総括会議の次のお題は「広報」だそうです

今日も新型インフルエンザ対策の総括に絡みます。第1回会議では尾身氏が「学校閉鎖は偉大なり」の主張を繰り返し唱えておられましたし、尾身氏がどういう立場でのポジション・トークをされているかは説明の必要も無いと思います。そういう結論が提示された上での総括会議になるのは間違いないのですが、それでは今後の感染対策を誤らせる可能性があると考えられます。

尾身氏が

  • 委員会の人選について。現場の声をきくのはいいことだ。ただ、我々や厚労省は現場の声はいろいろと聞いている(!!)。そのような人たちが行っている委員会であり、厚労省内閣府とたくさん議論をしてきた。
  • 今回の総括が政府全体の総括ということであれば、厚労省以外の政府関係者にも参加してもらうべきだ。専門家会議の基本的な役割は対策会議から聞かれたことに対してプロとしての意見を述べることであった。
  • とくにパンデミック初期は専門家会議以外にも公式非公式にたくさんの意見交換を行っていた。WHO等の情報もコンスタントに入っていた。2つを除いてほとんどすべての政策に専門家会議の意見が取り入れられた。

現場の声を極力排除したいとされているのなら、現場は勝手に声をあげさせて頂きたいと思います。この尾身氏の主張もよくよく見れば珍妙で、

    今回の総括が政府全体の総括ということであれば、厚労省以外の政府関係者にも参加してもらうべきだ
ここは話としてはわかります。厚労省の総括ですから、他の省庁との関連に関しては政府の総括時にするというのは筋は通っています。では厚労省の総括なら何が重要かですが、厚労省の管轄する範囲でどうであったかを検証すべきものになります。厚労省は医療現場まで管轄していますから、厚労省と現場の間に温度差がなかったか、対策に齟齬がなかったかを検証しなければなりません。
    我々や厚労省は現場の声はいろいろと聞いている
尾身氏や厚労省がそう考えるのは勝手ですが、検証とは本当に「聞いていたか」も含めて為されるものであり、その検証をせずに「オレは聞いていた」の主張をされても説得力に欠けると言う事です。尾身氏が「聞いている」と主張するなら、私は「聞いているようには到底思えない」の反論をしておきます。私の反論も主観的なものですが、尾身氏の主張にも客観性があるとは現時点では言えません。

もう一つ重要な事は、新型インフルエンザ対策の根本についての議論が見えてきません。これは卵の名無し様が喝破していますが、

そもそも責任者を明らかにしてからじゃないと総括など議論不可能なんだけどw

尾身氏は自分が所属した専門家諮問会議の役割を

    専門家会議の基本的な役割は対策会議から聞かれたことに対してプロとしての意見を述べることであった。
役割は小さく大きな責任を負うような立場ではないとしています。ほいじゃ、誰が責任者として新型対策を行なったかになりますが、形式上は政府の対策本部の委員長である麻生前首相及び鳩山首相になります。確かに最終責任を取るのは政府の対策本部長でしょうが、前首相も現首相も果たした役割は、行政府の長として出来上がった案を承認するだけの役目しかありません。

前首相や現首相に新型対策を自ら考えて実行する能力は無いという事です。これは恥ずべき事ではなく、最終責任は首相として取りますが、本当の責任者は政府の対策本部に実行案を作り上げて提出する人物となります。これが誰かになりますが、通常は医療行政を司る行政府である厚労省の長である厚生労働大臣になります。

ではでは、舛添前大臣や長妻大臣が実質の責任者かと言えばこれまた微妙になります。首相に較べて新型に対する知見は深くなりますが、しょせんは厚労大臣とて医療の専門家ではありません。舛添前大臣は比較的医療について詳しかった人物ではありますが、未知の感染症に対する対策を独自に切り開けるほどの能力はありません。厚労大臣とて厚労省内で出来上がった案に少々口を挟むぐらいが精一杯と考えます。長妻大臣ならなおさらです。

そうなれば実権を握っていたのは厚労官僚のさらに医系技官になります。医系技官がこしらえた案が上に上に昇って行っただけと考えるのが妥当でしょう。簡単に書けば、

    第一段:医系技官が対策案を作る
    第二段:対策案を厚労大臣が承認
    第三段:厚労大臣が提出した案を政府の対策本部(首相が委員長)が承認
こういうシステムであるのは必ずしも批判しません。厚労大臣も首相も政治の都合でいつ交替するかわかりませんし、交替した新任の大臣が医療に詳しいかどうかは運次第です。そこで一貫した対策を行なうために厚労官僚がある程度のイニシアチブを取るのは理解は出来ます。しかし実質的な主導権を握ったなら、それに伴う責任も明確化すべきだと考えます。

あくまでも私の意見ですが、厚労省の総括では責任者は故意の重過失でも無い限り責任は問うべきでないと考えています。一方で評価できる功績は素直に称賛しても良いと思っています。責任者の明確化が必要なのは総括で意思決定過程のシステムを分析して欲しいのがあります。責任者が不明確なら、

    政府対策本部:「厚労省から上ってきた意見を承認しただけだ」
    厚生労働大臣:「省の対策本部で出来上がった案を伝えただけだ」
    専門家委員会:「我々は意見を求められただけだ」
尾身氏や厚労省がいくら「現場の声は十分聞いている」と主張されても現場サイドには強烈な違和感が残っています。打ち出された対策のうち、どうにも不都合と感じられるものは容易に変更されず、不都合な対策を断行するために周辺の対策を朝令暮改して突き進んだとの実感です。なぜにああいう動きになったのか、次にこれを避けるための対策を考えるには実質的な責任者の証言が必要だと言う事です。

実質の責任者も関係各方面からの要請とか利害がテンコモリあって、これの「調整」に苦慮したでしょうし、「調整」は表に出せない事も多々あるでしょう。表に出せないものは言えないとしても、次にこれを封じ込めるシステム提案ぐらいは出来るんじゃないかとも考えています。出来るにせよ、出来ないにしろ責任者が不明な限り、それさえもわからずに総括し次に備えてしまう事になります。

まさかと思いますが、総括会議で「新型対策は大成功」と結論されてから、「あれはオレがやった」とシャシャリ出る算段であれば悲しい事です。これがありそうなので怖いところです。


さて第2回の総括会議のテーマは、京都の小児科医様からコメントを頂いていますが、

次回が「広報?」上 昌広先生のtwitterより

http://twitter.com/KamiMasahiro/status/11367020597

次回のインフル検証委員会。テーマは「広報」。ふざけているなあ。国会でインフルワクチン法案の審議があるため、できるだけ問題にならないテーマを選んでいるのが見え見え。医系技官は、こんなことをするから信頼されない。「ワクチン」「検疫」「発熱外来」など問題になったテーマからやろうよ

上先生の「ふざけてるなあ」の感想はともかく、とにかくテーマは、

    広報
これなので、総括会議の前に論議しておいても良いと思います。「広報」と言ってもどこまでを「広報」と定義するかから問題なのですが、とりあえず初期だけ考えて見ます。初期の新型インフルエンザの認識は「殺人インフルエンザ」です。これは最初に発見されたメキシコの当初情報がそうであったためです。そこしか情報源は無かったのですから、これは致しかたありません。

問題点は多岐に渡るのですが、当初の「殺人インフルエンザ」の認識が後の情報により「そうでもなさそう」に変化していくのですが、それに伴う情報提供を的確に出来たかの問題は検討されなければならない事です。未知の感染症ですから情報が訂正されるのは当然の事であり、新型対策の広報としも変わり行く情報に対して対応を求められるのは当然です。

未知の感染症ですから当初は強めに広報するのは問題ではありませんが、節目、節目で変化する情報を広報しきれたかと言うとどうかの問題です。これは結果論ですが、最初は強すぎるぐらいの広報であり、その後に的確な修正が行われなかったので、中途半端に「怖い」「そうでもない」の情報が錯綜したと考えています。

広報の目的は私が考えるに

  1. 「怖さ」を周知する
  2. 冷静な対応を求める
この2つがあり、国レベルならこれは両輪のはずです。「怖い、怖い」と不安を煽るだけの広報は成功とは言えないと考えます。「怖さ」を周知するのは非常に容易です。広報と言っても実質を握っているのはマスコミです。マスコミの本質は言うまでもありませんが、冷静に事実を伝えるではなく、鳴り物入りで派手に報道して商売する事です。

国内感染疑い第1号の横浜の高校生の時において、まるで重罪人が見つかったが如き大報道をやらかしたのは周知の通りです。その後も見つかるたびにテンヤワンヤの報道騒ぎを繰り返しています。つまりどんなに慎重に広報を行なっても、勝手に火をつけて炎上させてくれるのがマスコミですから、「怖さ」の周知の初期は非常に容易だと言う事です。

問題はマスコミが炎上させた「怖さ」をどうやって「冷静な対応」に誘導していくかです。炎上してパニックのままではまともな対策が取れなくなります。まさか「冷静な対応」とは引きつった顔でテレビなりで唱えればおしまいなんでしょうか。それとも「冷静な対応」を呼びかけたのに取り上げなかったマスコミが悪いのでしょうか、それともそれとも「冷静な対応」を出来なかった国民の責任であり、厚労省の総括としては無問題と言うのでしょうか。

これはまだ表に出しにくい情報ですが、広報の問題点として「ネット上のデマ」を重視しているともされますが、ネット上のデマの根本ソースの殆んどもマスコミ情報から派生している点を考慮すべきでしょう。さらに言えば、ネット上のデマを一蹴できない政府広報の在り方こそが問題とも考えます。デマを打ち消すのは信頼できる情報提供であり、それが不十分で「何か隠している」と思われているからこそ、デマが飛ぶという言う事です。

「怖さ」を周知するのは極めて容易です。問題の本質は「怖さ」の周知法ではなく、いかに「冷静な対応」を広めるかにあると考えます。こちらの方がよほど難しいものであり、今回の新型対策の広報を総括するなら外してはならないポイントだと考えます。「怖さ」を瞬時に日本中に広めたから「成功」と言う総括になれば笑います。

これは仮に新型インフルエンザがもっと死亡率が高いものであっても同じで、パニックの大火の中では有効な対策など行ない様がないからです。パニックの大火に対し、具体的にどういう手段を講じたのか、またその手段は効果としてはどうであったかを検証するのが広報の総括のはずです。今後に活かせるのは、あれこれ行なった手段のうち有効なものを冷静に評価し、次の時に残す事だと考えます。

パニックになったが、夏になって自然鎮火したから広報としては「成功」なんて評価では怖ろしい限りです。今回は4月にメキシコで発見され、5月に日本に上陸し、夏には一旦落ち着くという展開でしたが、次はそうなるとは限りません。今回の展開も、8月に発見され、9月に日本に上陸し、そのまま大流行期に突入していく事も可能性としてありえたからです。

今回のように一旦沈静の時期無しで、大流行期にそのまま突入した時の広報戦略のヒントも探し出すのが今回の総括の目的のはずです。そういう総括には絶対にならないと全財産を賭ける人も多そうですが、意見ぐらいは出しておきます。



総括の方向性の問題がここでも重要になるのですが、私はあくまでも次への教訓のピックアップでなければならないと考えています。国にしても試行錯誤の面は多々あったでしょうから、有効であった対策、ハズレであった対策は多々あると思います。重要なのはそういう個々の対策の結果論的な責任追及とか、功績評価でないはずなんです。

あくまでも次に活かせるものがどれだけあるかを検証する事が一番重要なはずです。これの取捨選択をキッチリやっておかないと、残るのは「結果良ければすべて良し」になり、意味のない成功体験のみが後に残る事になります。そんな意味のない成功体験を総括させるために現場はあれだけ耐えたのではありません。

現場には「初めてだから、少々の不手際はやむを得ない」との考え方も広くあります。これはあくまでも「初めてだから」が前提です。不手際をそのまま成功体験としてモデル化し、次回にそのまま活用しようとするのは愚の骨頂です。当然ですが次には今回の教訓で除去できる不手際は、取り除かれて対策が行なわれると期待しています。いや期待しているとここに書いておきます。


醒めた声として、総括会議なんて関係者の責任をウヤムヤにし、功績を拾い上げて論功行賞する場に過ぎないがあります。私もそう考えている1人ではありますが、それでも二の舞は御免蒙りたいところです。それに声はキチンとあげて記録に残しておかないと、これも後日「あの時に何も言わなかった」の批判が必ず行なわれます。

尾身氏は現場の声は「オレが聞いたから不要」と明言されていますので、総括会議に参加できない現場の関係者はネットで声をあげて記録しておきましょう。こんなブログでの声はささやかですが、ブログも数になれば決して小さな声ではありません。ネットが動けば世論になる時代はもう来ています。マスコミだけが世論を決められる時代は既に終わろうとしていると言う事です。

シンドイですが、ネチネチと監視していきましょう。そうする事が民主主義と言われれば確かにそうですが、会議の結論どころか会議の前から牽制球を投げて監視する必要がありそうなので、ウンザリするところです。