アジ文みたいな雑考

私が小学校の頃は安保闘争から学園紛争が燃え盛った時代の終わり頃、いや終わった頃ぐらいに位置すると思っています。幼い記憶の断片に安田講堂攻防戦が残っているからです。そういう時代に使われ言葉に「アジ」があります。用法をあげておけば、

  1. アジ演説
  2. アジビラ
  3. アジ文
  4. ○○をアジる
なにぶん小学校の時であり、このカタカナで書かれている「アジ」が何を意味するかわからなかったのは白状しておきます。正直なところ「味」とか「鯵の開き」ぐらいしか「アジ」に該当する言葉が思いつかなかったです。今のようにネットでググるなんてSF小説の中の話でしたし、マスコミ記事でも説明不要の日常語として使われ、どこにも説明がなかったからです。今でも使うのかなぁ?、なんとなく死語になっている気もしています。

このアジが英語の

ここから出てきているのを知ったのは、かなり後年の事です。後年と言っても本当に遅く、高校以降だったと思います。その頃には安保闘争も学園紛争も既に歴史化しており、「アジ」の言葉は日常では殆んど使われなくなり、安保世代の小説家の本の中ぐらいで解説付きで読んだんじゃないかと思っています。「鯵の開き」と思っていても恥をかかずに済んだのは幸いでした。

でもって実物のアジ文を初めて読んだのはいつかも遥かなる記憶です。たぶん安保世代の残党が時に配っていたアジビラを何かの拍子で拾って読んだぐらいじゃなかったかと思います。学園紛争自体は1970年代には下火でしたが、残党は連合赤軍事件を起したり、成田闘争に参加したりして存在感を誇示していましたから、アジビラ配りは時にあった様に思うからです。


60年代スタイルのアジ文の構成は左翼用語を散りばめた煽り文章です。社会主義なり、共産主義社会こそが理想郷であると定義(つうよりドグマ)とし、現実の資本主義社会を一刀両断に否定するのが基本と思っています。批判対象には強烈なレッテル貼り(たとえば米帝とか資本家の走狗)を行い、やらたと断言調で、理屈の説明より、断言の積み重ねによる結論のみを強調に重きを置いたものぐらいで宜しいかと思っています。

まあ理屈と言ってもドグマに反しているから否定されるレベルだったと思いますから、説明とか、わからない人へのテキストみたいな感じではなかったと思います。たぶん60年安保の頃には、これだけですべてが理解できる人がきっと多かったのだと思ってはいますが、70年代の後半から80年代、さらには90年代になると既に理解できない人が多数になっていた気もします。


こういうアジ文の源流はどこだろうと考えてみると、やはり檄文だと思います。これは大昔からあり、ある正義に則って仲間を集める時に古来より頻用されています。自らの正義に反する敵を痛罵し、罪状を列挙し、そういう悪が跋扈する世の中に激憤し、自らの正義を高らかに謳いあげ、打倒のための助力を請うスタイルです。アジ文の構成と基本的に同じです。まあ自分の正義に酔わせる文章と言えば良いでしょうか。

酔わせると言うより悪酔いさせる観が強いのですが、とにかく表現は激烈です。美文と言うより過剰な装飾文で、ある正義に共鳴している人間には時に強烈な作用を与えるのは歴史が証明しています。日本の60年代のアジビラも、当時の学生を十分に酔わせたのも傍証として挙げておいても良いと思います。

ただ作用は強烈ですが、その分、効果範囲も狭いと言うのはあると思っています。アジ文なり檄文に酔うためには条件があります。アジテーターが信奉する正義に共鳴する人間は酔わせても、そうでない人間には醒めるだけの文章になると思っています。質の低いアジ文ほど、信奉する正義には不可侵のドグマが附随しており、さらにその正義もドグマも誰もが知っているはずだの前提で書かれるからです。

つまり知らなきゃ、毒々しい単語が列挙されているだけの装飾過剰の読みにくい文章に過ぎなくなるです。何が言いたいかわからない、また何を主張したいかサッパリ理解できないの空疎な文章になってしまうです。


さて60年代の左翼アジ文は個人的には陳腐化しきっており、今出されてもまるで古典を読むようなものだと思っていますが、アジ文的手法は現在でも有用かどうかです。これも狭い知見ですが有用な事もあると見ています。ただ常に有効とは思えません。アジ文が有効な時期があると思っています。有効な時期にはアジ文はかなりの効果を今だって示します。

人間が物事を判断する時には理と情に基づくと私は考えています。どちらが重いかは個人差もありますが、その時の社会情勢にも左右されると思っています。社会がある種の熱狂状態・興奮状態になれば理より情の優先度が高くなるです。逆の場合は理が重くなります。

アジ文の性格はとにかく情に訴えるのが特徴です。体裁的にはいかにも理論に基づいているように書かれていても、実際のところ理の部分は空疎で、いわばお飾りみたいなものです。空虚な理でもアジ文が効果を表すのは、読むものの判断が情に傾いているからだと見るのが宜しいかと思います。極論すれば理らしいことが書いてあれば、必要にして十分状態です。

アジ文の理はしょせんは硬直したドグマであり「理屈抜きでそうである」に過ぎないものですから、判断基準が情に偏っている時にはかえって有用なのかもしれません。かつての人気首相がワン・フレーズで人気を得たのと類似しています。ここに長々と理屈や理論で反論しても、情に偏っている人々は「小理屈をこねる奴」ぐらいにしか感じないです。


この熱狂時には有用性が残るアジ文ですが、熱狂時の成功体験に酔って、いつまでも使っているのを見ると時に哀れさを感じる事があります。あれは書いている人が酔うどころかアジ文中毒に陥っているような気がしています。あくまでも「たぶん」ですが、アジ文で大受けした頃には冷静な計算も行われていたんじゃないかと思っています。つまりそこそこは計算尽くのアジ文であったです。

ところがアジ文は性格上、アジテーター自体も酔わせる性格もありそうに思っています。当初は計算もあったはずなのに、途中からアジ文こそが受ける原動力であるとの錯覚です。つまり受けなくなったと言うのは「アジ」の刺激が足りないの結論に速やかに至るです。そりゃ、アジ文を出すメンバー自体がアジ文中毒になっているです。

仲間内の評価では非常に良く出来たアジ文(この時点ではアジっている意識すら残っていない気がします)なのに、出せども出せども反応が悪くなっていくです。中毒はアジ文だけではなく、講演会なりを行ってもアジ調こそが平常状態になってますから、そこのコアなメンバーとして残る熱狂者以外には異様な代物に化すみたいな感じです。

まあそうなってしまっている団体は終わりでしょうねぇ。既に救いようがありません。別に救わなくとも団体内の閉じられた熱狂や興奮で楽しんでおられますから、無理に救わなくとも良いような気もします。ただ時々、「まとも」な団体として顔を出す時があるのがネックでしょうか。そう言えば「アジ団体」って言葉はあんまり使われなかった気がしますが、かつてはそういう用法もあったのかなぁ?。