないかです。

それと秦野日赤では呼吸管理が出来ずにさらに次の搬送先に移っているのも事実です。開業小児科医とは言え、児の重症度はある程度までわかるはずです。この辺は力量差があるのは否定はしませんが、秦野日赤の小児科医に症状を伝えれば、ある程度の判断は秦野日赤の小児科医にも出来るはずです。時間帯は平日の日勤帯の朝ですから、症状を聞いて対応しきれそうになければ、他を当たってもらう選択は十分にあるです。

何が言いたいかですが、助産師は開業小児科医を受診した後に、そのまま秦野日赤に飛び込んだ可能性も十分にあるのではないかです。だから救急車も使わず、また秦野日赤もドライヤー使用までして緊急にクベースを温めたり、さらに再搬送を余儀なくされたです。

小児科医師間の、とくに新生児の搬送ではそんな事が起こるのを想像するのも難しいのですが、当該助産師の行動を確認していくと起こしている可能性は否定できないです。それでもY大学病院の指摘は、

    AクリニックからH病院に自家用車で搬送しているが、救急車で搬送すべきであり、救急隊員が対応していたら状況は変わった可能性があること
この表現をどう取るかで変わります。救急車の搬送を指摘しているぐらいですから、やはり秦野日赤への連絡はあったとも受け取れない事もありません。しかしです、もしクベースを緊急でドライヤーで温めるような事態に見舞われたとしたなら、開業小児科医と秦野日赤との間に情報の齟齬があった可能性があります。と言うのは救急隊員とて新生児相手ではやれる事はより限られます。

「救急隊員の対応」とは、ひょっとしてより正確に児の状態を病院に伝えるの意味が含まれているようにも思われます。実はこれもおかしな話で、医療知識的には「助産師 > 救急隊員」です。もし小児科医が情報を伝えていたのなら、「小児科医 >> 救急隊員」です。う〜ん、実際はどうなっていたのかの謎は不明としなければならないようです。

ここの疑問を整理しておくと、

  1. 他にも選択枝があるにも関らず、何故に秦野日赤が選択されたか
  2. 秦野日赤は十分な対応が出来そうにもなかったのに何故に要請を応諾したか
  3. 秦野日赤に要請した(情報を伝えた)のは助産師であったのか、それとも開業小児科医であったのか
  4. なぜに救急車を選択しなかったのか
  5. もしクベースをドライヤーで温めたとしたら、そこまでの準備不足が何故に生じたのか
私ではこれ以上は無理です。ちなみに疑問として列挙していますが、新生児ではむしろ「やっていない」方が不思議な事柄であり、疑問の性質としては「やっていない」もしくは「できていない」理由です。


理由をあえて考える

「あえて」の前提なのでその程度の代物としてお願いします。これも助産師会の報告にあるものですが、

すべての搬送先の医師より初期対応のまずさを指摘されたいるが、当該助産師は「私はやるだけの事をやったので悪くない」という認識で、謝罪の気持ちを感じられない。

謝罪の気持ちは置いとくとして、かなり状況を軽視していたように見えます。軽視していたこそ1時間以上も褥婦宅で粘り、最初の搬送先に小児科開業医を選択したんじゃないかです。秦野日赤に搬送した段階でも、クベースで温めて、酸素をしばらく投与すればすぐに回復するぐらいの状況判断で動いていたとすれば話の筋は通るには通ります。

経過からすると、まずちょっと背伸びして高齢初産婦の分娩を助産師は請け負っています。これが背伸びした感覚があったのか、日常的にそうであったのかは情報がありません。次に分娩時期の判断の誤りがあります。もっと余裕があるとの判断であったのが、駆けつけた時には既に子宮口全開状態です。「しまった」ぐらいはさすがに感じるかと思います。

それでもここまでは結果オーライかもしれませんが、次に児の状態が良くなかったです。これ以上のミスを重ねない様に「児は悪くない」を判断の基軸に据えたです。今回のような大騒ぎにならずとも、これで児が入院なんて事になれば後々宜しくないです。それぐらいに推測してみても、それなら児の状態の改善にもう少し、呼吸はともかくとして最低限で言えば保温にもう少し配慮を払いそうなものです。

どういう治療を行っていたのか・・・情報が無いので不明です。ただ狼狽はかなりあったとしてよさそうで、

  • 自宅に出産直後の産婦を残して新生児搬送に同行しており、産婦の管理が行われていない
  • 搬送から戻ってきてすぐに産婦を訪問しておらず、産後のフォローが不十分である

助産師会報告を読む限りでは、新生児搬送となれば応援の助産師を呼ぶとなっているようですが、これも素っ飛ばし、褥婦を放り出して動き、さらに秦野日赤から帰った後は褥婦宅にも行かず、家でグッタリしていたぐらいに推測できます。

傍証ばかりなので無理はありますが、児は「ごく軽症である」いや「軽症であらねばならない」でひたすら動き回った結果ではなかろうかです。


事件後の助産

助産師会は生後3日目(2010.5.31)にY大学病院から連絡を受けて動きだしたとなっていますが、助産師会の報告書からその後の動きを拾ってみます。

date 経緯
2010.5.31 Y大学病院より助産師会に連絡が入る
2010.6.28 神奈川県助産所部会に初めて出席し、本件の報告を行っているが、その後助産所部会への出席がない
2010.12.16 本部安全対策室長とともに助産院に当該助産師を訪ね、出産当事者夫より示された問題点について確認しようとしたが、途中、助産院の事務担当者(当該助産師の夫)が話し合いを何度も中断し、わずかしか回答が得られなかった。
2011.4.19 出産当事者夫より提供された資料を整理し、日本助産師会会長と神奈川助産師会会長の連名で当該助産師に対し「改善勧告通知書」を送付し、当該助産師の見解及び改善策についての回答を求めた。
2011.4.23 当該助産師より「改善勧告通知書の回答」を受け取った。
2011.5.1 当該助産師の「改善勧告通知書の回答」内容に対して、日本助産師会および神奈川県助産師会が合同で分析し、当該助産師が開業助産師として分娩を取り扱うには能力的に十分でない事を相互に確認した。
2011.5.8 日本助産師会会長と神奈川県助産師会会長同席のもと、分娩業務の開業禎氏か、開業を停止し2年間の指定研修を受けた上での再開許可の選択を勧告した。
2011.5.9 当該助産師より2年間の指定研修の回答
2011.5.16 当該助産師よりどちらも選択せず、業務を続けられるように弁護士に依頼したとのFaxが届く
2011.5.23 神奈川県助産師会臨時総会において、当該助産師の除名処分が決議された
2011.5.27 日本助産師会通常総会において、当該助産師の除名処分が決議された


5月に事件が起こり、6月に助産師部会に出席があってから、次のアクションまで半年ほど空いています。何もしていなかった訳ではなく出産当事者夫からの訴えは記載されており、書いてありませんが、おそらく非公式であっても弁明・釈明の要請を行っていたんじゃないかと推測します。ただどうも反応は乏しかったようで、改善勧告通知書を送るになっています。

これに対しても2年間の指定研修の選択を一旦回答しながらも、数日後に全面拒否で通常通りに助産事業を続けるとFaxで通告しています。さすがにそこまでなれば、堪忍袋の尾が切れたのか一気に除名決議になっているようです。

弁護士への依頼がどうなったのか、また現在も助産業務を続けているのかは不明です。