マスコミの報道価値基準は人の心の闇ではなかろうか

TECCMC's BLOG 4/23付「マスコミの人間に心はあるのか」より、

本日,京都府亀岡市で悲しい事故が起こりました.当ドクターヘリも出動し対応しています.検証されるべき事項は沢山ありますが,1つの命をすくい上げようと誰しもが全力をしくしました.結果,望まない終末になることもあります.その後のご家族の心のケアには人として,医療者として十分な対応を心掛けております.当然,院内や病院敷地内に勝手に入り込み,勝手に取材,写真をとるマスコミには取材の許可を出しませんし,取材拒否の旨をきちんと伝えております.もちろん必要があれば病院から情報を伝えます.

しかしながら,読売新聞,毎日新聞朝日新聞など各社の記者(個人名を出しても良いと思いますが)は霊安室の前にカメラをかまえ,お帰りになるご家族の映像を勝手に撮影していました.再三にわたって取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込んできました.

ご家族,医療者,関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのでしょうか.このブログが多くの方に読まれていることは十分に存じ上げております.だからこそ敢えてここで述べます.

亀岡市の交通事故に巻き込まれ亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。

話は亀岡の事故で救急要請を受け、ヘリで搬送治療を行った公立豊岡病院のお話です。搬送された女児は傷ましくも亡くなられましたが、話はその時の取材になります。まずマスコミによる取材の病院側の対応ですが、

  • 当然,院内や病院敷地内に勝手に入り込み,勝手に取材,写真をとるマスコミには取材の許可を出しませんし,取材拒否の旨をきちんと伝えております
  • 再三にわたって取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず

複数回に渡る取材の「御遠慮」を要請していた事が確認できます。しかし病院側の「御遠慮の要請」は「聞き置く」程度の価値もマスコミは認めていないのが判ります。ここについては実は微妙で、あらゆる場合で「御遠慮の要請」を聞いていたのであれば「知る権利」の体現が出来ないの反論はあるかと思います。「御遠慮の要請」を踏み倒してのスクープもまた価値があるの主張です。

では常に「御遠慮の要請」を踏み倒しているかと言えば疑問です。例が極端かも知れませんが、ごく最近に日本中の注目と関心を集めた心臓手術がありました。あの心臓手術でも「御遠慮の要請」を踏み倒そうとしたがガードが固くて弾き返されたのか、それとも要請に従われたんでしょうか。真相は知る由もありません。

判るのは患者の治療、さらに患者の御遺族への配慮からの病院からの「御遠慮の要請」はその程度の扱いしかされない事です。本気で「御遠慮の要請」がしたいのなら、口頭での要請だけではなく、ガードマンなりを雇っての自己防衛が必要であるです。今さらですが改めて再確認できます。



さて「御遠慮の要請」を踏み倒すか否かはマスコミ側の判断になるのですが、マスコミ側の判断基準は報道価値だとするのが妥当と考えます。そもそも報道価値がなければ取材の要請があっても鼻も引っ掛けないわけで、報道価値があるの判断は「御遠慮の要請」を遥かに上回るです。

ではでは報道価値のさらにの判断基準はなんであろうかです。社会の木鐸といかに自負しようとも、あからさまに言えば商業メディアであり、読者つまり顧客のニーズが判断基準になろうかと見ます。ここは確かにそういう面があり、シチュエーションによっては「御遠慮の要請」ぐらいで腰の引けた取材を行えば批判の声が上ります。

では今回の取材は「御遠慮の要請」を踏み倒す程の価値が果たしてあったかです。つまり読者のニーズとして霊安室前の遺族の写真が強力に求められたかです。ここもまた微妙な面はあり、取材時に予想は難しいの主張はあるかもしれません。今回の事件は速報性の側面も重視されますから、すべての取材した材料が出揃わないと、取材時点では判断しきれないとも言われそうな気がします。

たとえば悲嘆に暮れる遺族の非常に印象的な写真が取れれば、事件の悲劇性をクローズアップできた可能性があったです。写真の持つ力とはそういう面があるのは否定できないところですし、それこそ現場に臨んで撮ってみないと判らないです。



少し視点を変えてみたいのですが、遺族の意向はどうであったかです。病院はブログを読む限り遺族への配慮で取材を御遠慮願っています。これが実は御遺族は取材を受け入れる意向であったなら話は少し変わります。ただし遺族も御遠慮願いたいの意向も踏まえているのなら、遺族の要請も無視した事になります。ここについては4/25付J-CASTに、

死亡が分かったときに、両親に話が聞けるかセンターを通じて確認した。しかし、両親が取材を拒否したため、記者は取材をあきらめた。

これを信じれば遺族も遠慮して欲しかったで話を進めます。遺族はどう見ても私人です。また事故被害者の遺族以上の者ではありません。そういう事故被害者の遺族として悲嘆に暮れている状況の報道価値です。それでも「ある」は上述しましたが、それであっても、

    御遠慮の要請 << 報道価値
これが成立するのでしょうか。誰であっても似たような立場になる可能性があります。私だってそうなるかも知れません。そうなっても今回の場合のように報道価値が優先するかです。何が怖いって、
    報道価値 ≒ 読者のニーズ
私は同じような立場になったら取材は御遠慮願いたいと思います。その真っ直ぐな延長線上として他者が同じような状況で取材され、それが取材されるのも御遠慮願いたいと思います。自分は嫌だが、他人は覗きたいはダブスタです。


結局のところなんですが、「自分は嫌だが、他人は覗きたい」のダブスタの成立がこの問題の根っ子なのかもしれません。ダブスタの反映がマスコミの取材行動として現れているです。人間の心の闇みたいなものですが、心の闇が読者のニーズになり、読者のニーズが報道価値となり、報道価値が「御遠慮の要請」を踏みにじるです。

そこまで考えると今回の取材もマスコミ側に何分かでも理が出てくるのですが、それでも取材しているのは1人の人間です。需要があるところに供給を行うのは商売の原則ではありますが、そのニーズの源泉が人間の心の闇であっても構わないかと言うところです。たとえが悪いのは百も承知ですが、悪への需要があれば供給するのは当然の正義であるとは言えないはずです。

綺麗事だけでは済まないのが社会ですが、それでも綺麗事が必要な時もあると思っています。


補足情報

どうも情報が錯綜している部分はあるようで、J-CASTによると、

  • 両親が女児を引き取って病院から帰る2時間半前には、すでにセンターにはいなかったという。(朝日)
  • 読売新聞大阪本社の広報宣伝部では、取材に対し、「記者は病院の許可を受け、病院幹部立ち会いのもと待機していました」
  • 毎日新聞社の社長室広報担当は、「弊社記者は終始、病院側責任者の立ち会いの下、あるいは指示に従って取材をしていました」とコメント

病院ブログで名指しされた3社は事実誤認と抗議しているようです。さらにこれを受けて病院ブログも修正・追記が行われたようで、

追記霊安室だけではなく,処置室前,敷地内含めての記載内容です(一部,誤解ととられる内容,真意が伝わらない部分は訂正・修正しております).皆様の反響をいただき,本件に関するコメントは終了させていただきます.このような事故が二度と起こらないこと,行き過ぎた報道が二度と起こらないことを切に願っております.

両者の言葉をそのまま信用すると、

  • 目に余る遺族への取材攻勢はあったようだ
  • そこには朝日、読売、毎日の記者は参加していなかった
病院側が記者の所属会社を誤認したぐらいになります。どこまでが事実か確認する術はありませんが、目に余る取材攻勢が「どこかが」行っていたのだけはあったと見なして良さそうには思っています。