これはおおよそ2種類に分けられそうな気がします。たいした分類ではないのですが、
- 運動の経過でビジネス化したもの
- 最初からビジネス化のためのもの
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なんらかの目的の達成を目指すための運動
上記の運動を2つに分けましたが、運動の経過でビジネス化したものは途中から目的のハードルをドンドン挙げていく現象がしばしば見られます。ビジネス化以前はそれなりに達成が可能そうな目的を挙げますが、途中から「新たな運動方針」的なグレードアップ・バージョンが出現し、到底達成できなそうなものに切り替えられたりします。
それと目的が達成されるとビジネスの本質として困るので、ある程度意識的に敵を作ります。これには幾つか狙いがあると思います。たとえば、
- 反対者を一定数確保しておかないと目的が達成されてしまう懸念がある
- 反対者の存在で目的の困難性を演出し、組織の活性化を図る
それと運動は敵(反対者)がいる方が盛り上がります。これへの攻撃は組織員を熱狂させますし、敵からの攻撃(そういう風に位置付けるだけ。実際のところはただの反論)に対する同志愛も育まれるです。運動の危機的な使い方も出来ます。そのためビジネス化された市民運動はしばしばカルト化します。
ではでは市民運動がビジネス化しているかしていないかの見分け方ですが、これが案外難しいところがあります。常識レベルで無茶苦茶な要求をカルト化された組織体として行っているところはまだわかりやすいですが、必ずしもすべてが「そうだ」とも言えない様な気がします。冒頭で書いた様に運動の経過で変質するところもあるでしょうから、中間過程であれば濃淡の程度が違いすぎて微妙と言う奴です。
あえて一つ挙げるとすれば、反論者への対応はあるかもしれません。真面目(非ビジネス化)な運動であれば、目的達成が何より重要な物になります。出来るだけ賛同者を増やすのはもちろんですが、余計な敵を作らない様にするです。できれば自分の目的に賛同してくれる様に説明し、せめて明確な敵にならないように対応するです。反対者が多いほど目的の達成が困難になるからです。
もう一つあえて挙げると、運動組織内の意見の多様性です。目的達成に関しては最大公約数的に同じであっても、他の事については意見も考え方も拡がりと奥行きがあるです。そういう柔軟性があってこそ、様々な異論反論にも対応できるわけですし、運動の広がりにも有効です。また目的達成のために現実的な妥協も可能と言うわけです。
後は・・・本来同じ目的の運動であるはずなのに、大同団結を非常に嫌がるも挙げても良いかもしれません。小異にトコトン角を立てて、団結どころかライバルとして攻撃対象にしてしまうです。簡単には「うちが本家だ」「いやうちこそ元祖だ」みたいな状態です。
まあ、ある程度年数が経っている運動であれば、前に紹介した権威主義の末期症状が起こったぐらいで理解しないといけないかもしれませんが、最初からビジネス化を目指して作られた市民運動はちょっと嫌です。最近なら反原発系の運動で、そういう香りが漂うところがチラチラと目に付くような気がしてなりません。
もっとも最初からビジネス化のみを目指していたは言い過ぎかもしれません。あれとて最初はもっと純粋な思いであったのかもしれませんが、非常に短期のうちに変質しビジネス化されたとする方が良いのかもしれません。そう考えると真面目に市民運動も続けるのは大変だなぁ・・・と思います。