権威主義の末期症状

ねま様の「創価学会と家族問題を考える」の創価学会における権威主義の末期症状が良くできていますので、ここから話を広げてみます。ねま様はタイトルからもお察し頂ける様に創価学会批判の目的で書かれていますが、私は創価学会批判とは一線を引かせて頂きます。もちろん支持しているわけではありませんが、目を吊り上げて批判するほど関心が無いあたりに御理解ください。

取り上げたいのは創価学会批判の材料に使われた権威主義の解説です。これがなかなか面白くて、御紹介したいというのが今日の趣旨です。なにか元のソースがさらにありそうな気もするのですが、チョット見つからなかったのでねま様から直接引用させて頂きます。まず前段で、

権威主義的風土と人格の相互選択

 権威主義が強くなると風土と人格の相互選択が起こり、やがて構造化する。権威主義的風土のもとでは、権威主義の強い人が力をふるい、そうでない人が失脚したり、自らよそへ異動したりすることになる。そうすると、組織の中で権威主義的な人の比率が高くなり、かつ意思決定的地位に多く就くようになるので、ものごとの進め方や風土がますます権威主義的になる。このように悪循環が生じるようになり、この風土が根づいた権威主義社会は自己修正機能を失う ので、外部からの力によって破局が訪れない限り止まらなくなってしまう。

ここでまず言葉の定義です、「権威」とは大辞泉では、

  1. 他の者を服従させる威力。「行政の―が失墜する」「親の―を示す」
  2. ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。「―ある賞を受賞する」「心臓外科の―」

「権威」自体は必ずしも否定的な意味ではなく、どちらかと言うと肯定的な意味合いのニュアンスが強いことがわかって頂けると思います。これが「権威主義」になると、同じく大辞泉より、

権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてにとって思考・行動したり、権威に対して盲目的に服従したりする態度。

「権威」単独であれば高い信用性の一つの表現みたいなニュアンスですが、これに「主義」がつけば権威に盲信する行動様式と変わることがわかると思います。ちょっとニュアンスとしてずれるかもしれませんが、「権威」だけならその発言は間違っているかもしれませんし、批判や批評も存在する余地は十分あります。これが「権威主義」になれば、権威者の言葉は無謬の絶対と化すと解釈しても良さそうです。

そういう権威主義が強くなっている組織では、当然のように権威者の言葉が絶対化します。権威者と言うより、組織のドグマが絶対化し、絶対化したドグマの看板に副った発言が重視され、出世し、批評や批判、異論を唱えるものは排除される事になります。批判者が排除された組織では、ドグマに誤りがあっても誰も修正するものはなく、ドグマをさらに急進化・尖鋭化させる者のみが跋扈する世界になるとしています。

そういう組織になると、組織員はドグマ教の狂信者であらねばならなくなり、狂信の度合いが組織内の出世の評価のすべてになります。もう少し付け加えれば、最初は打算で狂信しているつもりでも、幹部になる頃には骨の髄までの狂信者になっており、そうでない者は中間過程で排除の法則が機能する事になります。そうなると内部からの改革は不可能で、外部からの圧力によってのみ破局がある事になります。


権威主義はどんな組織でも実はありますし、ドグマの信奉もまたあります。これはある程度避け難いですし、権威主義は組織の維持のためにはある程度までは必要なものとは言えます。言ったら悪いですが、権威主義もドグマもまったく存在しない状態では組織自体が成立しないからです。ドグマと言うと印象が悪いですが、ある人物の思想に共鳴して、その人物の提唱する運動に参加するのも、言い方を変えれば権威主義とドグマの信奉になります。

問題は権威主義が浸透と言うか蔓延の程度かと思います。ドグマや権威者に対して自由にモノが言える状態なら問題はないと考えます。さらに健全な状態は異論や反論を柔軟に取り入れられる事です。まあ、ある意見に対して議論百出、百家争鳴状態なら極めて健全と思います。逆に末期的状態になればどうなるかです。

権威主義の終末的徴候
  1. 理由の無い教条の規範化


      合理的でない教条が規範となる


  2. 外部の権威の借用

     
      論理的に考えた結果を尊重しなくなり、外部の権威に頼って内部の意思統一を図るようになる。


  3. 規範・教条の自己目的化


      形骸化した規則、現状に合わない規則の遵守への圧力が働く


  4. 教条吟味の禁忌化


      教条の修正ができない雰囲気になる。教条を再吟味しようという姿勢そのものが、忠誠の欠如と見なされて糾弾されるようになる。


  5. 権威のシンボルとなる人物や部署ができるようになる。


       「社長のお耳に入れた」「社長のご希望だ」というような要素が重んじられるようになる。サブトップによって、「君には社長も期待しておられる」「君の活躍はいつも目覚しいと社長がおっしゃっている」などという言葉が用いられるようになる。

       注意が必要なのは、権威シンボルは、その人固有の能力や個性のために出てくるというよりも、組織の権威主義システムが、そのような人物の存在を必要とするために出てくるということだ。その必要性があり、相対的にシンボルにふさわしいような特徴をたまたまそなえている人が自然に選択されるというメカニズムになっているのである。


  6. 集団ナルシズム


      ナルシズムとは、実情と乖離するほど肯定的な信念を、自分自身に対して抱いている状態を指す。組織というものは通常いくらかのナルシズムを持っているものだが、権威主義が強くなると、それが大きく実情と乖離した状態になる。


  7. 忠誠心の外的要求


       忠誠心は心の内面で維持されるべきものだが、目に見える形として要求されるようになる


  8. 発言・批判の自由が失われていく


       教条への同調や、特定人物への崇拝的感情が要求されるようになるため、それらへの批判的発言が極めて危険なものとなる。その結果、批判的発言を控える人が増える。


  9. 教条の拡大解釈が過剰になる


       個々の論理によって是か非かの意思決定が行われるべき事柄でも、それをすると判断にあいまいさが残り、二分的思考法に合わなくなるので、強引にでも、教条との関連をつけて是か非かをはっきりさせることを好むようになることに由来する。


  10. 密告体質


       密告を奨励する政策を表向きとっていない場合でも、忠誠や教条への盲従を是とする空気が強いため、密告的行動をした人が、少なくとも心理的には報いられる構造が出来上がっていく。


  11. 強い加虐性・加罰性


       権威主義的組織では、加罰性の増大がほぼ例外なく見られる


  12. 過度の信賞必罰


       権威主義的方向に同調する人、あるいは、教条シンボルとなる人に尊敬が篤い人に性急に報いるという傾向も表面化する。


  13. 二分的思考とレッテル化


       権威主義的状態とは、思考のあいまいさが過度に排除された状態であるが、組織が権威主義的状態になってくると「賛成か反対か」「○○派か××派か」というように二分法的構文を耳にする頻度が上がる。それにともない、少数派意見に単純なラベルによってレッテルを貼るような行動が増える。


  14. 価値観の反動性・超保守性


       組織の論理とは別に、古い価値観への回帰傾向がしだいに表面化するようになる。口に出すことがはばかられるような古くさい価値観がもっともらしく語られるようになる

これらの終末的徴候を幾つ満たせば絶望的なのかの解説は残念ながらありませんでしたが、身近な組織で考えてみるとなかなか興味深い所があります。貴乃花の理事長選出馬が話題になった日本相撲協会ですが、かなりあてはまりそうなところがありますが、それでも貴乃花が理事に当選するところに救いがありそうにも思えます。

日医はどうでしょうか。日医の人事システムは権威主義を助長しやすいものなのは間違いありません。一定の思想・思考法に副った人物のみが指導的地位に選抜されるシステムそのものであり、それ以外の人物に排除の法則が働くのも周知の通りです。ただシステムがそれだけ強固であるのに、末期症状の重大な要素であるドグマの絶対化が薄いような気がしないでもありません。

つうかそんなドグマがあるのかどうかも少々疑問です。無い事はないのですが、ドグマと言う生々しい言葉に相応しいかと言えば「どうかな?」とは感じています。別に擁護している気は無いのですが、ドグマの狂信集団と言うより衆愚集団のように感じています。でもまあ、内部改革の可能性が絶望的に低いですから、末期症状であるのは間違いないでしょう。

他にもとくに当てはめたい組織はあるのですが、どことは言いませんがあえて避けて、マスコミはどうでしょうか。マスコミは単一の組織とは言えませんが、全体として一つの組織としてみる事は可能かと思います。これも当てはめていくと、結構満たしている点はありそうに思います。たとえば、

  1. 二分的思考とレッテル化


       権威主義的状態とは、思考のあいまいさが過度に排除された状態であるが、組織が権威主義的状態になってくると「賛成か反対か」「○○派か××派か」というように二分法的構文を耳にする頻度が上がる。それにともない、少数派意見に単純なラベルによってレッテルを貼るような行動が増える。


  2. 価値観の反動性・超保守性


       組織の論理とは別に、古い価値観への回帰傾向がしだいに表面化するようになる。口に出すことがはばかられるような古くさい価値観がもっともらしく語られるようになる
この辺なんかはそのままの様な気がします。他にも
  1. 教条の拡大解釈が過剰になる


       個々の論理によって是か非かの意思決定が行われるべき事柄でも、それをすると判断にあいまいさが残り、二分的思考法に合わなくなるので、強引にでも、教条との関連をつけて是か非かをはっきりさせることを好むようになることに由来する。

ここも相当当てはまりそうな気がします。


権威主義ですが、上述した様にどんな組織でも実は内包しています。言い切ってしまえば権威主義があるから組織が出来ている側面があると考えています。組織には権威主義が必要なのですが、権威主義が組織の求心力であるうちはまだ問題にならないのでしょうが、権威主義が組織を支配してしまうと問題になると考えています。

権威を尊重するので組織員になりますが、健全な間は権威に対して誰でも自由にモノを発言できます。これは権威と構成員の関係が上下関係と言え、立場が尊重とか敬意レベルであるからと言い換えても良いと思います。ところが権威が増大し、構成員を圧倒する関係になると無条件の絶対の上下関係になると見ます。

これが末期状態に至ると、

  1. 由緒不明のドグマが聖典化し、絶対化し、ドグマの検証を行うこと自体がタブーとなる
  2. それでも疑問を抱く者は速やかに排除される
  3. 批判者なきドグマは急進化・尖鋭化し、すればするほど構成員は熱狂する
組織といえども社会の一部であるのですが、内部のドグマの独走はやがて社会から遊離し、遊離しても組織の構成員の意識は社会が間違っており、社会こそが組織のドグマに従うのが当然と考える様になります。本当の末期症状は社会から遊離した組織が、社会を攻撃し実害が生じた時ではないかと考えます。

組織が社会から遊離しても実害さえなければ放置されます。これが実害に転じると社会と言うさらに大きな組織からの攻撃を受ける事になります。いかに大きな組織であろうとも社会の方が遥かに巨大ですのので、いかに抵抗しようが押し潰され破局を迎えると言う事です。オウム真理教の末路を想定するとわかりやすいかもしれません。終末的徴候に挙げられている項目は、遊離した組織が社会に実害を生じさせる条件を示している様に感じます。


細かい解釈や理屈はともかく、なかなか良くできていますので、御興味があられたら心当たりの組織に当てはめて見て下さい。個人的に昨日はニヤニヤしながら、あれこれ当てはめていました。もっとも他人事とは言い切れませんから、私も自戒しておきたい事です。