批評と言うより感想

佐々木俊尚氏はジャーナリストです。最近「ジャーナリスト」なる言葉に妙な色が付きやすくなっていますが、「似非」とか「自称」、ましてや「医療」とかしていない分で私の意を汲み取って欲しいところです。佐々木氏の主張と言うか思想は実のところ拾い読み程度しか存じません。そういう点は十分に割り引いて頂きたいのですが、佐々木氏の主張に「キュレーション」なる言葉が良く用いられます。これはJapanKnowledgeからですが、

ITジャーナリストの佐々木俊尚は「情報を収集し、選別し、意味づけを与えて、それをみんなと共有すること」と定義づけている。インターネットが行き渡った社会においては、情報が溢れてしまって、どの情報に価値があるのか取捨選択することが難しくなっている。そうした溢れる情報の中から価値あるものを発掘してそれを目利きする者が必要となってくるのである。美術館のキュレーター(学芸員)が、独自の世界観に沿って美術作品の解説を行うのと同じように、道先案内を必要としている人に対して、それなりの情報を拾い上げ、新しい意味を付け加えて、その方向性を示すという役割を担う。

大雑把な解釈ですが、ネットの発達によりマスコミ(既製マスコミないしは旧マスコミと今日は同義語とします)による情報統制のタガが外れ、とんでもない量の情報が溢れる時代になっているとまずされています。その増えた情報なんですが、増えすぎて個人では情報処理が出来ない時代になっていく、もしくはなっているとしていると主張されているとまず解釈します。

多すぎる情報が個人レベルでは処理出来ないのであれば、これを処理できる人間が必要となり、この作業をキュレーションと考えても良さそうです。もう少し裏付けが欲しいのですが、佐々木氏の公式サイトにキュレーション・ジャーナリズムとは何かと記された一文があります。これは佐々木氏の考えをより反映していると考えられますが、

インターネットのキュレーターは膨大な数の情報の海から、あらかじめ設定したテーマに従って情報を収集し、それらの情報を選別する。そして選別した「これを読め!」という情報に対してコメントを加えるなどして何らかの意味づけを行い、それをブログやTwitterSNSなどのサービスを使って多くの人に共有してもらう。

佐々木氏のキュレーションの定義で前から疑問に思っていたのは、

  • 誰もがキュレーション能力を必要としているのか
  • 誰かがキュレーションをしたものを参考にするのか
このどちらなんだろうがありましたが、どうやら「誰か」であり、さらに言えば

「そんなもののどこがジャーナリズムなのか!」と怒る人もいるかもしれない。たぶん古い新聞業界や出版業界にいる組織ジャーナリストにとっては、キュレーションをジャーナリズムと呼ぶのは耐え難い屈辱に映るだろう。しかし、考えても見てほしい。ジャーナリズムの本来の役割は、何かのことがらについて専門家から取材し、そのことがらが意味すること、それがもたらす社会的影響や未来像について読者にわかりやすく提示することである。

これだけで言い切ったら問題かもしれませんが、キュレーションを担うのはやはりジャーナリストであるのも念頭にありそうな気がします。もちろん現在のジャーナリストとは位置付けが異なるでしょうが、ある種の専門家集団みたいな構想ぐらいに理解しても間違っていないかと思われます。


そういうキュレーションなんですが、キュレーションの必要性が強くなるにつれ、「ネット vs マスコミ」が強くなると主張もあります。この場合のネットは、ネット情報のキュレーション化された情報を活かすものと、マスコミと言う情報統制機関の情報を尊重する者との軋轢みたいなニュアンスだと私は理解しています。なんとなくマスコミだってキュレーション機関の様な気がしますが、新旧機関の対決みたいにでも考えても悪くはなさそうです。

ここまで書けば、だいたいわかってくると思いますが、佐々木氏の主張は、これからの情報の質も量も、

    キュレーションされた情報 > マスコミによる情報
こういう価値判断がベースにあるとして良さそうです。将来の事はわかりませんし、個人的にはそんな単純で良いのかと思わないでもありませんが、とりあえず、これぐらいの理解で話を進めさせて頂きます。


怒濤の連続ツイート

かなりの分量になるので、後日書籍なり、有料メルマガに話をまとめられるとは思ってはいます。なにぶんツイッターなので、読み難いとは思いますが、

途中でツイートの相手をしたりしていますが、佐々木氏自身は「えーと、お酒はとくだん飲んでません」みたいなツイートもありましたから、シラフでの主張と受け取って解釈します。詳しくはリンク先を読まれるのが一番なんですが、私なりの解釈・見解を書いて説明してみます。

「おそらく」がこれから一杯出てくるのですが、佐々木氏は「ネット vs マスコミ」の構図は、やがてネットでのキュレーション情報が自然に優勢になっていき、旧マスコミの衰退と、キュレーションを活用した新マスコミ(みたいなもの)の台頭がダイナミックに起こると予想していたと見ます。そういう傾向があったかと言われれば私は否定しません。

ところが佐々木氏の予想通りの展開には必ずしもなっていないと認識したようです。これは「おそらく」ですが、ネット利用人口の急増が主因と考えます。ネット利用人口がここ数年だけでも急増しているのは検証の必要もないかと考えています。問題は急増した結果がどうなったかです。

ネットに参加する人間は、キュレーションされた情報に傾くはずだと考えていたのが、必ずしもそうならないの事態を感じ取ったと見ます。つまりネットには参加しているが、情報利用は旧マスコミの情報によって価値判断しかしない人間が非常に多いとぐらいにさせて頂ければよいでしょうか。そのためこれまでの「ネット vs マスコミ」の枠組みで状況を説明するのが無理があるとの認識です。

そうなると枠組みの変更が必要になります。私の読む限りベースの発想に大きな変わりはないようですから、基本は、

    キュレーションされた情報で価値判断を行なう者 vs マスコミ情報で価値判断を行なう者
これがこれまでは「ネット vs マスコミ」であったのを、「当事者性vsないものねだり論者」に境界線を引き直しています。たぶんネットに参加しても、価値感覚が変わらない人間は変わり様がないとの認識でしょうか。

それと基本は変わらないとしましたが、まったく同じと言うわけでもなさそうです。「キュレーションされた情報で判断する者 = 当事者性」「マスコミ情報で価値判断を行なう者 = ないものねだり論者」とできない様な気がするからです。「おそらく」なんですが、

当事者性 自分の問題と捉えて深く考えられる者
ないものねだり論者 表面的な不満で終始する者


我ながら拙い解説なんですが、深く考えられる者と、浅くしか考えられない者の2分類にされているような気がします。


発言の背景

怒濤の連続ツイートだけでの判断になりますから、その点は御了解頂きたいのですが、どうも執拗な粘着荒らし系に辟易した様子が窺われます。粘着荒らし系への対応は常に頭が痛い問題ですし、正直なところ精魂をすり減らすものがあります。これへの対応が嫌になってブログを閉じた者も少なからずいます。その点の心情は理解できます。

それと本業がジャーナリストですから、震災後の原発問題、震災復旧のための増税問題に対しても態度を明らかにされたんじゃないかと推測しています。私はヘタレですから、今でも触れるのが空恐ろしくて、せいぜい火箸の先っちょでツンツンしている程度ですが、それこそ火中の栗を拾うような姿勢を明示したと考えています。

そういう行為を行う事は評価できますが、一方で結果もまた十分に想像可能です。佐々木氏とてある程度の反発は予想していたでしょうが、それを遥かに超える反応に見舞われたと見ます。これは震災から早期であればあるほど反応は手厳しいと言うよりヒステリックであったのは皆様よく御存知の通りです。とくに原発なんて、「とりあえず今は必要」と口走るだけで原発推進派のレッテルをベタベタと貼り付けられるような状況はありました。

そういう洗礼を土砂降りの雨にように受け、さらにそれから執拗に粘着してくる連中から佐々木氏は新たな構想を得たと考えています。人間には分かり合えるレベルの人間とそうでない人間の2種類があり、さらにこの2種類は混じりあう事はありえないです。ちょっときつい表現なんですが、たとえばこんなツイートがあります。

そうです。RT @johnnys_pants:いわゆる「階級(生活水準等)」の格差に続いて、情報を正しく収集できる層とそうでない層に別れ、その分断(「キュレーション」能力の格差)が固定化し、攪拌が期待できない以上は、分断したまま行くしかない、ということですか?

ツイッターを読みなれていない人向けの解説ですが、「@Johnny_pants」以下がJohny_pants氏のツイートつまり意見であり、「RT」の前が佐々木氏のツイートつまり意見です。佐々木氏のツイートは、

    そうです。
これはJohny_pants氏の意見に完全に同意しています。ここからも2種類に人間は分けられてしまうだけでなく、その分断は固定化されてしまうの意見であると判断は出来そうです。


新構想の問題点

佐々木氏の構想の2種類の人間は分断され固定化されていますし、混じりあう事も拒否されています。佐々木氏は当事者性のある人間だけで、「新たな圏域」「別の社会」を構築すべきだともし、そういう思想が選民につながるかと言えば「そうである」までしています。

どうにも表現が生々しいのですが、こういう考え方は個人でならごく普通のものだと考えます。「当事者性」とか「キュレーション」なんて物々しい言葉があると難しそうに思いますが、単純に嫌な奴は敬遠するです。聖人でもない限り、積極的に嫌な奴と付き合おうとは思わないわけですし、可能であれば近づかないようにするのは誰でも多かれ、少なかれ行います。もちろん全部は無理ですから、あくまでも可能な範囲でです。

個人でそれが可能であるのは、そうしても社会生活に支障が無いからです。また嫌な奴とも必要最低限は付き合います。もうちょっと言えば、人間関係は複雑なもので、自分が嫌と思っても、自分の知人はそうでもないなんて状況はいくらでもあり、なんのかんのでコミュニティはそれなりに繋がっているみたいな関係はあります。聖人まで行かなくても、かなりの人格者は一定頻度で存在し潤滑油になってくれるのが社会と考えています。


これが社会全体と言う事になると、かなり大変です。新しい圏域、別の社会と言っても、しょせんは一つの社会の一部に過ぎません。佐々木氏とて、ノアの箱舟に乗って「ないものねだり論者」が全滅するのを期待しているわけではないでしょうし、「当事者性」の人間だけ引き連れて独立国を作ろうとしている訳ではないと思います。あくまでも思想上のことで、一切の関りを持たない階級を作ろうと考えているぐらいに解釈します。

精神衛生上は良さそうですが、当事者性人間の圏域が出来れば、一方でないものねだり論者の圏域も成立します。こういうシンプルすぎる二層構造の社会は安定が悪すぎると思います。トドのつまりは両勢力の主導権争いが妥協なく行われ、混乱した社会の発生を危惧します。


3.11の影響

3.11の心理的な影響は今も多大です。この点の佐々木氏の見解はどうであろうかの疑問はあります。震災発生から福島原発問題への衝撃の連続は、感情を大きく揺さぶっています。人間には理性と感情がありますが、どちらが基本的に強いかと言えば「理性 < 感情」です。例外は無いとは言いませんが、生まれつきで理性で感情を完全にコントロールできる人間は非常に稀だと考えています。さらに理性は多くの場合、鍛錬の結果として強くなります。

震災と言う途轍もない衝撃は、理性のコントロールが強いものでも感情を押さえきれなくなると考えます。誰とは名指ししませんが、理性的と見られていた人間が、震災後に電波もどきの情報発信を繰り返していたのを覚えています。非常に強烈で、ある日に「Aでなければ日本は壊滅する」とぶち上げたと思ったら、翌日には「Aはもう心配ない、むしろBだから日本は安泰」みたいな調子です。

震災後の心理状態の変調は私も強く感じていましたし、誰もが多かれ少なかれあったと思います。もちろん直接の被害の状況が大きいほど強くなるでしょうし、個人の感受性によっても変わります。こういう震災の感情への影響をどう評価するかです。佐々木氏のツイートです。

3.11後の基本的な認識として、フラット化の次にやってきたマスメディアvsネットという対立軸は昇華されて、いま当事者性の問題がメディアの立ち位置の問題として浮上してきてるということです。

どう見たって自由なんですが、佐々木氏は震災の影響を社会の変質ととらえています。では私ですが、あくまでも一過性の変動と捉えています。もちろん、これだけの衝撃ですから一過性の変動と言っても、完全に元に戻るわけではありません。衝撃の後の変化の大きさの問題と考えてもらえれば思います。大きく変動し変質にまで至るとするのが佐々木氏であり、変動はあっても小さく、おおよそ元に近い状態で戻るが私です。

ここも誤解されないように断りを付けておきますが、マスとしての考え方、意識の変化です。ここの予測が変われば、結論も当然変わることになります。どっちの見方が正しいかですが、こればっかりは時間しか解答が出せません。


老婆心

佐々木氏の現状分析自体は大きな異論はありません。全くないわけではありませんが反論するほどのものはありません。問題になるのは、現状分析からの次への予想と、その対応です。次への予想は上述したように3.11後の社会の変動の見積もりです。ここで大きいと取る予想はウソでも何でもありません。そうなるかもしれないの可能性は説を主張できるぐらいにはあります。

では佐々木氏の予想が正しいとして、分断社会を是認するのはどんなものでしょうか。社会に適応しても短期的には支障は少ないかもしれません。短期とは佐々木氏や私が生きている間と言うスパンです。佐々木氏の構想通りに進んでも、完全に分断され交流が途絶する社会が完成するまで10年ぐらいは必要でしょうから、そこから中長期の混乱発生までには、縁がないかもしれないからです。

ただ交流なき分断社会の完成は破滅の道につながるのはそれこそ歴史が証明しています。

個人的に思うのは、もちょっとマイルドな論にすべきであったと思っています。私なら同じような結論に達したとしても、むしろ分断社会が出来る怖れへの警鐘にします。そういう社会になってしまうのは好ましくないとのスタンスです。好ましくないと前提しておいて、それでも現在の社会は当事者性を持つ者のコミュニティと、ないものねだり論者のコミュニテイに分かれていき、混乱を招くのは必至であるみたいなストーリー構成です。

佐々木氏がそうしなかった理由として考えられるのは、

  1. ジャーナリストとしての職業柄、あえて刺激の強い方向性を打ち出す必要性を考えている
  2. あくまでも連続ツイートは構想をまとめるプロット段階であり、別に結論としたわけでない
  3. 以前から荒らし系の対応に神経を尖らせていて、この日も煽られたからつい暴走した
  4. 震災の心理的影響が佐々木氏にはまだまだ強い、もしくは変質してしまっている
もっともしょせんは机上論であり、私なんて論外ですが、佐々木氏であっても論を立てても社会への影響は実質的にゼロですから、もっとお気楽に数打ちゃ当たる式の主張に過ぎないかもしれません。

それでもツイッターに残ってしまっていますから、今後の佐々木氏の活躍に支障が無い事を祈るばかりです。もし怒濤の連続ツイートに後悔されておられるのなら、ツイッターであっても、もう少し構想を練ってから書き込むべきだったぐらいに老婆心で思っています。もちろんあえて刺激を強めて関心を呼ぶ方針であれば、それはそれでお仕事のうちですから、何も言う事はありません。