水島宏明氏と編集権

ソースは平和ボケの産物の大友涼介です様の「テレビの原発報道は酷過ぎる」日テレ元報道局ディレクターが抗議の辞任〜週刊ポスト2012/06/ なんですがタイトルにあるように大元のソースが週刊ポストなんて、それぐらいの信憑性で扱います。週刊ポストの記事は日本テレビ解説委員だった水島宏明氏が日本テレビの報道方針に不満を感じ退職し、不満の理由を週刊ポストが取材したと言う形式です。

適当にピックアップしてみますが、

  • きっかけは、原発報道です。報道局の幹部が突然、「今後はドキュメント番組も基本的に震災と原発のみでいく」と宣言しました。もとろん、あれだけの大災害ですから報じるのは当然ですが、それだけだと報道の多様性がなくなってしまいします。私のライフワークである貧困問題は「そんな暇ネタはボツだ」という扱いを受けました。

  • しかも、NNNドキュメントの企画会議では、「うちは読売グループだから、原発問題では読売新聞の社論を超えることはするな」と通達された。そんなことを言われたのは初めてでした。

元の週刊ポストを読んでいないのでわからないのですが、「社論」ってなんだろうです。社説のタイポかもしれませんが、そうでなくて別に社論と言うのがある可能性は否定できません。ここは「社論 = 編集権(or 編集方針)」解釈するのが妥当と考えます。編集権を考えると正直なところ水島氏の見解は甘いです。編集権は日本新聞協会の編集権声明に明記されているのですが成立したのは、

1948(昭和23)年3月16日

この時期に編集権声明が出された背景に1945年、1946年の2回にわたる読売争議の影響を多くの者が指摘しています。編集権の話は前にやったので詳しい話はリンク先を読んで欲しいのですが、水島氏が言われた

  • 今後はドキュメント番組も基本的に震災と原発のみでいく
  • うちは読売グループだから、原発問題では読売新聞の社論を超えることはするな

これは編集権の中の

 編集権とは新聞の編集方針を決定施行し報道の真実、評論の公正並びに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要な一切の管理を行う権能である。編集方針とは基本的な編集綱領の外に随時発生するニュースの取扱いに関する個別的具体的方針を含む。

これに該当するものです。まあ日本テレビは新聞社ではありませんが、ほぼ準じて適用されているものと見ます。この編集権を行使できるのは、

編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる。新聞企業が法人組織の場合には取締役会、理事会などが経営管理者として編集権行使の主体となる。

水島氏が編集権の決定に関ろうとするなら、理事や取締役ぐらいにならないと無理です。それ以下であれば無条件に編集権に従わないとなりません。どれぐらい無条件かと言えば、

内部においても故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害しあるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する。

経営者の定めた編集方針に従わなければ排除されるです。まさか水島氏は編集権についてご存じないとは思えません。ですから週刊ポスト記事にある

これは日テレに限らず、今のテレビ局全体の問題だと思いますが、プロデューサーやデスクの幹部・中堅社員が、あらかじめ報道内容のディテールまで会議で決める傾向が強まっています。現場に出る若手社員や下請けの派遣社員は、その指示に従った取材しか許されない。でも、我々は社員である前にジャーナリストですから、本来は自分の目で現場を見た上で、自ら報道すべきことを判断すべきです。

ここにある

    本来は自分の目で現場を見た上で、自ら報道すべきことを判断すべきです
そういう事は編集権の前では許されないです。
    社員である前にジャーナリスト
この見解が大間違いで、編集権の前では
    ジャーナリストである前に編集権に従う事を誓って採用された社員である
こうなります。ジャーナリストでありたいと思うのなら、社員である事をやめ、自らが編集権を持つ報道機関を経営するか、それこそフリーである必要があるのが日本の編集権です。



水島氏は自ら所属した日本テレビ及び日本のマスコミの現状を憂いてはいますが、批判が単なる会社とか会社幹部なりにしか向けられていないのが惜しまれます。ひょっとすると水島氏は編集権問題についても週刊ポスト記者に話したかもしれませんが、それについては確認の術はありません。日本の報道の問題は目に見える劣化だけではなく、構造的な問題を含んでいる点です。

編集権の確立は60年以上も前のお話ですが、それ以降、誰もこれに手を触れていない、つまり受け入れてきたわけです。社風によってこれが濃厚に出るところと、薄くしか出ないところはあるにせよ、いつでもその気なれば行使できるものであり、水島氏が経験されたような事は編集権の正当な行使になります。それに逆らうものは、

    何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する
とくに読売系は読売争議により、編集権の確保、またその意味するものを十分に理解して成立に奔走したと考えて良く、なおかつマスコミ界で当時の事情を知る数少ない生き残りである渡辺氏がトップに君臨するところです。それでもって60年前の編集権は決して死文化しているのではなく、今なお効力を発揮しているのは水島氏の経験された通りであると私は見ます。

水島氏は、

私はこの現状を変えるため、何色にも染まっていない学生に、本来のジャーナリズムを教えていく道を選びました。

水島氏の考えるジャーナリストは「社員である前にジャーナリスト」だと思いますが、それでは「排除される」危険性が出ます。編集権との関係をどう教えられるのか興味深いところです。経営権と編集権が一体となっている現在の体制から、経営権と編集権を分離させる、つまり編集局の独立が必要だと考えますが、働きかける運動にも尽力されるのでしょうか。

とはいえそういう運動が存在する事自体を編集権で封じられますから、道はひたすら苛酷と思います。