日大光が丘病院問題の推理遊戯

さしたる情報がないので書きたくないのが本音ですが、記録の意味で推理遊戯としてアップします。この病院の前身は練馬区医師会によると、


年月 事柄
1983年2月 「光が丘地区医療施設誘致構想」(練馬区)に、練馬区医師会が名乗り
1986年11月 練馬区医師会立光が丘総合病院開設
1988年12月 練馬区医師会立光が丘総合病院第2期工事完成(300床整備完了)
1990年9月 練馬区医師会立光が丘総合病院の経営を断念
1991年4月 練馬区医師会立光が丘総合病院の経営主体、学校法人日本大学


ここで何故に練馬区医師会が手を挙げたと言うか、手を挙げざるを得なかったのかの疑問はあります。この辺の経緯について御存知の方がおられれば、宜しくお願いします。1986年11月に前身病院が開設され、1988年12月に第二期と言うかフルオープンになったのだと解釈しています。ただこの前身の医師会立病院は非常に短命です。開設から経営断念まで1年10ヶ月、日大に経営譲渡まででも2年5ヶ月しか存在していません。

ちょうどバブル期ですから、杜撰な事業計画で練馬区医師会が突っ込んでいったら、大火傷をして尻尾巻いて逃げざるを得なくなったぐらいの理解で良いでしょうか。その後に日大が後釜として経営に当たり、今に至るはとりあえずわかります。

練馬区医師会が逃げ出した理由は、その後の日大の経営で窺う事は可能です。日大が経営を引き継いでから20年になりますが、光が丘病院単体としての累積赤字は90億円に昇るとなっています。日大は光が丘病院も含んでのグループ経営としているようで、日大自体はこの赤字を吸収して耐えているそうですが、練馬区医師会ではこの芸当は無理であったと見る事は可能です。


この光が丘病院問題は様々な見地で論じられているようですが、一皮剥けば財政問題に帰着しそうな気がしています。光が丘病院の赤字は日大本体の黒字でカバーしているのですが、日大本体の経営の先行きが明るくないのがまずベースにある様な気がします。これは誤解を招きそうですが、別に日大が現在経営危機に瀕しているとのアングラ情報を入手したわけではなく、あくまでも一般論的なお話です。

理由は単純明快で少子化の進行です。既に地方の大学では定員割れが日常化していますし、一部の歯学部や薬学部でも定員割れや、競争倍率の極度の低下が起こっています。今の日大も影響がゼロと言うわけではないでしょうし、これから先を考えると右肩上がりにならないのは余りにも明らかです。どこの大学でも少子化時代にどう対応し、どうサバイバルするかは最大の経営課題になっているであろうです。

大学によって生き残り戦略は違うでしょうが、少子化ですから多かれ少なかれ縮小均衡路線を取らざるを得なくなると考えます。収入が減った分の支出を減らして「選択と集中」で経営を安定化させる戦略です。今後の収入増が期待できないと言うより、ジリ貧が予想されるのなら、まずこれは取り組まれていく課題になるとするのが妥当です。

そういう面で光が丘病院を見るとどうかになります。これは日大の日本大学医学部付属練馬光が丘病院の運営終了についてからですが、

本学練馬光が丘病院が経営破たんした医師会立病院から引き継いだ病院棟は,建物そのものが大学病院仕様ではないことから診療効率が悪く,また,医療機器などの設備面も老朽化が進んでおります。

これは公式発表ですから、本音が剥きだしと言う事はなく、ある程度建前論であるのは前置きしておいて、

    医療機器などの設備面も老朽化が進んでおります
ここは条件として重要そうに思います。建物は25年前のものですが、この間の医療の進歩は目覚しく、またこれからの防災面も考えると、近い内に建て替え問題は必至かと考えられます。光が丘病院は長年の赤字経営から黒字転換が目前との情報もありますが、建て替え問題が絡むと状況判断が微妙となります。病院を建て替えるとなると、また巨額の投資が必要であり、そこまで投資して日大として維持するメリットがあるかどうかです。

日大のこれまでの光が丘病院への支出も書かれています。

これまでの収支の差額の累計は約マイナス90億円,開設時に練馬区に差し入れた無利息の保証金50億円と併せると現時点での日本大学の負担は,約140億円にものぼります。このままの状態が続くと練馬光が丘病院だけでなく学校法人日本大学そのものが経営破たんということにもなりかねない状況です。

やっと黒字化したとは言え、これから新築問題となると新たな出資が求められる可能性は大です。1991年の時には将来への投資としてこれだけの出費を行う余裕がありましたが、今となればそんな投資は避けたいのが本音のような気がします。日大と練馬区の交渉は2010年2月に始まったとされます。どんな交渉が行われたかは全く情報がありませんが、あえて推測すれば、

  1. 病院経営安定化のために練馬区へのさらなる補助金の要請
  2. 新築移転問題での練馬区、日大の負担問題
とくに2.について日大側から強い要請が行われたと推測しています。あくまでも推測ですが、日大側からはいわゆる公設民営みたいな形態を要求されたんじゃないかと見ています。あからさまに言えばハコ代は練馬区が負担してくれです。ところが練馬区は煮え切らないというか、先延ばしの回答を繰り返した可能性があります。これは練馬区日本大学による日本大学医学部付属練馬光が丘病院の運営が平成24年3月31日をもって終了しますからですが、

 しかし、平成22年2月に日本大学から区に対し「大学の理事会において、付属病院3か所の経営が思わしくないため、平成23年3月31日をもって日大練馬光が丘病院の運営から撤退することを決定した」との報告がありました。

 撤退の理由として、日大練馬光が丘病院は開設以来支出超過が続いていることとしています。また、賃借期間については、民法第604条を根拠に、当然に20年に短縮され、期間満了により平成23年3月31日に運営を終了するものであるとの主張でした。

 これに対し、区は、撤退は了承できないこと、基本協定書および公有財産貸付契約書に基づき、少なくとも平成33年3月31日までの30年間は日本大学が責任をもって病院運営を行うべきであることを主張しました。その後の協議によって、平成23年3月31日の撤退は一旦回避されました。

 その後、区は、受診されている方をはじめ、区民の皆さまの混乱を防ぐため、病院の運営継続を求めるとともに、もし日本大学が撤退するならば、責任を持って引き継ぐ医療機関を探すように要請してきました。それにも関わらず、日本大学は撤退の意向を変えず、引き継ぐ医療機関の紹介さえなされませんでした。

 そして、平成23年7月4日に、日本大学から平成24年3月31日をもって撤退するとの正式な申し出がありました。

練馬区も建前上の主張を割り引いて考えないといけないのですが、この発表の内容として、ひたすら賃借契約云々の民法上の契約が無闇に主張されています。契約は大事ですし、契約違反を挙げても問題はないのですが、日大の発表にある新築移転問題は一言も触れられていません。練馬区と日大の交渉で新築移転問題が出たか出なかったかですが、出なかったのは経緯からしてやや不自然な気がします。

練馬区が新築移転問題を出さなかった理由として考えられるのは、

  1. 練馬区として重視した問題ではなかった
  2. 練馬区として重視して欲しい問題ではなかった
それと交渉の日付も注目したいのですが、

年月 事柄
2010年2月 日大からの光が丘病院撤退の申し入れ
2011年3月 日大は一旦撤退を撤回
2011年4月 練馬区長選挙
2011年7月 日大から撤退の決定通告


最初の日大の申し入れから最初の合意まで1年以上かかっています。この間に何度の交渉がもたれたかは確かめようもありません。日大が発表するまで極秘交渉であったとされるからです。それでも1年以上かけた交渉は一旦年度末に撤退撤回で合意しています。しかしたった3ヵ月後に日大は一方的に掌を翻すように撤退宣言を公表しています。

練馬区の発表だけ読むと日大の身勝手になってしまいますが、そこまで日大が不誠実とは思えないところがあります。少なくとも撤退申し入れから1年以上は公表もせずに練馬区と交渉しているわけです。ここで事態を考える上での政治的イベントとして2011年4月の練馬区長選挙は考慮に入れても良さそうな気がします。

現区長は再選です。つまり2011年当時も現職であり、2011年4月には再選を目指して出馬しているわけです。練馬区と言ってもイメージが大根ぐらいしか出てこないのは陳謝するとして、練馬区の政治課題として医療体制の充実と言うのがあるそうです。選挙でどうやらですが、日大撤退の問題などはおくびにもださずに、今後の医療体制の充実構想を華々しく公約として打ち出したともされます。

そうなると2001年3月31日に1年以上かけた交渉が一旦妥結した理由が見えてくる様な気がします。区長再選のためには、光が丘病院からの日大撤退をなんとしても阻止しておく必要があったと言う事じゃないかと思います。それだけでなく、日大との交渉がある事さえ伏せておく必要があると判断したとも考えられます。

なんつうてもどんな交渉内容かわからないので推測に推測を重ねざるを得ませんが、日大側からの要求条件は撤退の事実もさる事ながら、要求条件を表面化させることさえ政治的にはよろしからずと判断された気がしています。そんな秘密交渉が3月に一旦でも妥結したのは、1年もかけても埒が開かない交渉に日大側が焦れてしまったのではないでしょうか。

交渉にも区切りは必要ですから、年度末を期限として、要求が聞き入れられないのなら、日大撤退を公表するとの姿勢です。選挙目前で慌てた練馬区側は、態度を一変させて、非常に前向きの姿勢の言質を示し、日大の要求に対し選挙後に誠意ある回答を行うと確約し、その回答が出るまで公表を控えるようにの申し入れを行ったと考えたいところです。

ですから3月に撤退を撤回したとの練馬区の見解は、実は区の誠意ある最終回答を聞くまで決定を保留にしたぐらいが適切な様な気がします。


さて問題は選挙後の区の最終回答です。これは練馬区側の発表がそうだと考えます。

これに対し、区は開院時や増築時に建物賃借料の免除などの支援を行ってきました。平成21年9月には、日本大学から日大練馬光が丘病院の経営状況が厳しいことから、更に病院に対する支援要請がありました。これを受けて区は、平成21年度と22年度の建物賃借料の免除や平成22年度の事務所賃借料の補助といった支援を行うこととしました。

練馬区側の回答は、

  1. 平成21年度と22年度の建物賃借料の免除
  2. 平成22年度の事務所賃借料の補助
これだけしか無かったとしてもよいと考えます。まずこれが日大の要求したすべてではないのは間違いありません。これだけの要求のために延々と交渉が続いたとは誰も考えないでしょう。ここに日大が譲れないと考えていた条件が全く反映されていないのだけは間違いありません。これだけ時間をかけて、それも撤退カードを切ってまでの交渉であるのに、得られた成果がこれだけであるのに失望したと考えられます。

練馬区側からの回答がいつ行なわれたかは不明ですが、ある程度早い段階で日大側も最終決定を下したと考えます。練馬区側の回答をベースにしての交渉はもう無駄だとの判断です。



今回の推理で、日大側の思惑は当たらずとも遠からずぐらいには思っています。問題は練馬区側の思惑です。練馬区は本当に日大を引き止めたかったのでしょうか。どうもその意志が弱そうな気がしてなりません。私の推理が当たっているとすれば、撤退の姿勢を見せる日大に対し、選挙まで交渉を秘密にして引っ張った挙句、実質ゼロ回答を行なっている事になります。そうであるなら、最初から引きとめる気がなかったとの推測も成立します。

もう一つの可能性は、日大の要求を練馬区は完全にブラフと見なしていた可能性です。色々要求しているが、日大は本気で撤退する気などないの読みです。それでも表面上は撤退カードを切っているので、それに答える程度の回答で必要にして十分の判断です。日大の要求には大山鳴動して鼠が二匹程度で満足するだろうです。

ブラフ説の根拠として、あくまでもおそらくですが、これまでにも類似の交渉があったんじゃないかと考えるからです。そりゃ20年間で90億円も赤字を出す病院ですから、日大にしても練馬区の支援を断続的には要求していたはずです。そのたびに今回程度の妥協案で話が終っていたので、今回もその程度で必要にして十分であるとの高の括りです。

ところが案に相違して、今回の日大は心の底から本気であり、この日大の真意を練馬区が完全に読み違えてた可能性は十分にありえます。


今回の問題で、外野として不思議なのは、日大が要求したものを練馬区側が殆んど明らかにしない点です。日大の撤退公表を受けて、交渉を打ち切り、継承事業者選びに突き進んでいます。交渉の場の空気が最早そうなってしまっているとの観測も可能ですが、日大の撤退宣言後の住民の反応から、ここで日大の条件を公表し、それが区民として受け入れられるかの是非を聞いても良さそうなものだとは思います。

公表した上で、日大の要求が無茶との反応になれば、それはそれで政治的にはそれなりに収まりますし、逆に受けるべしになれば日大とて反応が変わる可能性は十分にあります。

なぜそれをしないかが不思議といえば不思議なんですが、あえて考えればやはり新築移転問題がネックとなっているような気がします。たとえ住民が日大の要求を受けるとの反応になっても、練馬区としてはやりたくないの意思表示です。そうなると遺憾ながら9/8付タブ紙からですが、

区は8月、後継の病院運営法人の募集を開始。当初4法人が応募したが、区が示す条件と折り合わず、既に2法人が辞退した。

表面的には従来が日大が維持してきた診療体制の保持ですが、本音のところは新築移転の財政負担の条件の可能性もあると見ます。もちろんそれに伴う利権問題もあるかもしれませんが、5年、10年のうちに新築移転は待った無しになりますから、練馬区が要求する財政負担の条件が厳しいとも見て取れます。


さ〜て、どれだけ当たっているか、また真相が確認できるかどうかは、今後のお楽しみにさせて頂きます。