日大光が丘病院問題・水面下交渉の50億円

光が丘病院問題の大きな謎の一つは、何故に日大が撤退声明を出したのだろうです。これまででもそれなりに情報がありまして、

  1. 1991年4月に経営を引き継いでから光が丘病院が出した赤字が90億円にも上っている事
  2. 施設の老朽化による新築移転問題へのさらなる投資の問題
  3. 同じ日大系列の駿河台病院も含めて、日大大学病院の整理
ぶっちゃけた話、日大も経営が苦しいは情報としてありました。カネの問題はなんのかんのと言っても大きな問題で、私学の雄日大といえども、無い袖はふれないのは確かです。大学経営と言っても企業経営と基本は同じですから、経営が苦しくなれば不採算部門は整理しようと動くのは不思議とは言えません。ですから日大と練馬区の間の交渉は、経営赤字の補填問題、つまりは援助の交渉の決裂と見ていました。新築移転問題も含めての費用負担問題です。

具体的にどういう条件を日大が提示し、練馬区がこれに答えたかは水面下の秘密交渉であるがために、これまで殆んど表面に現れて来ませんでした。わかる範囲で再掲しておくと、

年月 事柄
2010年2月 日大からの光が丘病院撤退の申し入れ
2011年3月 日大は一旦撤退を撤回
2011年4月 練馬区長選挙
2011年7月 日大から撤退の決定通告


この情報も2010年2月時点で日大が撤退をいきなり申し込んだとは思いにくいところがあります。当たり前ですが、それ以前から交渉はあり、日大と練馬区の条件の溝が深くて広すぎて、日大側が交渉のためのカードとして切ったと考える方が自然です。2011年3月時点の撤退撤回の一時凍結は、4月の区長選挙のためのある種の政治休戦と見れます。もう少し言えば、再選を目指す区長が選挙前に日大撤退の情報を公にしたくなかったと考えても良いと思っています。

無事区長は再選されたのですが、再選からわずか3ヵ月後に日大が撤退を一方的に宣言する事態に急展開します。これは区長再選後に練馬区が日大に提示した条件に絶望したからではないかと考えるのが妥当でしょう。ここまでは今までの推測です。


とは言うものの具体的な内容がこれまでサッパリわかりませんでした。練馬区がここまで渋るぐらいですから、日大側の要求条件はかなり厳しいものであろうぐらいは推測されますが、わからない事には憶測ばかりが飛ぶ事になります。憶測の中に地域医療振興協会黒幕説みたいなものまで飛び出てしまいます。ここまで来たらもう出ないと思っていたのですが、日大側から転がりだして来ました。11/25付日大医学同窓新聞です。

 本学の練馬光が丘病院は、もともと練馬区医師会が経営する病院だった。しかし、平成3年には、約95億円にのぼる債務を抱えて、経営に行き詰っていた。練馬区医師会は、資産を売却するなどして切り抜けようとしたが、それでも50億円もの債務が残る状態だった。それを救済したのが本学である。本学は、練馬区に50億円を融通した。詳細を省略すれば、練馬区は、その資金で練馬区光が丘病院を購入し、練馬区医師会は、その資金で債務を返済したものと言える。

 本学と練馬区は、これを機会に契約を締結し、練馬光が丘病院を本学の附属病院として運営することになった。本学と練馬区との間の問題は、このときの契約に始まったと言っていい。本来、本学が融通した50億円は、契約のきっかけになったとはいえ、契約そのものとは関係がない。ところが、それを保証金と表現して契約を締結したのである。

 そのため、年月を経て関係者が入れ替わるにつれ、見解の相違が大きくなってしまった。たとえば、本学は、少なくとも最初の契約期間である30年で、必ず返還されると考えてきた。ところが、練馬区は、それが過ぎても、契約が更新されれば返還されることはないと明言するようになった。それでは、本学の附属病院である限り、50億円は永遠に返ってこないことになる。

 そこで、本学は、約3年前から、この問題を含めて契約を見直すよう練馬区に提案してきた。しかし、練馬区は、それを頑なに拒否して解釈を変えようとしなかった。そのため、本学は、そのような解釈をするなら、水面下での交渉とは言え、練馬光が丘病院の運営から撤退することも辞さないという意思表示をすることになった。それが約2年前のことである。

 それでも練馬区の態度は変わらなかった。そのため、本学は練馬光が丘病院の運営から撤退することを公表することになった。大学としては、区民に事情を明らかにして、区民の声を借りつつ練馬区に良識ある判断を促そうとしたのである。

 それでもなお、練馬区は、強気の姿勢を崩さず後継法人を公募した。それに応じたのは、わずか2法人だったが、そのうちの一つである地域医療振興協会を後継法人に選定した。あたりまえだが、契約のための保証金など要求しなかった。今どき巨額の保証金を出して自治体の所有する病院の経営に乗り出す法人などあるわけがない。

 区民は、本学による練馬光が丘病院の運営が継続されることを強く求めている。それは、ひとえに、練馬区が「いずれ50億円は返還すべきものと認識している」と言えるかどうかにかかっている。なぜ、区民の医療を確保するために、それくらいのことを言えないのか。練馬光が丘病院の教職員の方々には、いろいろご心配やご苦労をおかけしており、心苦しく思っている。

やはりカネの問題であるのは当然として金額は、

    50億円
たしかにこれは交渉が難航化するに相応しい金額です。この50億円についての解釈で日大と練馬区は徹底抗戦したと言う事になります。この50億円は表面上と言うか公式上は日本大学医学部付属練馬光が丘病院の運営終了についてにも、

開設時に練馬区に差し入れた無利息の保証金50億円

これもよくよく考えてみると不可思議なものです。つうても詳しくは知らないのですが、病院の委託経営でここまで巨額の保証金がいるのだろうかです。1991年はまだバブル景気の最中であったとは言え、チト高額すぎる気がします。それだけあれば保証金を入れて借りなくとも、それこそ病院ごと買収できそうな金額です。

そこについての日大の見解として、1986年11月に前身の医師会立として運営された時の赤字の穴埋めでとして純粋に融通したものとしています。これもまた豪気な話で、幾ら景気の良かった頃の話としてもポンと50億円を無利息で融通したと言うのも驚かされます。

これは推測になりますが、当時の日大として関連病院を広げる計画があったんじゃないかと考えています。そこでたまたま目に付いた物件が光が丘病院であり、本当は買収交渉に動いていたんじゃないかとも考えています。ところが、それこそ色々あって、所有者は練馬区の方が継承がスムーズに進むみたいな話が展開し、買収する代わりに無利息の保証金と言う形で契約した様にも考えます。

推測なんですが、この辺の見解の相違が今になって表面化したのが今回の騒動の様に思います。つまり

  • 日大は結果としてあくまでも「貸した金」であり、条件を満たせば返還されるのは当然である
  • 練馬区は実態として「もらった金」であり保証金と言いながら返すつもりはない
この練馬区の保証金に対する見解が、区議会議員である池尻成二のブログ「50億円」の謎 〜裏側から見る光が丘病院問題〜 その7にあります。

2009年9月の議会答弁を見る限り、練馬区はそもそも保証金を返すつもりがなかった、日大が病院の運営を続ける限り返さなくてもよいと考えていた。「担保としての保証金の扱いは、それは今の時点で、はいそうですかというのは、なかなか厳しい」と、地域医療課長ははっきりと語っています。

日大が急に保証金50億円の返還問題を蒸し返したのは、やはり経営問題だと思います。光が丘病院運営はおそらく日大理事会でも問題となっていたと考えます。医学部としては維持したいの意向はあったかもしれませんが、日大としてはこれ以上の出費は困るぐらいの展開です。そういう状況で出てきたのが保証金50億円です。

50億円を赤字の補填なり、医療設備の更新に使えたら話は変わってきます。日大の見解としてあくまでも無利息とは言え返してもらえるカネです。たとえば10年後であっても確実に返却してもらえるのなら、貸した金でも価値が出てきます。ほいじゃ、その確認をまずしておこうとなったのが日大医学同窓新聞にある、

    そこで、本学は、約3年前から、この問題を含めて契約を見直すよう練馬区に提案してきた
練馬区が渋った原因も容易に推測できるかと思います。練馬区は50億円のカネをどうしたかと言うと、保証金と言いながら、
    詳細を省略すれば、練馬区は、その資金で練馬区光が丘病院を購入し、練馬区医師会は、その資金で債務を返済したものと言える
要は使ってしまって無いと言う事になります。その上で返済のために再び50億円を積み立てる事もしていなかったと見ても良さそうです。これは返済はどうせ30年後だし、練馬区の見解として敷金みたいなもので、30年もすれば補修費で使い尽くしてオシマイぐらいで流していたと見ても良いかもしれません。さらに返すつもりはないとの見解を議会答弁で行っていた経緯もあり、今から10年後であっても返還確約なんてトンデモナイの姿勢に終始したと考えるのが妥当です。


延々と50億円を巡っての交渉は続く事になり、交渉開始の1年半ばかり後の2010年2月についに日大は痺れを切らして撤退カードを切ったものと思われます。それでも交渉は平行線を辿り、なんとなく日大側が交渉内容を公表すると言い出した様な気がしています。これは再選を目指す区長にとって避けたい事であり、20113月の休戦は、そうとう甘い事を言って再選に臨んだ見れそうな気がします。

ところが再選後に出した区長側の回答は従来のゼロ回答を基本的に踏襲したものであり、さすがにこれ以上の交渉は無駄と見て、2011年7月の日大側の電撃発表につながったとしても良さそうです。日大の撤退発表の真意をこれだけで判断するのは危険かもしれませんが、

    本学は練馬光が丘病院の運営から撤退することを公表することになった。大学としては、区民に事情を明らかにして、区民の声を借りつつ練馬区に良識ある判断を促そうとしたのである。
11月末時点の話なので割り引く必要はあるとは言え、うなづける部分はあります。つまり現在後継とされる協会が苦悩している事態を読み込んでの発表です。誰が後継になろうが、4月までに現在の日大レベルの医療体制を提供できる団体など日本に存在しないという事です。

日大は7月に撤退を発表して、4月には後継法人が引き継ぐなんて無理です。無理な事は練馬区も知っているはずであり、2010年2月の水面下交渉の撤退カードのさらにバージョンアップ版を切ったと見る事はできます。ここまでの瀬戸際交渉に持ち込めば練馬区も翻意するのではないかの計算です。練馬区民が50億円返還を受け入れるかどうかは未知数ですが、練馬区民が受け入れないと言うなら日大も「撤退もやむなし」みたいな腹積もりであったとしても良い気がします。

ところが練馬区側は水面下交渉については完全に蓋をして、日本大学による日本大学医学部付属練馬光が丘病院の運営が平成24年3月31日をもって終了しますで、

 しかし、平成22年2月に日本大学から区に対し「大学の理事会において、付属病院3か所の経営が思わしくないため、平成23年3月31日をもって日大練馬光が丘病院の運営から撤退することを決定した」との報告がありました。

 撤退の理由として、日大練馬光が丘病院は開設以来支出超過が続いていることとしています。また、賃借期間については、民法第604条を根拠に、当然に20年に短縮され、期間満了により平成23年3月31日に運営を終了するものであるとの主張でした。

 これに対し、区は、撤退は了承できないこと、基本協定書および公有財産貸付契約書に基づき、少なくとも平成33年3月31日までの30年間は日本大学が責任をもって病院運営を行うべきであることを主張しました。その後の協議によって、平成23年3月31日の撤退は一旦回避されました。

 その後、区は、受診されている方をはじめ、区民の皆さまの混乱を防ぐため、病院の運営継続を求めるとともに、もし日本大学が撤退するならば、責任を持って引き継ぐ医療機関を探すように要請してきました。それにも関わらず、日本大学は撤退の意向を変えず、引き継ぐ医療機関の紹介さえなされませんでした。

 そして、平成23年7月4日に、日本大学から平成24年3月31日をもって撤退するとの正式な申し出がありました。

ある意味決裂宣言を行って後継医療法人選定に突っ走る事になっています。

今日の情報に基いても不可解な部分は多々あるのですが、前身の医師会立病院が破綻した時に練馬区はその処理に苦悩したのだと考えています。そういう時に日大が50億円提供する申し出は本当にありがたかったと思っています。それこそ練馬区側はもみ手して日大の50億円を受け取ったと想像できます。そういう練馬区側が下手に出る状況下で「契約条件は形式上はこうさせて下さい」みたいな状況で、当初の契約は成立したと推測しています。

日大側の計算外と言うか脇の甘い点だったのは、練馬区側の担当者が代わると言う点であったと見ます。契約を交わした当事者間で幾ら口約束を交わしていても、20年間で担当者がコロコロ変われば口約束部分は消え去り、残るのは契約書にある条件だけになります。お役所相手の交渉ではママある事です。前任の担当者と合意寸前まで漕ぎ着けていたものが、担当者が変わるとすべてご破算になるなんてありふれたお話です。


日大側の言い分をある程度まで真実と取ると、溝深いですねぇ。最後の交渉相手の区長も3年前から同じだし・・・練馬区民は協会病院で我慢するしかなさそうな気がします。ただ7月時点で50億円が表面化していたら、日大残って運動が盛り上がっていたでしょうか。その点については神のみぞ知る世界になると思います。「日大に50億円返しても残ってもらえ」になりますからねぇ。