「みんなが」と「市民」

物事を主張する時に誰かの発言を根拠にする手法はポピュラーです。とくに見解の割れるような議論とか知識が比較的乏しい分野の発言では、根拠を求める時にその道の専門家や権威の発言を使うのは良くあることです。私もよく使います。だから、

    ○○はこう言っている
こうやって理論を組み立てて発言するのは基本的にOKです。もちろん根拠とした専門家や権威の発言自体が間違っていたりする事もありますが、それはそれで別問題です。しかし他者の発言引用でも根拠にすらならないケースと言うのもあります。私も経験無いとは言いませんが、子供が何か買って欲しいもの(少々高額であったり、現在不要不急のものが多い)をねだる時に、
    みんなが持っているから
こういう論法はかなりの確率で通用しません。親が買わないと判断したら即座に切り返されます。
    「みんなが」って誰なの?。△△ちゃんや、××君はどうなの?
答えに詰まった子供は持っている子供の名前を数人は挙げるものの、持っていない子供の名前も挙げざるを得なくなり、あえなく却下となります。この「みんなが」式の論法は子供ならある時期にまず誰でも使う経験はあると考えていますが、使ってもなかなか通用しない経験を積み重ねて使用に慎重になります。もっとも今でもそういう「みんなが」式の根拠で発言される方がネットでもおられますが、スルーされるか、「みんなが」ではない根拠を示されて粉砕されます。


さて最近妙に気になるマスコミ・フレーズに「市民」があります。用法としては、

これも前は「市民」の代わりに「庶民」が頻用されていた時期があったと記憶しています。ただ市民と庶民では指し示す範囲がやや違います。庶民はあくまでも国民の中のある一定のグループを指します。たぶんですが、富裕者とか、権力者などを無意識に除外させている表現とは言えます。とりあえず国民全員でない事だけは明らかです。

これが市民となると格段に範囲が広がります。日本では「市民 ≒ 国民」です。ごく少数を除いて国民はほぼ全員が市民です。もちろん私だって市民ですし、私の奥様も、子供もまた市民です。まさか市民が市町村のうちで「市」に居住している人の事を指しているとは思えません。


マスコミが頻用する市民感覚とか市民感情ですが、マスコミの主張と市民である私の考えや意見と必ずしも一致しません。一致する時もあれば一致しない時も多々あると言う事です。これは私だけでなく、もっと数多い人間がそうのはずだと考えます。だいたいある物事の見解で日本中の市民がすべて同じ感覚・感情になることなどまずありえないのは当然です。

もちろん記事を書く記者も市民であり、感想なりを取材した対象も市民ですが、日本の新聞社の総力を挙げても市民全員を取材できるはずもありません。にも関らず極めて無造作に「市民」と断言してしまうのは、子供の「みんなが」式の主張と同じレベルであると感じています。個人的に違和感がバリバリあります。いつから市民の感情や感覚の決定者になったんだろうと言うところです。


最近の大きな訴訟の内容を伝えるものでもそうです。訴訟の内容や是非については今日は触れません。この訴訟を取材して記者が感じた事を書くのは言論の自由です。これも一部で批判もありますが、遺族の感情に偏りすぎていると言うのもあります。それでもそれは記者の主観と、視点の置き方であり、そこもまた言論の自由と考えます。

ただ記者の主観による判断を「市民」と言うマジックワードを使って、まるで国民全員がそう感じ、考えているにする論法は、子供の「みんなが」式レベルの幼稚さであると言う事です。何故に記者はそう判断したなり、マスコミがそう判断したと書かないかです。必ずしも記事の意見に賛同していないものまで市民と言うマジックワードで一緒くだにするのはやめて欲しいと感じています。

つまり

    全員が賛同した事になる「市民」ではなく、あくまでも記者なり報道機関がそう感じた、判断したにすべき
と言う事です。市民である記者が感じた事を表現するのは言論の自由ですが、勝手に市民全部の感覚なり感情を代表してもらいたくないと言えば良いでしょうか。記者なり報道機関が意見を発表して、その意見に賛同者が多く集まって初めて「多くの」ぐらいの形容詞がやっと付けられるか付けられないかと考えています。

とくに刑事訴訟の大原則は「推定無罪」です。被告人が無罪を主張している限り、判決が確定するまで推定無罪であるのが法治国家の原則です。推定無罪であるべき被告人を有罪であると安易に断定するのは好ましくないと考える人もキッチリいます。少なくとも一市民である私は出来るだけそうしたいと考えています。感情とは別の理性の問題です。

「市民」表現はそういう考えを持つ人も大衆裁判、社会的リンチの共犯者に仕立てているとも言えます。それこそ今度は「みんながそう言っていた」式の言い訳に利用されているみたいで、私は加担したくありません。


ただ願いも虚しく表現はさらにエスカレートしている感触があります。その度合いは、

    庶民 → 市民 → 国民
なんとなく、既製マスコミが勢力を衰退させるのと反比例して表現がエスカレートしているようにも思っています。事実を冷静に伝えるのが基本である記事に、感情を充満させるのも同じような傾向と見ています。な〜んか、怪しい商売の誘い文句が、極彩色の根拠を示さない断言調であるのと共通点を感じてしまうのは私だけでしょうか。