傲慢の見本のような記事

3/4付朝日新聞デジタルより、

読んでムカムカしたので取り上げます。まずもって肝心な事を殆んど触れていないように思います。アルジェ人質事件の実名公表問題で一番世論の怒りを買ったのは何かです。日揮も政府も実名公表を控える方針としていたので、
    朝日新聞は遺族をペテンにかけて実名リストを入手し、約束を踏み破ってこれを報道した
この点についての御意見が見当りにくいところです。口頭の約束(だったと思う)ですから法律的にどうかは私ではわかりませんが、口頭の約束で相手を信用すると言うのは、相手を深く信頼していた事になります。そういう信頼を反故にするような人物・組織は、それだけで社会の信用を失います。朝日は白昼堂々これをやらかしたわけです。その点をまず触れないとはまさに奇々怪々です。私の知る限り、この信義違反に朝日はまともな回答は行っていないかと存じます。私は聞いたこともありません。この記事を読む限り、
    一般人をペテンにかける < 報道の大義
だからペテン行為は歯牙にもかける程でないの主張をウダウダと述べているに過ぎないとしか読めません。たとえば、

今回の事件で政府は、遺族や企業への配慮を理由に犠牲者の氏名の公表を数日間拒んでいたが、事件に対する関心の大きさから見ても、政府としては当然、早急に公表すべきだった。

ほいほい、まるで日揮や政府が実名公表を拒んだが故に

    「報道の大義」のために一般人を「ペテンにかける」事まで必要になった
こう言わんばかりです。「まるで」ではなく、あからさまにペテンを行った朝日が悪いのではなく、日揮や政府のみに全責任があり、朝日は被害者であるみたいな御主張です。読めば読むほどムカムカします。ここも引用しておきますが、

宮川委員 遺族は精神的な衝撃を受けた直後なので、一人一人の遺族への取材では、十分な配慮をしなければいけないのは当然のことだ。ただ、本件のような事例では、遺族は氏名の報道を拒否できないと思う。氏名を報道するかどうかは、報道機関がその責任において判断することであり、遺族が決めることではない。そのことははっきりさせておいたほうがいい。

これを正気で言っているのか首をかしげた個所です、

  • 遺族は氏名の報道を拒否できないと思う
  • 氏名を報道するかどうかは、報道機関がその責任において判断すること
  • 遺族が決めることではない

ヒョットしたらここがペテンの説明の個所でしょうか。ペテンにかけようが、脅迫しようが、拷問にかけようがマスコミは実名を知る権利があり、それを拒否する事は許さず、報道の判断はここに並んでふんぞり返っているオッサン連中の胸先三寸であることを、
    そのことははっきりさせておいたほうがいい
私は根本的に朝日も含めたマスコミは大きな勘違いをしているとしか思えません。私とてジャーナリズムの社会的存在価値は認めています。またその役割を果たすために認められたする幾つかのいわゆる「権利」を否定しません。しかしそういう権利はどうやって発生しているかを考えた事がないとしか思えません。そういう権利が認められる源泉は
    信用に基づく社会的合意
これに尽きるかと存じます。朝日の委員がまるで憲法にでも保障された絶対の権利の様に主張されている事は、どこにも法的な裏付けは具体的にありません。あるのは憲法に認められた「言論の自由」のみです。言論の自由さえマスコミ業界の先人達(もちろんマスコミだけではない)が苦労して勝ち取ったものですが、それ以外の「権利」らしきものは、マスコミと言う存在を信用し、これを社会的合意として許容しているものに過ぎません。つまり「信用に基づく社会的合意」がなければ泡のように消えるものです。

今起こっている事はマスコミがこれまで積み重ねてきた行為に対する不信感に対し、

    そんなものを認めている気はない
こういう社会的合意が広く形成されつつあると言う事です。マスコミが主張する実名報道による権力の監視の主張(これも実効性について疑問の指摘があるのは書いときます)には一理を認めます。一理を認めるからこそ従来は社会的合意を与えていましたが、一方でこれを濫用することによる報道被害の数々に耐え難くなっていると言う事です。それこそ自分に降りかかれば問答無用の社会的制裁とやらの雨アラレに曝される恐怖です。今やマスコミへの社会的合意は、
    メリット < デメリット
こうなってき来ています。そういう状況に対して本来行うべき事は、メリットの強化とデメリットの速やかな解消による信用の回復です。失われつつある社会的合意を再び取り付ける事です。他にどんな方法があるかなんて思いも付きません。しかしそんな認識は極めて乏しい事しかこの記事では浮かんできません。

ここ数年、メディアに対する市民の不信感が広がっているのは、メディアスクラムなど取材過程で生じた人権侵害と見なされるような事態がインターネットなどで一般市民の目や耳に届くようになったのが原因ではないか。

メディア・スクラム問題は2001年12月6日第609回編集委員会の声明として出され、この問題に対応するために集団的過熱取材対策小委員会まで設けられています。11年以上前に問題視され、公式に対応を表明したにも関らず、この程度の御認識であると公言されているわけです。メディア・スクラムに対する認識も大した物で、

  • 山中季広・社会部長 亡くなった方の名前や住所がわかり、各社が家の前に集まった。ただし、連日深夜まで入れかわり立ちかわりインターホンを押すとか、自宅の前に中継用のやぐらを組むようなことは防げた。スクラムには至らずに済んだと認識している。
  • 藤田委員 和歌山カレー事件や秋田・藤里町の児童殺害で発生したような大がかりなメディアスクラムは、今回は起きなかったのではないか。
  • 宮川委員 今回、集団的過熱取材というほどの現象は起きていない。

さらに宮川委員はのどかな事に、

事案によっては、2001年の日本新聞協会の見解を参考に、具体的に申し合わせ事項を決めないと、批判を受ける事態もあり得る。

笑ったらいけませんが、批判も「あり得る」だそうです。「あり得る」とは現時点では朝日の公式の認識として、

理由は推測するに、マスコミがメディア・スクラムを社会問題として認めていないからでも不思議なさそうです。とくに山中季広・社会部長が定義するメディア・スクラムの定義とは、
  • 連日深夜まで入れかわり立ちかわりインターホンを押す
  • 自宅の前に中継用のやぐらを組む

これさえ無ければ平穏至極の取材風景に異ならないとされているわけです。後はひたすら取材への協力は事実上の義務であり、マスコミが欲する情報を差し出さない輩は言語道断であるの主張を展開されています。これを傲慢と言わずになんと言うです。もちろん、こういう主張も行う事が出来るのが「言論の自由」ですが、自由には責任が伴います。天網恢々疎にして漏らさず、責任は目に見えてキチンと取って頂いています。それもまた世の中です。