中庸から実名報道問題を考える

中庸とは

中庸はなんとなく「ほどほど」ぐらいの意味で受け取っていましたが、元は儒教の教えのはずで、原本を確認しておかないといけません。「いけません」とはしましたが、ネット上にも詳しい専門家がたくさんおられ、こういう古典も解釈については非常に細かいのも存じています。ですので、あくまでも私が理解している素人範囲ぐらいで御了解下さい。

孔子の教えには、

  • 君子
  • 小人
これが対比語としてよく用いられます。儒教的には君子になるべしとの比喩で小人が使われているように思っていますが、まず君子と小人の解釈です。これもあくまでも一般的にですが、概念として公と私があり、
  • 君子・・・公 > 私
  • 小人・・・公 < 私
こういう風に対比されているとの解釈が有力です。ここもさらにがあり、公と私以外に「徳」と「才」の概念で分けられるともしています。どういう事かと言えば、
  • 君子・・・徳 > 才
  • 小人・・・徳 < 才
ここで公と私、徳と才の関係ですが「公 ≒ 徳」みたいな感じにも受け取れそうですが、「私 ≒ 才」はチョット置いておきます。面白いのは徳と才の関係で、量には関係しないとされています。徳量がそれほどでもなくとも才量がさらに乏しければ「徳 > 才」の関係が成立して君子である一つの条件は満たす感じになるそうです。逆に巨大な徳量を持っていても、それを上回る才があれば今度は「徳 < 才」の関係が成立し今度は小人に分類されるとなっています。

そういう関係が成立する前提なら「私 ≒ 才」になってしまいそうな気もしないでもないのですが、そこまで詮索するだけの知見が無いのでこれぐらいで置いておきます。ここで思ったのは小人であっても徳量は大きい事はごく普通にあり、君子になるためには徳を上回ってしまう才を少し抑える努力をせよと孔子は各所で説いている気がなんとなくしました。

私は言うまでもなく小人ですが、小人であっても常に「公 < 私」「徳 < 才」でなく、時々によって逆転する時はしばしばあります。そういう人間は少なくないと思ってもいます。少なくともその程度であれば、ある程度の努力で君子になれるから「頑張れ」と書いてあるのが孔子の教えではないかとも思っています。


次に中庸の「中」とはいかなる概念かです。これは礼記中庸編にあるのですが、

喜怒哀樂之未發 謂之中 發而皆中節 謂之和 中也者天下之大本也 和也者天下之達道也 致中和 天地位焉 萬物育焉

まず「喜怒哀樂之未發 謂之中」ですが、情により喜怒哀楽を起さない「静」の状態を「中」と解釈するそうです。ついでに言えば情が動いた時にも「静」の心を保とうとする事を「和」とするようです。化学反応みたいですが「中和」こそが望ましい状態であるとしているで良いと解釈します。そいでもって中庸の「庸」には諸説はあるようですが、「常」とか「平常」の意味が強いそうです。どうも「中庸」を平たく言えば平常心でも的外れではなさそうです。そう言えば「庸 = 用」とする解釈もあるそうです。

平常心と言っても、常に情に動かされない「静」である「中」を保つ状態の事で、単純には情に流さないものぐらいで宜しいようです。たとえ情が動いたとしても、情に流されないように常に「和」を持つのも重要ぐらいのところです。細かい語句解釈は手に余るので中庸とは、

    情に流されない平常心を保つ
しつこいですが「公 > 私」「徳 > 才」の上での平常心です。翻って考えれば、「公 > 私」「徳 > 才」の君子であっても中庸でない人もいるわけで、君子のさらなる精進条件ぐらいかもしれません。中庸で一番引用されるのは、

仲尼曰 君子中庸 小人反中庸 君子之中庸也 君子而時中 小人之中庸也 小人而無忌憚也 子曰 中庸其至矣乎 民鮮能久矣

「仲尼」も「子」も孔子の事なんですが、ここで小人は中庸ではいられないとしています(小人反中庸)。君子だって中庸でない時はありそうなのは上述しましたが、小人であればそもそも中庸などでいられないぐらいに私は解釈します。ただここでの君子はかなり狭義の様で、中庸を身につけたものを君子としているようにも思います。

「小人而無忌憚也」の一般的な解釈は、中庸を知らない人間が勝手解釈で思い込んだ中庸を間違いないものとしてゴリ押しする状態ぐらいで良いようです。君子であれば真の中庸を知り、その解釈に常に照らし合わせて正しい方向に行動する事が出来るのですが、小人はそれを知る術が無いので間違った方向にしばしば暴走するぐらいと読みます。

最後の「中庸其至矣乎 民鮮能久矣」はそういう中庸を実践できる人間が少なくなっている事を孔子が嘆いている様子とされます。私の解釈も的が外れている部分はあるかもしれませんが、もっと平たく受け取って常に理性的であろう、常に原理原則を振り返ろうぐらいには活用しても良いと思いました。私も喜怒哀楽の感情に流される時も多いですし、間違った事に盲進する事もある小人です。

それでも一時はそうなっても、振り子が戻るように自省は重要と思っています。常に中庸である君子は無理でも、行き過ぎてしまっても戻れる部分は持ちたいぐらいの感覚です。そして出来るだけ振り子が大きく振れないように務めたいぐらいのところです。別に君子になりたい訳ではありませんが、処世としてそうなる方が精神衛生上メリットが高そうな気がするぐらいのところです。


アルジェ被害者実名報道問題

中庸の物指しでこの事件を見たいと思います。まず被害者実名報道が「公 > 私」であるかどうかです。この場合の「公」とは政府とかの意味ではないと考えます。いわゆる公論、マスコミ流に言えば「市民感覚」「市民感情」、さらには世論みたいなものと考えます。被害者実名報道のマスコミ側の論拠を確認しないといけませんが、まずは毎日新聞記者だとされる小川一氏のツイートです。

亡くなった方のお名前は発表すべきた。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない。

被害者実名報道が弔いになり、プライバシーより優先するとしています。小川氏のこれに関する追加ツイートはリンク先を参照してください。これも新聞記者とプロフィールにある不惑記者氏のツイートです。

多忙なので一言だけ。実名を報道する理由の一つは読者への真実性の担保と検証性の担保。換言すれば易きに流れがちな報道モラルの下支え。 RT @p_kisha 「実名さえ分かれば事実が明らかになる」なんて思ってる記者や報道機関が実在するなら教えてほしい

小川一氏と少し視点が変わり、

    易きに流れがちな報道モラルの下支え
被害者実名報道は報道モラルに必要なものと主張されています。ツイッターではなく記事としては1/22付産経です。記事は実名報道を支持しつつ定番の有識者コメントがあるので引用して見ます。

上智大学の田島泰彦教授(メディア法)は「遺族の配慮は大事だが、被害者がどういう人で、現地でどんな役割をしてきたかを明らかにすることが、テロの全容を解明する上で必要となる」と指摘。「身元が分からなければ、会社や政府の対応に問題がなかったかを検証することもできない。この先もずっと名前を出さないという対応には疑問が残る」と懸念を示す。

実名報道により問題の検証が担保されるの意見のようです。もう一つ1/23付神戸新聞5面より手打ちで起します。

 実名報道を原則としている日本新聞協会は06年12月、実名発表の意義をまとめた冊子を発行。その中で、実名報道は国民の知る権利への奉仕や公権力のチェックに欠かせないとし「実名はメディアにとって、すべての始まりで原点」と位置付けている。

どうもなんですが、マスコミの「報道モラル」として万難を排しても実名報道を行なう事こそ使命であるのマスコミ内の合意が背景にあるとして良さそうです。神戸新聞記事では「原則」とはされていますが、思い起こすと歌舞伎町火事被害者でも実名報道を行なった事を賛美していましたし、広島のラブホ火事では実名発表が行われなかった事に怒りの報道が行なわれていました。

歌舞伎町火事や広島ラブホ火事は微妙なプライバシー問題が多々含まれると思いますし、なおかつ被害者は私人であり公人ではありません。それでもマスコミ界の原則では実名報道が当然至極当たり前であるの姿勢は確認できるところです。さて今日のテーマは「公」か「私」かですが、このマスコミの主張がどれだけ支持を受けているかはポイントでしょう。

正直なところあんまり支持を受けているとは感じ難いところがあります。おそらくマスコミ主張の最大の論拠は

    公権力のチェック
実名報道が出来なくなればなし崩しに公権力の暴走を許すキッカケになるぐらいと推測します。これはこれで一つの正論ではありますが、一方で被害者実名報道による被害の多さも周知の事実となっています。興味本位としか思えない遺族の感情を無視した突撃取材、不躾な質問、葬儀にさえ支障が出る傍若無人な取材行為、それをまた取材成果として臆面もなく全国報道を行なって誇らしげにする態度・・・。

こういう行為を「公権力のチェック」と結びつけて許容するのはチト大変と言うところです。ごく素直に感じるところとして、過熱取材による報道被害は「公権力のチェック」とは無縁の行動であり、単にマスコミが売上のために興味本位の私的目的のために狂奔している醜態と見なせるかと考えています。「公権力のチェック」に必要の主張を認めても、実態はそれを振りかざして私的目的のために濫用しているの批判は成立するかと存じます。結論としては、

    公 << 私
公の部分はあったとしても、それを上回る私の部分が遥かに大きいと私は判断します。


もう一つ「徳 > 才」はどうかです。今回は被害企業の日揮も、政府も実名公開を控える方針を取り、これをマスコミにも繰り返し要請しています。にも関らず実名報道は行なわれてしまっており、テンプレの型どおり取材が行われつつあります。どこから被害者の実名報道が漏洩したかのソースとして、モトシロブログの叔父を誇りに思いますがあります。ここに、

昨夜、菅官房長官が被害者の実名は公表しないと明言してくれたので安心していたところ、今朝の朝日新聞を見てガッカリしました。実名を公表しないという約束で答えた取材の内容に実名を加え、さらにフェイスブックの写真を無断で掲載しておりました。

残念ながらこれを裏付けるソースを持ちませんが、エントリー全体から釣りの可能性は低いと判断しております。これが本当なら、朝日記者は被害者家族に接触し、甘言を弄して家族を騙し、そうやって入手した実名を報道した事になります。日揮や政府が懸命に伏せていた実名を掘り起こした行為は才溢れる行為とは言えますが、非常に初歩的な倫理さえ踏み破っている行為ぐらいは簡単に指摘できます。これはごく簡単に、

    徳 << 才
人を欺いてまで報道公表するからには、それを納得させる説明、代償が必要かと思いますが、果たしてあるのでしょうか。おそらくマスコミサイドの言い分としては、
    実名報道こそが報道モラルであり、日揮や政府がこれに反して実名公表を行わなかったので、やむなく遺族を騙す行為を行わざるを得なかった。
これぐらいだと想像しますが、あんまり中庸に則しているものとは感じ難いと私は思いました。もっとも、マスコミが君子でなければならない必要も、社会的要請も乏しくなってきているとも思いますから、そういう小人集団であると思って付き合っていくしかないかもしれません。「小人反中庸」であり孔子の時代から中庸であるのは難しいとされてますからねぇ。