日曜閑話35

今日のお題は「武蔵坊弁慶」です。京の五条の橋の上で牛若丸と戦い、安宅関で勧進帳を読み上げた弁慶です。名前は後世に有名なんですが、ほとんど謎の人物であるのも知る人ぞ知る事実です。弁慶が後世に流布されたのは義経記によるものが大きいようで、相当量は後世に創作された部分が大きいとされています。

弁慶が義経の忠臣であったであろう事は確実そうに思います。衣川での義経の最後にも殉じたと信じておきます。ここまで疑ったら話が進まなくなります。また義経記の弁慶のエピソードもある程度の事実に準じたものと仮定します。そうしないと私如きでは資料も無く、想像力の翼も広げようが無いからです。

弁慶とは何者であったかですが、ここも単純に僧兵であったと考えて良さそうです。僧兵は説明するまでもありませんが、寺社を守るための傭兵集団です。傭兵と言うよりもフランスの外人部隊みたいなものを思い浮かべる方が良いかもしれません。どうやったら僧兵になれるかは時代で異なるでしょうが、腕っ節が強くて何らかのコネがあれば潜り込めたかと考えています。

弁慶と義経は切っても切れない関係にあるのですが、源平合戦の前半戦は保元平治の乱です。この二つの合戦により源氏勢力が凋落し、英雄清盛率いる平家が全盛を極める事になります。この平治の乱があったのが1159年です。ただこの時に義経は生まれたばかりの乳呑み子です。義経鞍馬寺に預けられ、僧となるように軟禁されるのですが、これに対しての工作が行なわれます。

史実として義経鞍馬寺を脱出し奥州藤原氏の保護になったのは事実ですから、誰かが義経を焚き付けたのだけは間違いありません。これも平家物語には義経の父の一の郎党であった鎌田正清の息子となっていますが、本物かどうかはもちろん不明です。鎌田正清の息子が本物でなくとも、僧兵集団の中に源氏の残党がいてもおかしくありません。

源氏残党グループは平家全盛の世の中ではうだつが上りませんから、義経を焚き付けて一旗あげようと工作したと考えています。この工作はある程度の成果をあげ、義経の鞍馬脱出につながっていくのですが、おそらくこの義経焚き付けグループに弁慶は参加したと思われます。

弁慶も世に出たいの願望が強い一人の人間であったと考えます。おそらく腕っ節も強く、世知にも長けていたところはあったと思います。しかし源平時代は身分制が非常に強固な時代です。武家だって公家から見れば虫けらのように見られていましたが、武家から見ても無名の人間は相手にしない時代と言う事です。弁慶は熊野の別当湛増の息子と称していましたが、落魄武家貴族の義経に会うのにもこの程度の出自が必要であったと考えています。

弁慶と源氏残党グループの関係は永遠に不明ですが、弁慶が義経焚き付けに残党グループに接近したと考えられる一方で、源氏残党グループが弁慶に接近した可能性も残ります。後年、義経が頼朝に追われ奥州まで逃げ延びるのに際し、僧兵グループの援助があった事を示唆する資料が残されています。これは考えようなのですが、弁慶が僧兵グループの有力者と言うか頭目に近い位置付けにあり、源氏残党が義経焚き付けに引きづりこんだ可能性も十分あると考えています。

もう少し飛躍すると、世に出たい弁慶が源氏残党を焚き付け義経を世に出したの可能性も考えられます。無名で出自も門地も無い弁慶が世に出るために、義経を押したてて旗頭にしたと言う考え方です。とにもかくにも義経は鞍馬を脱出し奥州に向う事になります。


ここで活躍するのが金売り吉次ですが、その前の疑問として、どうやって奥州藤原氏義経なりその焚き付けグループが知ったのであろうかです。京都の人間にとって奥州は遠いどころのものではありません。現代の人間がブラジルやアフリカに行くより遠いかもしれません。当時の寺は宗教機関と言うより大学に近い位置付けでしたから、物知りはいたとは思います。

寺の物知りから知識を得た可能性もありますが、金売り吉次から直接聞いていた可能性もあります。金売り吉次は商人とはなっていますが、むしろ奥州藤原家の代理人に近い権限をもっており、奥州藤原家から「貴種を買って来い」の命を受けていたと想像します。これは時代を知らないと難しいのですが、貴種の血は非常に珍重された時代です。

吉次が危険を冒して義経を鞍馬から脱出させ、奥州藤原家が篤く歓待したのは、義経の血であったと考えるのが妥当です。ですから貴種を買いたい奥州藤原家の意向と、とにかく義経を世に出したい焚き付けグループの思惑が一致し奥州行きが実現したと考えています。


ここでわからないのが弁慶です。弁慶のグループが鞍馬脱出に手を貸したのは間違いないでしょうが、弁慶自身が奥州まで行ったのかを確かめる資料がありません。義経が次に歴史の表舞台に登場するのは、富士川の合戦の後に兄頼朝と対面する黄瀬川になります。この時に義経が率いていた郎党では佐藤兄弟が有名ですが、その他は不明です。

その他の中に弁慶が含まれていたのか、これを確かめる術はありません。含まれていたとしても序列的に佐藤兄弟よりかなり低かったのだけは間違いないでしょう。ひょっとすると含まれていなかったかもしれません。何が弁慶の足跡をたどる上で厄介かと言えば、この次に弁慶が登場するのは源平合戦終了後の奥州逃避行まで無いことです。

無いと言うのは正書にないだけでなく、平家物語などにも登場して来ないのです。義経宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦と戦史に残る圧勝劇を演じますが、弁慶の登場場面など記憶の端にもありません。弁慶はどこに行ったのだと言う事です。考えられる可能性は、

  1. 弁慶は義経に奥州から随伴していたが、目ぼしい活躍はなかった。これは出自で他の郎党の下に置かれ、家臣の端にはいたが目立つ活躍ができなかった。奥州逃避行の時には序列が上の家臣がいなくなり、繰り上がって弁慶が表面に出てきた。
  2. 義経の鞍馬脱出にはそもそも随伴せず、さらに源平合戦にも参加せず、頼朝に追われた義経に頼られて奥州逃避行の段階から参加した。
1.の説の方が順当ですが、ひょっとして2.もありうるかと思っています。義経の奥州逃避行に僧兵集団の関与は濃厚です。弁慶が僧兵集団に影響力を持つとしても、鞍馬から奥州に義経が出た段階で随伴していれば僧兵集団への影響力は自然に低下します。鞍馬時代に世話をした義経が苦境に陥ったのでもう一度助力したという可能性です。

ただ2.の説では、そもそもなんのために義経を世に出したのかの疑問が出ます。鞍馬脱出の目的は義経を世に出し、自分もそれに引っ付いて行くのが目的ではなかったかと言う事です。



確認できる史実が少ないので幾らでも想像の翼が広げられるのですが、奥州藤原家と弁慶の関係をもう一度考え直しておいた方が良いかもしれません。先ほど金売り吉次が奥州藤原家の代理人と仮定しましたが、弁慶もまた奥州藤原家の代理人であった可能性が出てきます。吉次が連絡員で、弁慶が現地駐在員の関係です。

弁慶と吉次は義経だけでなく、それ以外にも京都で貴種をみつけ、奥州藤原家に送り届ける仕事に従事していた可能性を考えます。その中でも結構な大物が義経であったと言う事です。さらに義経は奥州藤原家の当主である秀衡に非常に気に入られます。気に入られたと言う事は、莫大な恩賞が与えられた可能性が当然あります。

源平合戦後の義経と頼朝が対立関係になるのですが、この時点で奥州藤原家から「義経保護」の指令が出たと仮定するのは可能かと思います。鞍馬からの脱出に較べて、頼朝の支配が広まっている東国を抜けての奥州脱出の方が困難であったので、今度は弁慶も同伴したと考える事はできます。今度の方が恩賞がより確実であると言うのもあるかもしれません。


そこまで想像の翼を広げると、さらに次もが広がります。弁慶個人を中心に考えるから話が見えにくくなるのであって、奥州藤原家には貴種買取機構があり、これの京都出張所が僧兵集団であったと考えた方がシンプルかもしれません。寺社は政争などで敗れた貴種が送り込まれる面があり、現役の貴種を引き抜くより仕事は容易ですし、波風も立ちません。貴種の方も性格によりますが、僧が性に合わない人間なら、いっそ新天地にと考えやすい面も出てくると思います。

義経源平合戦で貴種の価値を高めていますし、北の帝王秀衡のお気に入りです。秀衡からの指示もあったかもしれませんし、無くとも再び義経を奥州に送り届ければ恩賞は確実と考えてもよいでしょう。そこで僧兵集団から義経護送の責任者に任じられたのが弁慶ではなかったかと考えます。弁慶は僧兵集団からの指令を忠実に果たし奥州まで義経を送り届けるのに成功した功労者と言う事です。

では衣川の立ち往生はどうかとなります。弁慶にすれば義経は商品であり、死んでまで守る必要は無いことになります。状況的に逃げる余地がなくなりやむなくもありますが、僧兵集団から受けた命令を重視しすぎた可能性を考えます。義経を生かしておくことを重視しすぎて逃げそこなったシチュエーションです。後から見る我々は、歴史の流れから義経の逃げ場はなくなっている事を知っていますが、当時の情報伝達からして、そこまでの状況判断ができなくても不思議ないでしょう。


考えれば色んな可能性が膨らんでいきますが、この辺で休題にさせて頂きます。