報道とジャーナリスト

報道の考え方として古臭いと思うのは、この世の中に報道を行なう者とそうでない者の境界線を明瞭に引けるとしている点です。これは考え方としてカビが生えるほど古いと思っています。

かつてはそういう時代もありました。それは報道を行なうには巨大なツールを必要としたからです。新聞と言う報道では、新聞を印刷する輪転機やこれを配送するシステムが必要であり、これを個人の趣味で整えるのは事実上不可能です。またテレビも収録放映のための設備が必要であり、さらに電波を発信するにも国家の難しい許可を必要とします。ラジオや雑誌もまた似たようなものです。

不特定多数に情報を発信するには個人では手軽に準備できない巨大なツールが必要であり、その結果としてそういうツールを所有ないし利用できる組織に属するものが報道に携わる者とされ、それ以外の人間と境界線を引く事は概念上可能だったと思います。個人の能力の部分もありますが、実質のところとして境界線は巨大ツールの利用権だけであったとしても良いと私は考えています。

巨大ツールの利用権と言っても壁は高くて大きかったのは間違いありません。結果としてその壁を乗り越えた者だけが報道に従事するものとして認知されただけではなく、それ以外の者を区別していたと言っても良いとおもいます。巨大ツールがなければ個人では報道は行なえず、報道が行なえないものはジャーナリスト(今日はこうしておきます)でないとしていたかと考えています。


ここでなんですが、ジャーナリストと非ジャーナリストの間にツールの利用権以外にどれほどの差があるかです。ジャーナリストは専業ですから巨大ツールの適性に応じた文章を書く能力は磨かれますし、記事のネタを探し回る時間は勤務ないし仕事として与えられます。非ジャーナリストより仕事は手慣れていますが、とくに資格がいる(記者クラブ制度は置いておきます)とか、認可が必要なものではありません。

さらにジャーナリスト自体は自称業であり、自分でそう名乗った瞬間からジャーナリストになれます。そんな自称業であるのにかつては区別できたのは、ジャーナリストと認めてもらうためには名乗るだけではなく、巨大ツールの利用権を獲得しなければならなかったからです。巨大ツールの利用権は報道できるだけではなく、それによって食べていける事も同時に意味していたからです。


食える者がジャーナリストであるという区別はある時期まで非常に簡明な境界線でした。しかしジャーナリストである条件は本来のところ、食える事が必要条件でも十分条件でもありません。報道によって食えようが、食えまいが、報道を行なう者がジャーナリストになります。平成十五年四月十八日提出質問第五九号「報道の自由に関する質問主意書」があります。これは現在の厚労大臣が野党議員時代に提出したものですが、一部引用します。

  1. 報道、著述でない仕事を持つ者が趣味として無報酬で、「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」をした場合、これは報道となるか。
  2. 報道、著述を業としていない者が市民運動の一環として、無報酬で、「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」をした場合、これは報道となるか。

これに対する平成十五年四月二十五日受領答弁第五九号が、

報道とは、「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること(これに基づいて意見又は見解を述べることを含む。)」をいい、御指摘の行為は、いずれも報道に該当する。

「趣味として無報酬」で行なっても報道であるとしています。つまり食えようが食えまいが「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」を行なえばこれは報道であるとしています。報道を行なうものがジャーナリストですから、「趣味として無報酬」である事は関係無いという事です。


こういう事が可能になったのはかつてはジャーナリストの条件が、

  1. 必要条件:ジャーナリストと自称する
  2. 十分条件:巨大ツールの利用権を得る(≒ 食える)
このうち十分条件の比重が非常に重く、十分条件を備えないものはジャーナリストとして認められなかったからだと考えます。実質としても十分条件が無いと「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」は事実上不可能でしたから、そういう認識が出来上がっていたとも考えます。報道が出来なければジャーナリストではないというシンプルな理由です。

ところがこの十分条件が急速に崩れています。既存の巨大ツールを利用しなくとも「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」がお手軽に出来る時代になった事です。言うまでもなくネットです。ネット自体は巨額の投資により整備されたツールではありますが、これは比較的安価な料金で誰でも利用できます。

誰でも利用できるだけではなく、電話やテレビが猛烈な勢いで普及したようにネットも猛烈な勢いで普及しています。かつてテレビと言う媒体が普及した時にテレビ報道と言う新たなメディアが成立したように、ネットと言う媒体が成立したら、当然のようにネット報道と言う新たなメディアが成立するのは自然の事です。


テレビの普及の時にはまだ媒体に巨大なツールを必要としたため、資本力を持つ当時の既存メディア(新聞)が報道を独占しています。しかしネットで報道するには遥かにと言うか、テレビに較べればタダに近いほどの費用で「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」が可能になっています。

ジャーナリストになるための十分条件がここまで下がれば、参加する者は当然増えます。ジャーナリストの必要条件は単に「自称」ですから、十分条件のハードルが極度に下がればワンサカ出てきます。ここにはもう「食えるか、食えないか」は関係なくなります。ネットで個人が行なっている報道で「食おう」と考えている人間は極度に少なく、趣味として多くの人に読んでもらえれば満足の世界だからです。



ここで笑止なのは、「食うためにやっていない」個人のネット報道が、「食うためにやっている」商業メディアを確実に圧迫している事です。他の業種でも本業と趣味の境が曖昧なものはあります。料理を作るもそうで、極論すれば誰でも料理は作れます。それでも「食うためにやっている」プロの料理人と素人では歴然たる差があります。誰も同じ料理とは見なさないと思います。

プロの料理人が素人と差をつけるためには非常な努力を重ねています。素材の選択、素材を調理する技術、取り合わせ、盛り付け、店の雰囲気、接客マナーに多大な技術が盛り込まれており、それで素人とハッキリ差を出しています。努力を怠れば、すぐに客は来なくなり、自分が食えなくなりますから、素人との差を少しでも開くための精進を重ねていると言えます。

ネット媒体における報道は、玄人と思われていたジャーナリストと趣味でやっているジャーナリストが同じ土俵の上で活動できる場所です。評価する方も同じ条件でアクセスできます。ここで従来のジャーナリストが本当のプロであるなら、素人が趣味でやっている報道など一蹴できるはずです。誰でも参加できる職業で「食う」と言う事は、素人に圧倒的な差をつけてこそ価値があります。それが出来ない者は駆逐されるのが市場の法則です。


老舗といわれた名店もつぶれる事があります。つぶれる原因は様々ですが、その一つに老舗の看板に胡坐をかき、看板のみに頼った商売に陥った時があります。看板に頼った安易な商法に走り、やがてその安易さを見破られ誰も見向きもされなくなってつぶれるパターンです。ここでなんですが、つぶれる段階にまで至った老舗には誰も同情を寄せませんし、つぶれても「代わりはいくらでもいる」ですから誰も困りません。

困るのは老舗の従業員とその関連会社だけです。これはこれで同情しますが、だからつぶしてはいけないとまでは思いません。客にとって大事なのは、その老舗の存在ではなく、その老舗が提供している商品を他のところで入手できるかどうかだけです。「代わりはいくらでもいる」の世界なら倒産記事を読んだ瞬間に同情しても、すぐに忘却されると言う事です。

どこの業界であっても素人並の技量で「プロでござい」が長続きする事はありえないと考えています。それぐらいプロとして「食う」のは大変であり、その大変な世界で食っていけるからプロとして尊敬されるのです。ここであげた老舗がどこにあたるのかは・・・さ〜て、どこなんでしょうか。