歴史マニアの血が騒いでしまいました

ネタモトは天漢日乗様の

ネタモトと言うより天漢日乗様と私では知識がプロとアマですから、本当の意味での御高説を御紹介する形になります。まず天漢日乗様同様に銘文入り大刀の発見記事を、9/22付産経記事から引用します。

 福岡市教育委員会は21日、同市西区の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で、西暦570年を示すとみられる「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土したと発表した。

 調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示すとみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。

 坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な資料だ」と話している。

 市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。

 大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。銘文は刀が作られた年月日などを記しているとみられ、最後の文字は「練」の可能性もあるといい「すべてよく練りきたえた刀」という意味が考えられるという。

 大刀が出土したのは元岡古墳群のG6号墳(直径18メートル)で、古墳時代では国内最大級の全長約12センチの銅鈴も見つかっており、被葬者は有力豪族とみられるという。

銘文を読んでみる

文字は全部で19文字確認できたようで、

    大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□
もっとあった一部なのか、これでほぼすべてなのかはわかりませんが、とりあえずどう読み下すのだろうになります。そこまでは自在に読めると言うか、あまりに初歩的なお話なので天漢日乗様は触れていませんが、素人解釈してみます。

まず「大歳」なのですが、これは神社であちこちで今でも良くみられます。神社の時はどうやら恵方神なのですが、これが星になれば木星になり、季節になれば大晦日になります。6世紀頃の用法は私では見当もつきませんが、ここは大晦日と受け取ります。つまり後の「正月六日」と合わせて、大晦日から1月6日の間に大刀が作られたです。

作られた本数は「十二果□」この「果」を「練」と読む説も記事にもありますが、12本であったとしてよさそうです。12は十二支もあるように意味のある数字ですから、何らかの正月記念作品であったのかもしれません。記念作品説の根拠と言うか、天漢日乗様の説は「庚寅」が2回出てくるところにあります。

庚寅年の庚寅の日
という年の陰陽五行思想的意味も重要で、
 庚 五行金の「兄」(陽)
であり、寅も陽だ。『五行大義』を繙けば、
 河圖云、甲寅乙卯天地合、丙寅丁卯日月合、戊寅己卯人民合、庚寅辛卯金石合、壬寅癸卯江河合。
とあり、
 庚寅は金属の鍛錬に適した干支
であろうことは推測できる。

庚寅と言う言葉が意味する中に金属関係の仕事に適していると言う意味があり、庚寅の年の最初の庚寅の日に合わせて大刀を作る事でより素晴らしい刀を作ったと言う意味が込められているとしています。天漢日乗様はさらに論を進めて、庚寅が重複する日に意味を重く置いて、日付さえも関係があるかどうかの疑問を出されています。

つまり銘文は「刀を作るのに適した吉日に作った」程度の意味で、実際に作った日を必ずしも表していないとの意見です。それも十分ありえそうですが、事実して検証に拾えそうなのは、庚寅の年の正月六日がやはり庚寅であったはあったと考えます。実際に作った日はともかく、そういう日があったから記念作品を作ったぐらいはしても良いと考えます。


暦を考える

記事と言うか福岡教育委員会の取った説は、

元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠

なぜに大刀の銘文が元嘉暦に基いていると判断したかと言えば、庚寅が570年を意味するだけでなく、「正月六日」も庚寅であることのようです。「554年には大和政権にもたらされた」は記事中にもあるように日本書紀の記述にもあり、文献記述が出土品によって裏付けられたとしています。

これについても天漢日乗様は疑問を呈されています。まず元嘉暦なんですが、そもそもいつ使われたかになります。wikipediaより、

中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉22年(445年)から天監8年(509年)までの65年間用いられた。

中国の南北朝時代とは魏晋南北朝時代とも呼ばれ、非常に煩雑に王朝が南北とも入れ替わっていきます。元嘉暦と合わせて簡単な年表を作ってみます。

南朝 北朝 元嘉暦
東晋 317〜420年
北魏 386〜534年 445〜509年
420〜479年
479〜502年
502〜557年
西魏 535〜556年 東魏 534〜550年
557〜589年 北周 556〜581年 北斉 550〜577年


HTMLで作る関係で無理があるのですが、元嘉暦は南朝宋の中期に作られ、二代後の梁の初期に廃止となっています。それにしてもwikipediaからですが、

日本には朝鮮半島百済を通じて6世紀頃に伝えられた(『日本書紀』によれば554年)。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる

なぜに南朝の元嘉暦が百済に伝わり使われていたかよくわからないのですが、とりあえず置いておきます。どちらにしろ570年説が正しいとしても中国本土では50年ほど前に廃止になった暦です。廃止になった後に使われていた暦は天漢日乗様によると、

この当時、中国では、元嘉暦ではなく
 大明暦を使ってた

この大明暦ですが、wikipediaより、

大明暦(だいめいれき)は中国暦の一つで、劉宋・南斉の祖沖之(そちゅうし)によって編纂された太陰太陽暦暦法。劉宋の大明六年(462年)に完成し、その死後、梁朝によって官暦に採用され、梁の天監九年(510年)から陳の末年、禎明三年(589年)までの80年間、使用された。

ここで個人的な素朴な疑問があります。魏晋南北朝時代は基本的には南北に王朝が別れ、さらに南北に分かれた王朝がさらに東西に分裂したりする複雑な時代です。もうちょっと単純には統一王朝は誕生せず、幾つかの王朝が互いに正統を称して覇権を競っていた時代としても良いでしょう。歴史的経過は複雑なんですが互いの王朝は同格であるのが前提のはずです。

ここでなんですが、暦を出すと言うのは王朝の重要と言うか神聖な役割です。暦を出す者が真の皇帝であるというのがあったはずです。お互いはライバルですから、果たして同じ暦を使っていたのだろうかです。できたらライバルと違う暦を使いたいのが人情のように思わないでもありません。元嘉暦にしろ、大明暦にしろ南朝で出来た暦ですから北朝側が使っていたのだろうかです。wikipediaより、

魏晋南北朝時代、とくに月の不規則な運行についての研究がすすみ暦法に反映された。最初にこれを導入したのは劉洪の乾象暦であり、祖沖之の大明暦に至っては歳差まで考慮してより精密な暦が作られた。このようにして朔日の計算において定朔法が生まれ、隋の劉焯はこれに基づく皇極暦という優れた暦法を作成したが官暦に採用されず、定朔が正式に官暦に採用されるのは唐代の戊寅元暦からである。

わかりませんねぇ。ここには元嘉暦の記載はありませんが、大明暦はあります。これだけの記載で判断するのは危険ですが、元嘉暦はともかく大明暦は魏晋南北朝時代の諸王朝は共通して採用していたと受け取れそうです。天漢日乗様は当然ですが、この辺の経緯をよく踏まえた上で判断されていると考えておきます。


ここで問題になるのは元嘉暦では570年が庚寅であり正月六日も庚寅であるのは事実のようですが、大明暦、つまり570年当時の中国本土で使われていた暦ならどうなったかです。これも天漢日乗様は調べられていまして、

中国の正史で
 庚寅年=570年の正月朔日の干支
を調べてみた。この年は
 南朝の陳では太建二年
 北朝北斉では武平元年
に当たる。

そいでもって大明暦でも570年の正月朔日(元旦)は南北とも乙酉だそうです。ここから正月六日まで数えていくと、これも天漢日乗様から、

乙酉(元日) 丙戌(二日) 丁亥(三日) 戊子(四日) 己丑(五日) 庚寅(六日)

つまり元嘉暦でなくとも570年は庚寅であり、さらに正月6日は庚寅になるという事です。570年が庚寅になり、さらに正月六日が庚寅になるのは元嘉暦の特徴ではなく、570年当時の中国の標準暦である大明暦でも同じようになると言う事です。570年が庚寅になり、さらに正月六日が庚寅になるだけで元嘉暦に基いた銘文が刻まれていると判断するのは危険ではないかの指摘です。


これほど疑念を持たれる原因は日本側のソースが日本書紀である事に尽きるかと思います。当時の歴史書は日本書紀古事記が有名ですが、逆に言えば日本書紀古事記しか無いと言うのもあります。さらにこの2書が歴史に史実に忠実であろうとしたかと言うと、全然違って濃厚な政治的プロパガンダの意図が込められています。そのため卑弥呼の時代が未だ持って不明になっているとしても良いぐらいです。

570年といえば、日本で言えば欽明天皇の時代ですが、日本書紀のこの時代の記録も信憑性に乏しいところがあると言うのは歴史学者の一致した見解と言うより常識です。どこの部分が正しくて、どこの部分が正しくないのさえ未だに大論争の部分は多々あったと思います。庚寅の年月日が元嘉暦と合っていたから日本書紀の裏付けと騒ぐのは時期尚早であるとの指摘と受け取ります。


どこで作られたかも問題でしょう。国内産であるのか、朝鮮半島産であるのか、はたまた中国本土産であるかです。銘文も製作されたときに刻まれたと考えたいところですが、製作後に刻まれた可能性も無しとは言えません。たとえば国内で刻まれたとしても、元嘉暦によるものなのか、大明暦によるものなのかは同じ干支になるため判断不能です。

出土した北九州は古来より大陸との交通が盛んであり、たとえヤマト王権が元嘉暦を公式採用していても交易の利便性から大明暦が使われていても不思議無いからです。つうか、元嘉暦も大明暦も天地が引っくり返るほどの差はなく、使っている当事者自体はさしての意識もなかったと思っています。もう少し言えば、暦を読める知識階級の数も非常に限定されています。

仮に国内で銘文が刻まれたとしても、銘文を指定した権力者側の知識人がどちらの暦に基いたかは、それこそ当事者のみが知る事になるとしても良さそうです。


チャチなムックでしたが、やはり歴史は面白いと思います。久しぶりに血が騒いでしまいました。