日曜閑話34

今日のお題は「アンダースロー」です。先日亡くなられた小林繁氏に因む意味も少し込めています。

このアンダースローと言う投法がいつ生み出されたかについて調べた事があるのですが、結局のところハッキリしませんでした。日本でも本当に少なくなりましたが、アメリカではさらに少ないとされ、その点をとらえてアンダースローは日本で発明され、発明したのは武末悉昌(南海)が発明したとの俗説もありますが、これはごく簡単に否定できます。武末以前にメジャーでアンダースロー投手は既に活躍しているからです。


アンダースローの起源を考えるには、野球の草創期にまで遡る必要があります。野球はアメリカで発明されたスポーツであり、アメリカ人の気質にあって大発展したのは間違いありません。ただし発明された時から完成していたわけではありません。プロ野球組織が成立してからでさえルールの大きな改変はあり、現在のルールにほぼ落ち着いたのは1900年になってからとされます。

そのためメジャーの記録は19世紀と20世紀で明確に分けられ、19世紀の記録は現在の記録とは比較されません。ルールの違いが大きすぎるのであくまでも参考記録にされています。

初期の野球がどんなスタイルだったのかについても断片的な知識しかありません。いろんなローカルルールが各地で行なわれていたのは確かですが、非常に初期のうちは点数獲得性のルールも多かったとされます。つまり15点とか、21点とかの決められた点を取った方が勝つと言うルールです。バレーボールみたいなものを思い浮かべると良いかもしれません。

そういうルールでの野球は、とにかく打者が打つことが野球のすべてになります。今で言うアウトは、打者が打ち損ねたり、守備側がファインプレーを行なう事によって得られ、投手の役割は打者に気持ちよく打ってもらうに過ぎなかった可能性を考えます。

それでも投手が少しでも打ちにくい球を投げる方が試合は有利にはなります。有利にはなりますが、野球とは打つことがゲームであるの観念が初期には強かったらしく、投手が打ちにくい球を投げ難いように投法の規制がされたとの話があります。具体的には投手が投げる時に肘を曲げてはならないの規制であったと聞いた事があります。

肘を曲げずに投げるとなればオーバースローやスリークォーター、さらにはサイドハンドも非常に難しくなります。実際にやってみればわかるのですが、そんな状態ではまともに投げられません。とくにテークバックの時に肘を曲げないと窮屈で困ります。肘を曲げずに一番自然な投法はアンダースローと言うより、現在のソフトボールの純下手投げになります。

この投手は肘を曲げずに投げると言うルールがいつできて、どこまで影響力を及ぼしたかは確かめられなかったのですが、かなり広範囲に影響していたらしいとの記録をどこかで読んだことがあります。そういう状態で野球は全米で隆盛の道をたどります。

盛んになると嫌でも向上する技術は打撃です。野球の花形技術ですから向上しますし、投手は肘の規制で投球術の幅を制限されていますから、派手な打撃戦が展開する事になります。野球は獲得得点制のルールもありましたが、一方で現在のようなイニング制限制のルールも広まったとされます。どうもある時期から9回かどうかまではわかりませんが、イニング制によるルールが主流となったようです。

これは私の推測ですが、向上した打撃は得点制のままではすぐに試合が終了してしまうからだと考えています。下手すると1回の裏表で決着してしまいすし、1回の表の攻撃だけで終わる事も出てきたんだと思っています。それではやっている方が面白味にかけるので、何点入っても決められたイニングの攻撃を行なうルールが普及したんじゃないかと考えています。

ところがイニング制に移行しても問題が残ったと考えます。両チームの打撃合戦によるゲームの長時間化です。打撃の規制は難しいので、試合時間を短縮するために、これまで規制されていた肘の規制がある時期に解除されたとなっています。肘の規制を解除して投手力を上げないと野球が競技として成立しない状態が背景と考えます。

この肘の規制があるうちでも、投手は少しでも球の威力を増すために様々な工夫を行なっていたと考えています。工夫は現在のソフトボールのような正統的な投法の工夫もあったでしょうし、「肘を曲げない」程度の解釈とか、曲げ無いように見せながら実は曲げて投げる投法の工夫も行なわれていたと考えるのが妥当かと思われます。

もうちょっと煎じ詰めれば、肘解禁以前にゲームの進行のために肘規制が死文化しつつある事が先にあり、既成事実に合わせて解禁になったと考えています。当然のように解禁になっても当時の投手はすべてアンダースローです。もちろん肘規制がなくなれば、他の投法でもOKになりますが、とくに投手の当時の常識として肘解禁になっても、投手とはアンダースローで投げるものの常識がしばらく残っていたと推測します。

アンダースローの源流は野球の投手が下手投げであったからではないかが私の推論です。


アンダースロー以外の投法がポピュラーになっても、アンダースローアメリカでも残り続けます。ところがある事件をキッカケにアンダースローアメリカ球界から追放されたとなっています。理由は、

他の投法であっても危険である点では変わりはないと今なら思うのですが、当時はそうならなかったのです。事件は1920年に起こったとされます。メジャーは当時でももちろんあり、当時の強豪チームはベイブ・ルース(彼も投手時代はアンダースローであった)やルー・ゲーリックが在籍したヤンキースです。そしてそのヤンキースのエースがカール・メイズです。

メイズもアンダースローでした。成績はメジャーのアンダースロー最高の成績とも言われ、通算208勝126敗、通算防御率2.92と言う大投手です。どんな事件が起こったかですが、メイズの投げた投球が打者の頭部を直撃し、打者が急死すると悲劇です。伝えられるところではメジャーでも初の死球死亡事故であり、死亡した打者も人気者であったため投げたメイズに非難が集中したとなっています。

メイズは残された成績からわかるように優秀な投手でしたが、投法としては日本の東尾の様なスタイルであったようです。内角を厳しく責め、打者をのけぞらせて打ち取るみたいな感じです。そのため死球も多く、打者からはかなり嫌われていたようです。

そこに死球死亡事故が起こり全米が騒然となったわけです。全米の敵役となったメイズは警察の取調べまで受けましたが、起訴はされていません。ただ当時のメイズ憎しの世論は次にメイズのアンダースローに向けられます。これも大騒ぎがあったようですが、ここもメイズは踏ん張り投法としてのアンダースローも廃止にはなっていません。

メイズはここまで頑張ったのですが、公式にはアンダースローは認められても、世論的には目の仇にされ、メイズに続くはずだったアンダースロー投手が他の投法に転向してしまったとされます。メイズでなくてもアンダースローで投げるだけで白眼視される状態になったと言えばよいのでしょうか。

この伝説がどこまで本当かを確かめる術はありませんが、この時期を境にメジャーだけではなくアメリカからアンダースロー投法が急速に姿を消したとされます。


日本の源流

これがまたサッパリわかりません。日本に野球が伝わったのは、1871年に米国人教師H・ウィルソンが開成学校(現在の東京大学)で教えたのが最初だとされています。その後よほど日本人の好みに合っていたのか普及し、1890年頃には東京大学駒場農学校(駒沢大)、慶応クラブ(慶応大)、白金クラブ(明治学院大)など学生主体のチームが次々と誕生し、さかんに対抗戦が行なわれ、やがてこれが花の六大学に発展していったとされています。

当初は日本人に野球と言うスポーツを正しく伝えたはずです。メイズ事件が1920年ですから、それ以前であればアメリカでもアンダースローに偏見はありません。偏見がないどころか、野球の投手の源流の投法ですから、当たり前のように日本人学生に教えられたはずです。教えられた学生のうち、教師である者は可能であれば、生徒にアンダースローを教えたはずです。

これも一生懸命調べたのですが、戦前の日本の野球でアンダースロー投手がいたかどうかがはっきりしないのです。日本には投法として持ち込まれているはずなんですが、駆使した投手がいたかどうか確認できないのです。実はと言うほどのものではありませんが、さすがに野球ですから戦前であってもプロ野球選手の記録はかなり綿密に残されています。

成績は確認できるのですが、投手であればどういう投げ方をしているのかまでは記録されていないのです。いたかもしれないのですが、たぶん球史に残るような成績は残していないようです。そんな中で、確実に戦前戦中にアンダースローを駆使した有名投手が一人います。永久欠番第1号選手であり、既に伝説と化しているあの沢村栄治です。

沢村も全盛時代はオーバースローです。しかし沢村は計3度の兵役に従事し、3回目に台湾沖で戦死する事になるのですが、2回目の兵役の後の'43にマウンドに立っています。2度にわたる兵役で肩をすっかり壊していた沢村はもはや腕を上げることさえままならず、やむなくアンダースローで投げたと言う話です。これも伝説に近いですが耳にする話です。沢村は投げるには投げましたが、往年の球威はどこにもなく滅多打ちでマウンドを去ったとなっています。

問題は沢村がアンダースローで投げたとして、どこで覚えたのかになります。既に日本でアンダースローで投げていた投手がいたかもしれませんが、それなら冒頭で書いた武末伝説と矛盾します。武末伝説のうち、武末が編み出したと言うのは明瞭に否定できますが、武末以前には殆んどいなかった部分は信用しても良いように思っています。

それぐらい日本で珍しかったわけですから、沢村がアンダースロー投法の参考にする投手は日本にいなかった可能性はあります。では沢村が編み出したかと言えば、その可能性も無いとは言えませんが、沢村はアメリカでアンダースローの投手を見た可能性があると考えています。

沢村は巨人のアメリカ遠征に参加しています。この遠征は'35、'36の2回にわたって行なわれています。アメリカでは'20のメイズ事件以降アンダースローは衰退の道を転がり落ちていますが、まだ完全には滅び去っていなかったと考えます。巨人の相手は今で言う1Aからせいぜい3Aまでのマイナークラスが相手です。アメリカにも変わり者がわんさかいますから、メジャーはともかく、マイナーなら(現在でも少数ですが存在します)まだアンダースローで投げる投手が健在でも不思議ありません。

あの投法なら壊れた肩でも投げられると思い出し、沢村はその最後のマウンドをアンダースローで投げ、そして去って言ったんじゃないかと考えています。


武末伝説は散々否定しましたが、それでも武末は日本のアンダースローの源流であると考えます。武末以前にもアンダースロー投法を駆使した投手はいたかもしれませんが、結局のところ誰も大成せず、球史には先駆者としてさえ名を残さなかったのは事実です。現在に続く日本のアンダースロー投手の系譜はすべて武末から始まると考えます。

武末はデビューした'49には21勝17敗、最多奪三振の183を奪い新人王に輝いています。実はこの年は戦後初めて巨人が優勝した年なんですが、前年度のオフにライバル南海からエース別所を引き抜くと言う、世に言う「別所引き抜き事件」を起しています。武末はエース別所の穴を十分に埋める活躍をしましたが、前年度チャンピオンであった南海は4位に沈んでいます。

武末は翌年に起こった2リーグ分裂騒ぎの中で、新興の西鉄に移籍します。移籍後も'50が12勝6敗、'51が11勝7敗と確実に成績を残しています。ところがある日、女性ファンの花束を受け取らなかった事がもとで右腕を刺されるという事件を起しています。以後その右腕は回復することなく静かに球界を去っています。

成績は大成とは言い難いですが、しっかりと球史に残る活躍をアンダースロー投手として日本で初めて球史に刻み、アンダースローがプロで通用する事を知らしめたと考えます。この武末の活躍が後進を刺激し、その後、日本に長く続くアンダースロー黄金時代の幕を開いたんじゃないでしょうか。ちょうどアメリカのメイズと逆の役割です。

メイズが1920年に事件を起してから29年後に、日本でアンダースロー投法が継承されたとも見ることが出来ます。


アンダースロー黄金時代

武末の活躍が1950年代初頭ですが、アンダースローの大投手が続々と台頭したのは1950年代の後半になってからです。武末以後にどうなっていたのかを確かめる術が無いのですが、まず1957年に秋山登(大洋)がプロデビューします。秋山は大洋初優勝の立役者になり、日本シリーズでは4連投の快投で日本一をもたらしています。通算成績は193勝171敗です。

秋山に遅れること2年で南海に入団した杉浦忠も凄まじい成績を残しています。1959年の成績が超人的で、38勝4敗、防御率1.40、奪三振336個と言うものすごさです。さらにシーズン中、8/26から9/9の間にも45イニングス無失点、その後も9/15から10/20までの間に54イニングス2/3無失点と、目もくらむような快投です。

日本シリーズもシリーズ全37イニングのうち杉浦は実に34イニングを一人で投げ抜いての4連投4連勝の記録を残しています。デビュー以来3年1ヶ月で100勝到達と言う活躍でしたが、酷使が祟り成績は下向して行きます。それでも通算187勝106敗の成績を残しています。

1970年代から80年代を彩るアンダースローの名投手は、日本のアンダースローの完成者とまで言われる足立光宏山田久志(どちらも阪急)です。足立は9連覇の巨人についに4タテを許さず、40年代の日本シリーズの阪急の勝利はすべて足立の活躍によるものです。また晩年は長嶋巨人を後楽園で葬っています。

山田は言うまでも無く日本のアンダースロー投手最高の成績を残し、通算284勝166敗43セーブ、防御率3.18、2058奪三振。山田の上の成績を残しているのは、400勝の金田と、300勝をあげた4人5人(米田、小山、別所、スタルヒン、鈴木啓)と鉄腕稲尾だけです。


エピローグ

足立、山田以降はアンダースローの落日時代が来ます。足立、山田の次の世代は小林繁高橋直樹、金城基康とまだまだエース級はいましたが、その次ぐらいになるとぐっと小粒になります。

理由はいろいろあるでしょうが、まずアンダースロー投法は下半身に負担が強く体力の要る投法なので、少年野球や中学レベルでは指導しなくなったそうです。そうなると始めるのは高校以降で、他の投法で行き詰った投手が転向してなることになります。行き詰らなかった他の投手はそのまま育ちますから、アンダースロー投法を行う投手に才能のある投手が集まらなくなってのはひとつあるそうです。

またマイナーな投法になってしまうと、これを的確に指導育成する指導者もいなくなり、誰かがアンダースローで投げたいと思っても独学でやらざるをえなくなっているのも影響しているとされます。アンダースローでも140kmの速球は可能ですが、それ以上の150kmとなると歴代の名投手でも投げられたものがいるかどうかは疑問です。現在のプロ採用基準はとりあえず140km以上の速球が投げられる事が必要条件となっており、130km台のアンダースロー投手をあえて入団させようとはなかなかならないとの事です。

こうやって考えると'50代後半から'80代半ばまでアンダースローの好投手が切れ目なく続いた事の方が、かえって異常な状態であったと言えるかもしれません。メジャーでの終焉は'20のメイズ事件であるとされていますが、メイズ事件のような象徴的なことのない日本でも消えつつあるのは、人間の投げ方として最終的に無理が潜んでいると考えざるを得ません。球界に徒花のように咲いて静かに散っていく投法のような気がしてなりません。

それとそういう眼で見るからそう感じるのでしょうが、アンダースローを駆使する投手にはどこか哀愁を感じます。酷使により短命に終わった杉浦、弱小大洋をバックに負け星を積み上げざるを得なかった秋山、V9巨人の厚い壁に塞がれた足立、山田。彼らは活躍の場が今から想像も出来ないマイナーなパ・リーグであったり、セ・リーグでも優勝争いに縁のない球団であったりとです。それだけ日陰であったがゆえに、わずかにスポットライトが当たった時には、眩いぐらいの活躍を記憶に残しています。杉浦の4連勝4連投もそうですし、晩年の足立の日本シリーズにおける快刀乱麻のピッチングです。

それでも私はアンダースローが好きです。体を深く沈めて、流れるような華麗なフォームから繰り出される投球は私の瞼にしっかりと焼き付いています。