年忘れ歴史閑話

当ブログに日曜閑話シリーズと言うのがあるのですが、気力不足でかなりお休みしています。ウィークデイのエントリー維持に四苦八苦状態なので、閑話までなかなか手が回っていないのが個人的に無念とするところです。その代わりと言うかお詫びに年末年始企画として、久しぶりに歴史閑話をお贈りします。

作品としては構想1週間、執筆1ヶ月てなところで、クソ忙しい11月の終わりから12月にかけてシコシコ書き上げたものです。本当はもうちょっと原典に当たって細部を煮詰めたかったのですが、余裕がなくて殆んどが私のエエ加減な記憶に頼っている部分が多く、突付けばボロが多いのですが、別にこれで商売するわけではないので、あくまでも閑話としてお楽しみ下さい。

それとどこかで同じような発想で仮説を立ててられる方がおられるかもしれませんが、それもまた御愛嬌と言う事でお許し願えれば幸いです。


日本の古代史にも興味があるのですが、これが実に資料が少ないのがネックですし魅力です。少ないと言っても立派な資料はもちろんあります。かの有名な日本書紀古事記です。権威もありますし、優れてもいるのですが、必ずしも正確と言えない事です。古代の歴史記録は古事記日本書紀が書かれるまで存在しなかったわけではありませんし、記録上は 「上宮記」「帝紀」「旧辞」「国記」「天皇記」などがあったとされますが、日本書紀の成立時にほぼ抹殺されたとなっています。

なくなったものが見つかる可能性は低いですし、口碑もさすがに古すぎて手がかりとしては非常に乏しいものがあります。ですから日本書紀を基に考えるときには、その編集長である藤原不比等の編集方針から隠された意図を考えるという作業が必要になります。日本書紀藤原不比等が意図したものが表された国定歴史書と言えるからです。

日本書紀の編集意図として有名なのは天皇家万世一系の立証である事は有名です。天皇家天智天皇以降は、天智系・天武系の争いはありましたが、基本的に一系と考えても良いと思われます。ちなみに奈良朝は天武系ですが、桓武天皇の父である光仁天皇からは、天智系が連綿と続いていると考えています。

それ以前はどうであったかは不明です。現在では複数の天皇(大王)を出す氏族があったと考える説が有力です。もちろん氏族同士の姻戚関係はあったでしょうから、そこまで含めれば万世一系と言えなくもないかもしれませんが、古代ヤマト王権には王朝交代があったと考える方が自然とする主張は私も同意しています。

私は王朝交代の歴史があったからこそ、藤原不比等はあえて万世一系を強く主張したと考えています。藤原不比等はこれも有名な藤原鎌足の息子(次男)です。鎌足中大兄皇子天智天皇)と組んで大化の改新と言うクーデターを起し政権を掌握しています。鎌足天智天皇の在世中に亡くなっていますが、天智天皇の死後に大動乱が起こります。

大友皇子大海人皇子が政権を争った壬申の乱です。この時に不比等はどちらの陣営にも組んではいませんが、中臣氏自体は天智天皇の息子である大友皇子を応援したようで、不比等自体は殺されはしませんでしたが、天武天皇時代には冷遇されていたと考えてよさそうです。没落しかけの藤原氏を背負った不比等ですが、奈良朝の不安定さに乗じて頭角を現します。

奈良朝の一つの特徴は男性天皇が不安定であった事です。簡単に言えば病弱であり、天皇と言う絶対権力者にするには不足気味の人材しか出てこなかったことです。奈良朝の天皇継承にそれが現れています。

赤字が女帝ですが、持統天皇は夫の天武天皇の死後、孫の文武天皇が即位するまでの「つなぎ」であり、元明天皇元正天皇文武天皇の息子の聖武天皇が即位するまでのつなぎです。ちなみに元明天皇文武天皇の母(夫は天武天皇の息子の草壁皇子)であり、元正天皇文武天皇の姉です。孝謙天皇になると天武系の直系男子皇族がいなくなり、史上唯一の皇太女から天皇の即位となっています。系図を示しておくと、
奈良朝の皇位継承の特徴を違った角度から見れば、天武天皇の直系を守ったと言うより、草壁皇子の直系をなんとか維持しようとした歴史にも見えます。草壁皇子系の皇位継承に一番執念を燃やしたのはその母である持統天皇と考えて良く、不比等は最大の権力者の願いである文武継承に尽力する事により自らの権力拡大と一門の繁栄を託したと見ることが出来ます。

さてと話を万世一系に戻しますが、持統−文武ラインの成立は当時でもそれなりに無理のある継承であったと考えています。もう少し時代が下ってからの天皇(藤原摂関政治下の天皇)とは違い、当時の天皇の地位は絶対権力者と言えます。さらに王朝交代があるという記憶があれば、不安定な持統−文武ラインを問題視して、取って代わろうとする勢力の台頭の危険性が生じます。

当時にどれほど王朝交代の記憶が残っていたかは憶測になりますが、やはりあったと見ています。ただあったとは言いながら、その時々の大王は公称としては「先代の大王」を継承するとしていたと考えています。さらに古代の複雑な姻戚関係もあり、どの大王であってもどこかで先代以前の大王家の血を受け継ぐ、または受け継いでいると称している関係でもあったと考えています。

そういう曖昧複雑さと記録が口碑による伝承部分が大きい事を利用して、不比等は持統のために万世一系の話を作り上げたと考えます。万世一系は神代から続くものであり、この万世一系の古来からの伝統により、持統の孫である文武が正統継承者であるとのプロパガンダのためです。不比等が構築した万世一系理論は、すべてが持統−文武ラインの成立のためであり、このラインの成立に不比等及び藤原氏の命運を賭けたと言えば大袈裟でしょうか。


万世一系理論の構築のためには、記録に残る大王の縁戚関係の創作と、神武天皇まで遡る系譜の創作が必要です。しかし創作と言っても基本は歴史ですから、ウソばかり並べたら誰も信用しなくなります。当時でも消せない記憶として語り伝えられる大王の事績は踏まえて書かないといけませんし、そういう部分があってこそ他の創作部分の信用性が高まる関係になります。

日本書紀の編纂に当たって不比等がもっとも工夫を凝らしたのは、継体天皇から大化の改新に至る部分であったかと考えています。ここは当時からすると比較的記憶に新しい部分ですし、さらに現在の奈良朝の正統性のためにも重要な部分になります。古代史の中の継体天皇はかなり注目できる存在です。古代ヤマト王権は当然の事ながら、畿内の豪族のものです。

ところが継体天皇日本書紀でさえ越前から招かれたとしています。大王家との関係は「応神天皇5世の孫」であるという関係の薄さです。なぜ継体天皇が招かれたかと言うと先代の武烈天皇に後継ぎがなかったためとされていますが、どう考えても説得力の無い理由で、武烈天皇に正式の後継ぎがいなかったとしても、「応神天皇5世の孫」より直系に近い皇族は存在していると考えるのが妥当です。

ここは武烈天皇の後継争いに畿内の豪族が激しく争って決着がつかず、それに乗じてか、それとも後継争いの一方の勢力に援軍を頼まれて継体天皇畿内に乗り込んだと考えたいところです。こういう事は後世にも例があり、平安末期に貴族同士の権力争いに源平の武家勢力を招きいれ、その結果として平家政権が成立した事を彷彿とさせます。

平家政権だって、桓武平氏の名の通り皇族の末裔であり、継体天皇の「応神天皇5世の孫」とどっこいどっこいのものですから、清盛が天皇になっても万世一系伝説は保持できるのと変わらない状態のように考えています。不比等にしても、こんな都合の悪い話を隠したかったに違いないと思うのですが、それでも残しています。残した理由は不比等本人にでも聞いてみないとわからないのですが、継体天皇の伝承が色濃く残っておりとても消し去る事が出来なかったのか、もしくは他の理由です。


実はここまでが全部前置きでここから本論に入ります。私は他の理由があったとの仮説を立てます。継体天皇こそが天智・天武系の始まりであり、持統天皇にとっても不可欠な人物であったと考えます。

さてとここで古代最大の権勢を揮った蘇我氏がいます。この蘇我氏ですがあれだけ有名で、あれだけの権勢を揮った割には出自がはっきりしない氏族です。日本書紀では武内宿禰から始めるとして家系図もありますが、武内宿禰から4代(石川宿禰、満智、韓子、高麗)はまったく無名の人物です。そんな蘇我史が突然台頭したのは6代目の稲目になってからです。

稲目は突然歴史に登場し、これも突然物凄い権勢を揮うようになります。当時の天皇家家系図ですが、

見ればわかるように稲目は欽明天皇と強く結びつき、さらに欽明天皇と稲目の2人の娘(小姉君、堅塩媛)が生んだ子供が天皇位を回り持ちしています。これだけ蘇我一族から天皇を輩出すれば蘇我氏は自然に強大になります。しかし家系図が複雑すぎると思いませんか。古代であるからそれぐらいは奇異とするに足りないといえばそれまでですが、この後の奈良朝の天皇家家系図に較べても複雑すぎる印象を持ちます。

これの見方を変えたいと思います。日本書紀を編纂した不比等万世一系理論を構築するにあたって、蘇我氏の何かを隠したのではないかと推理します。もう一度継体天皇を思い出して欲しいのですが、とにかく武列天皇の死後に畿内に大規模な内乱が起こったと考えても良いと思います。内乱の原因は次期天皇位を巡る争いであることも間違いないでしょう。

当時複数の王位継承権を持つ氏族があったとして、武列天皇の後継問題では他を圧する存在の氏族がいなかったのが継体天皇を越前から呼ぶ原因となったと考えていますが、ここを継体天皇畿内を征服したと考えるより、畿内の有力氏族に援軍を頼まれてと考える方が自然です。どこかの有力氏族が最後の勝利を握るために継体天皇を越前から呼び込んだと考えます。

その後なんですが、畿内を制した継体天皇と有力氏族は連立王権を組んだと考えます。複数の王位継承権のあるのが状態であったとすれば、長い内乱の最終勝利者が王位継承権を独占しようとするほうが自然です。つまり武烈後の王位継承氏族は、継体家ともう一つに絞られ、そのもう一つが蘇我氏ではなかったかと考えます。

連立王権ですから、二つの氏族から天皇が選出される事になります。継体天皇が即位したのは、越前からの援軍の条件が天皇位であったからと考えるのが自然ですし、その前の武烈後の内乱で蘇我氏の力が、かなり弱っていたかもしれません。

系図上は継体天皇の後は安閑天皇宣化天皇と続きますが、連立王権であれば継体天皇の後は蘇我氏である必要があります。系図上は安閑、宣化と続きますが、実態は欽明天皇継体天皇の後継であり、欽明天皇こそが蘇我稲目であると考えます。だからこそ蘇我氏は稲目の時に急に強大になったとすれば話の筋が通ります。稲目が天皇であったから蘇我氏が強大に描かれたわけです。


不比等の工作

しかし、それでは不比等にとっては都合が悪くなります。そこで蘇我氏隠蔽工作を施します。蘇我氏への不比等の工作は、まず蘇我氏の出自を皇族とは関係ない武内宿禰にします。それだけではなく、実際に存在した蘇我氏と重ね合わせてしまったと考えています。大化の改新の時に中大兄皇子に加担した有力者に蘇我倉山田石川麻呂がいますが、これは実在した蘇我氏と考えています。

それだけでなく蘇我倉山田石川麻呂の家系伝説は武内宿禰を始祖にしていたと考えます。実在する蘇我氏の祖先に蘇我大王家を重ね、蘇我氏はあくまでも臣下の氏族であり、天皇になったものはいないとしたと考えています。この工作の辻褄の一環が複雑な姻戚関係を持つ家系図だと考えています。もちろん家系図もまるきり創作という訳でなく、実在した人物を散りばめながら、辻褄の合わないところを創作して補ったと考えるのが妥当です。

話を稲目に戻しますが、稲目が継体の後の天皇であったとすれば、その後の敏達天皇は継体派になるのが順番です。そうなると敏達天皇の次の崇峻天皇蘇我系になるはずですが、これは暗殺されています。ここは考えどころですが、内紛があったと考えます。

蘇我と継体の連立王権を仮定していますが、拮抗する二勢力と言う体制は協調しようとするより、相手を蹴落とそうとする方向に力学が働きやすくなります。畿内王権を握るために手を結んだ蘇我と継体ですが、相手を駆逐して王権を独占しようと考えても不自然ではありません。考えられる組み合わせとしては、

  1. 継体系の敏達が王権を独占するために、同じ継体系の崇峻に後を継がせたが、反発した蘇我氏に暗殺された。
  2. 崇峻は蘇我系であったが、蘇我系内の後継者争いが勃発して暗殺された
  3. 実は敏達と崇峻は同一人物であり、王権独占を狙った蘇我に暗殺された
崇峻暗殺の主犯は馬子とされています。馬子は日本書紀の中でも崇峻を暗殺してもまったく咎められず、逆に父の稲目を上回る強大な権力を手中にしています。崇峻を暗殺しても反発が無かったのには理由があるはずです。そこから考えると、崇峻の即位には暗殺されても他の豪族が納得する理由があったと考えるのが合理的です。

崇峻即位の前にもう一つの殺人があります。穴穂部皇子の存在です。実は穴穂部皇子蘇我系の正統王位継承者であり、これを継体系が暗殺して、崇峻を立てた可能性を考えています。連立王権のルールを破ったのは継体系ですから、これを暗殺しても大義名分が立ったのではないかと考えています。この一連のゴタゴタにより、蘇我系の力が継体系を凌駕したと推測します。

では崇峻の後の天皇は誰かになりますが、馬子しかいません。馬子は継体系との抗争に勝ち抜き、絶大な権力を手に入れたと考えます。そうなると馬子の妻が推古であり、息子が聖徳太子になることになります。用命天皇は馬子天皇の存在を隠すダミーと考えます。

強引な推理ですが、こうする事により聖徳太子の幾つかの謎が解けます。聖徳太子を巡る幾つかの謎のうち、なぜ天皇になれなかったかがあります。太子は日本書紀にも皇太子として記載されています。また推古は日本最初の女帝として記載されています。女帝は異例ですし、少なくとも成人の皇太子がいれば女帝は成立しないはずです。

日本書紀はここの説明に苦慮し、用命天皇を作った上で推古を妻とし、さらに太子の出自を別系統とし、推古の実子で無いから皇太子の位置に留まったとしています。この説明でも多くの研究家が首を捻っているのは間違いありません。

実のところは馬子天皇がおり、その皇太子であれば何の問題もありません。ではでは、馬子天皇がいるのに聖徳太子が、これまた異例の摂政の地位に就くかの説明が不足になります。これも日本書紀が馬子天皇の存在を隠蔽したと仮定したなら容易で、実は摂政でなかったと考えれば筋が通ります。憲法十七条も冠位十二階も聖徳太子ではなく、馬子天皇が行なった政治と考えます。

馬子天皇時代は善政が敷かれたと推測します。馬子時代の政治の記憶は当時も鮮烈でしたので、この時代まで抹殺するのは不比等でも不可能だったと考えます。ただ蘇我氏系の天皇を隠蔽しなければならないため、馬子ではなくその皇太子が摂政となって善政を行なった事にしたと考えます。ですから日本書紀でも極端すぎるぐらいに聖徳太子を褒め称えています。

聖徳太子と言う聖人を作り出す事により、馬子と蝦夷の行動は自由になります。自由とは不比等にとって自由に脚色できる存在になると言う事です。では日本書紀で実際の太子は誰に該当するかと言えば蝦夷です。理由は単純で馬子の息子だからです。ただ馬子天皇をただの蘇我馬子に脚色したので、日本書紀上の蝦夷は冴えない人物となっています。


ところで推古が本当に女帝であったかどうかですが、やはり女帝であったと思います。ただし女帝になったのはもっと晩年で、先に聖徳太子が死亡し、さらに馬子天皇が死んでから即位したものと考えます。女帝が即位する時には持統−文武ラインのように、継がせたい息子が幼少の時にリリーフと言うスタイルが多くなっています。

誰に継がせたかったかになりますが、皇太子の息子である自分の孫かと考えられます。誰かと言えば入鹿です。入鹿しかいないのですが、入鹿天皇の即位は連立王権のルールにまた反する事になります。この異論を押さえるために推古が女帝に君臨し、入鹿を即位させたと推理します。

 この推古が入鹿即位までのつなぎの女帝であるという話は持統−文武ラインの先例になります。先例にはなりますが、このラインを否定したのが天智によるクーデターである大化の改新です。どういう事かと言えば持統−文武ラインに取って宜しくない先例になります。持統−文武ラインにとって推古と言う女帝の先例は持統天皇の存在のためには必要です。一方で大化の改新につながる入鹿の存在は不要になります。

 馬子天皇時代の業績を根こそぎ抹殺するのは不可能なので、聖徳太子と言う架空の聖人を創作し業績を転化させます。そのため摂政という地位を無理やり作り出し、さらに持統の正統性を保つために天皇は推古にします。さらにさらに推古−入鹿ラインは悪しき先例になるので抹殺したと考えます。そうしないと持統−文武ラインにとって都合が悪いからです。

 推古の後は舒明ですが、おそらく入鹿はここに位置していると考えます。記紀系図上は舒明と皇極(斉明)の息子が天智とはなっていますが、おそらく系図上で無理やり引っ付けただけで関係のない人物であったと推測します。もう少し付け加えると、とくに斉明天皇の事績はかなり入鹿天皇の事績にダブらせてあると考えています。

 入鹿天皇の事績も隠しきれないので、入鹿を天皇と別の存在に仕立てると同時に入鹿天皇の事績を誰かにやらせる必要があるからです。馬子天皇の存在を隠したのと同じ手法であると見ます。

この蘇我系の動きに反発を強めていたのが継体系と考えられます。崇峻暗殺により弱体化していたとは言え、連立王権の一角です。なんとか王権を奪回しようと試みたのが、乾坤一擲の大化の改新です。弱いほうの継体系のクーデターですから、半端じゃない血なまぐさいものになります。宮中で入鹿天皇を暗殺しただけではなく、蘇我系の皆殺しを行なっています。山背大兄皇子一族の皆殺し事件です。

日本書紀では入鹿が山背大兄皇子一族を皆殺しにしていますが、同族であるのにそこまでしなければならない理由が乏しいところがあります。また聖人である聖徳太子の一族を皆殺しすれば当然のように悪評が立ちます。日本書紀では入鹿による山背大兄皇子一族皆殺しの後に、宮中での入鹿暗殺に話が進みますが、実際は中大兄皇子一派による宮廷内暗殺の後に山背大兄皇子一族皆殺しがあったと考える方が権力闘争として妥当です。

入鹿天皇を宮廷内クーデターで暗殺した後に、弱小であった継体派の中大兄皇子一派は、蘇我氏の巻き返しを防ぐために一族皆殺しを図ったと考えます。そうしないと天皇位を継いでも蘇我氏の巻き返しで政権を維持できないと考えれば、ごく普通の対応です。それでもやり方が余りに凄惨であったため、天智天皇即位には反発も強かったと考えています。そのため外征を行なったり、クーデターにあいかねない奈良を逃げだして近江に都を移したりしたと見ています。


壬申の乱に勝利した天武天皇は、わずかでも蘇我系の血を引いていたのかもしれません。血を引くと言っても、直系は皆殺しですから、女系で引く程度です。もう少し言えば、そういう宣伝をして蘇我系の残党や反継体勢力を味方につけた可能性があります。直系が滅んだ蘇我氏は、せめて女系の血を引くと言う天武天皇を応援したので、天智も扱いに慎重になったんじゃないかと思います。蘇我系が天武を担いで動けばまた大乱です。

そのため連立王権のルールの皇太子の地位に据え、娘を妻に与えたりと懐柔に勤めています。ただ天智の晩年にはまたぞろ息子の大友皇子に後を継がせたいと考えるようになり、危険を感じた天武は吉野に身を引いたりしています。もちろん最後は天智を暗殺し、壬申の乱と言う再クーデターを起こし政権を奪取しています。だから天武の都は奈良になります。

あくまでも仮説と言うよりお遊びですが、実際の皇位継承は、

    継体 → 欽明(稲目)→ 敏達→ 崇峻 → 馬子推古入鹿 → 天智 → 天武
青字が蘇我系、黒字が継体系です。この連立王権による血で血を洗うような争いに終止符を打つためにも万世一系理論は必要だったのかもしれません。王権回り持ち思想が残る限り、抗争は再燃します。天武死後に再び危うい状態が奈良朝に出現します。草壁皇子の死による皇位継承の不安定要因です。持統天皇に求められた万世一系理論のためには、滅ぼされた蘇我系の天皇を排除しなければなりません。

また滅ぼされる蘇我氏には滅ばされて当然の理由付けが必要で、馬子や入鹿を悪人として存在させ、殺されても仕方が無いとの大義名分も必要です。また蘇我系の王の善政の理由も必要で、架空の人物に近い聖徳太子を創作する必要もあります。日本書紀への反証が残れば大変ですから、これも隠滅しないといけません。

当時なら本当は違うの伝承も残っていたでしょうが、時間は残酷でやがて記憶は薄れていき、国定教科書に書いてある事が歴史になります。関係者が死に絶えていけば、伝承は滅んでいきますし、そもそももっとも濃厚に伝わるはずの蘇我氏の一族はほぼ皆殺しにされています。

 天武天皇も謎の人物です。正史的には天智天皇の弟となっていますが、確か扶桑略記だったと思いますが、天武天皇の方が年長であったとされてもいます。さらに出自さえも不明ともなっています。扶桑略記自体はかなり後世の成立ですが、研究者によればその当時に未だ残っていた口碑や、焚書されたはずの記紀成立以前の歴史書の断片の記録かもしれないとはされています。

 扶桑略記に立つと天武天皇はかなりの怪人物になりますが、記紀でも見ようと思えば受け取れる個所はあります。天智天皇大化の改新と言うクーデターで権力を握り締めたはずですが、天武天皇には相当な遠慮をしています。これは遠慮せざるを得ないほどの支持勢力があった事を示唆すると考えます。天武の勢力は天智の権勢さえ脅かすものであったのは記紀でもわかります。

 天智と天武の関係はある意味、これも王朝交代に近い権力交代であるとも見れます。大友皇子天皇位(大王位)に正式に就いていたかどうかは諸説がありますが、当然就いていたと考えるのが妥当です。壬申の乱は天智死後の天皇位を皇子である大友と大海人(天武)が争ったと記紀ではなっていますが、常識的に考えて天皇位に就いていた大友とそれを奪いに行った大海人の争いと見る方が自然です。

 構図としては崇峻を暗殺した馬子や、入鹿を暗殺した天智と変わらないのですが、不比等にとっての命題である持統−文武ラインの正統性のためにそれでは拙いことになります。天武は文武の直系の祖父であり、奈良朝の始祖でもあるからです。天武が天智、大友(弘文)と二代の天皇を殺して天皇位に就いたと言うのは宜しくないと言う事です。

 結局のところ天武とは何者であるかになります。大化の改新を継体派による蘇我氏へのクーデターであるとの仮説を今日は取っていますが、クーデターの首謀者である天智は継体派のNo.1ではなかったのかもしれません。天智は中大兄皇子とされていますが、大兄とは一般的に長子の事を指しますが、「中」が付くと長子でないが継承者の地位にあるものと解釈する事が出来ます。

 つまり大化の改新は継体派のNo.2である天智が起したクーデターであり、クーデターの功績により天皇位に就いたものの、継体派の本当のNo.1は別にいたとも推理する事は可能です。それが天武であったのかも知れません。クーデター成功の公算は当時でも低く、低いがイチかバチを賭けたのが天智であり、自重したのが天武である関係です。

 しかし成功の公算が低かったクーデターは成功してしまい、天武はやむなく天智の下風についたとも考えられます。しかしかなり無理のあるクーデターであったので、天智は権力を保持するために蘇我氏大惨殺をやらざるを得なくなり、この大惨殺は天智への反感を駆り立て、反感勢力は本来のNo.1であった天武を支持したのかもしれません。

 天智への反感の強さは、天武が天智を暗殺し、天智の息子の大友を殺して天皇位に就いても誰も問題視しないほどであったとも見れます。天武が天智系を皆殺しにしなかったのは、元は同族であり、さらに天智が蘇我系を大惨殺して反感を買った事を教訓としたと考えれば説明は可能です。ただしこの事により天智系は生き残ります。

 そこまで考えると奈良朝で政権交代勢力としてもっとも恐れられたのは、天智系の残存勢力であったかも知れません。壬申の乱で二つに分かれた継体派の新たな王朝交代への怖れです。天武系にとって不幸な事にホープ草壁皇子だけではなく高市皇子まで死亡し、皇位継承は非常に不安定になります。不安定な皇位継承を理論で強化しようとして作り出されたのが万世一系理論であるなら、当時として最も求められるものであったと考えても良さそうです。


隋書倭国

さてさて、ここまで強引に不比等による蘇我氏天皇抹殺論を展開してきましたが、この仮説は何のために立てかになります。別に蘇我氏天皇が存在せず、日本書紀のままでも不都合はないと言われれば確かにそうです。ここまで仮説を展開した理由は隋書倭国伝を合理的に解釈するための伏線です。つうか、最初に隋書倭国伝を素直に解釈するには蘇我氏天皇が存在すると非常に都合がよいと言うのが、今日のお話の出発点になります。

当時の文字記録は日本側に記紀がありますが、もう一つ隋書倭国伝があります。隋書は当時ド辺境の日本の記録に大きなウソをつく必然性がありません。修辞的な文飾はあるにせよ、とくに政治的な意図なく記録されていると考えています。つまり日本書紀より、よりありのままの事実が記録されている可能性が高いと判断しています。

事実関係としての信憑性は「隋書倭国伝 > 日本書紀」であり、隋書倭国伝と日本書紀の記述に矛盾があれば日本書紀より隋書倭国伝の方が正しい、すなわち不比等の意思が働いて工作されている個所と考えます。

遣隋使として有名な国書の一節は、

    日出處天子致書日沒處天子無恙
これも隋書倭国伝に記載されているため、実際にそう書かれていたと考えます。隋への使いは倭国伝を読むと1回で無いようで、
  1. 開皇二十年(600年)
  2. 大業三年(607年)
この2回が記録されています。もう1回あるのですが、それは後述で少し触れます。有名なのは大業三年(607年)の方ですが、どちらも日本から使者を使わした王の名前が記されています。
  • 開皇二十年(600年)


      倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌
      倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌)


  • 大業三年(607年)


      其王多利思比孤遣使朝貢
      (その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢
7年の感覚を置いて2回の国使を出した天皇はどちらも「多利思比孤」です。「阿輩雞彌」は「オオキミ」と読むそうですから、天皇の名前である事は明らかです。今日のお話は天皇家万世一系で無く、蘇我氏と継体氏の連立王権と言う前提にしていますから、天皇にも名字があるはずで「姓阿毎」とは「姓は阿毎」と読みたいところです。

一般的には「阿毎」は「アメ」でありさらに「天」と考え「アメノタリシヒコ」と言う名前であると考えますが、蘇我氏の本当の名字が「アメ」だった可能性も十分あるかと考えています。

それと通説では遣隋使は聖徳太子が派遣した事になっています。日本書紀では当時の天皇推古天皇であり、推古天皇の名が「多利思比孤」つまり「ヒコ」すなわち「彦」と言う男性の美称はおかしいという指摘があります。個人的に「ヒコ」は「彦」であるだけでなく「日子」にも通じるんじゃないかとも思っていますが、当時の男性の美称であったのは間違いありません。

これについて、摂政として政権を握っていた聖徳太子が自分の名前を記したという説が有力と聞いた事があります。個人的には多いに疑問で、国書ですから記される名はあくまでも大王の名まで無くてはなりません。いくら摂政であっても自分を「大王」と称するのは無理があります。さらにこういう記述が隋書倭国伝にあります。

    名太子為利歌彌多弗利
    (太子を利歌彌多弗利と呼ぶ)
天皇である「多利思比孤」の他に太子である「利歌彌多弗利」が明記されています。聖徳太子が「利歌彌多弗利」であれば推古天皇は「多利思比孤」になります。ここで考え方として女性といえども天皇になれば男性風の名前に変えたという仮説も成立しますが、知る限り推古天皇後の女帝でそうでなかったと思いますから、やはり天皇は男性であると考えて良いかと思います。

日本書紀では他に男性天皇がいませんから、どこまで行っても謎になるのですが、馬子天皇が存在すれば話は簡単で、馬子天皇が「多利思比孤」であり聖徳太子が「利歌彌多弗利」であるとすれば何の問題も生じません。それにしても「利歌彌多弗利」はなんと読むのでしょうね、単純に読めば「リカミタフリ」なんですが、どうにも語呂がよくありません。


この煬帝に捧げた国書の返書にも興味深いエピソードがあります。国使はこれも有名な小野妹子なんですが、なんと国書を紛失しています。wikipediaからですが、

日本書紀』(巻第二十二)によれば、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐に渡る。推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し、(紛失に関しては諸説あり、とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。 翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理南淵請安、旻らと再び派遣された。

国書紛失事件の顛末は慌しく、責任を問われて流刑になりながら、恩赦されて隋からの使者に伴って再び隋に派遣されています。これが1年の間に行なわれているのが引っかかります。国書紛失は使者にとって大失態ですから、流刑にされたのまでは良いとして、あっと言う間に恩赦されて再び国使になるのは慌しすぎるような気がします。

ここも推理になりますが、国書紛失事件はそもそも無かったんじゃないかと推理します。本当に小野妹子が国書を紛失していたのなら恩赦があったにしろ、そんな不注意な人物に国使をすぐに命じる必要がないからです。それこそ他の人を国使に選ぶのが普通かと思います。言ったら悪いですが、当時の隋との関係は緊張関係ではなく、使者の力量一つで国の命運が変わる状態ではなかったからです。

それとここの解釈も微妙なんですが、小野妹子は恩赦後に「大徳」に「昇進した」となっています。国書紛失の失態のために流刑されて、恩赦後が昇進と言うのもちょっと不可解です。ここのところは原書に当たる気力がなくなっているのですが、昇進前は「小徳」の可能性があります。もし小野妹子が小徳で国使であったのなら、倭国伝の記載とあわせて微妙なところが生じます。

まず隋の使者の派遣時期ですが、

    明年、上遣文林郎裴清使於倭國
    (翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した)
当時の往来はどう考えても容易でないので、小野妹子は隋の使者と一緒に日本に帰った可能性があるんじゃないでしょうか。わざわざ別に帰る必然性が乏しい様な気がします。隋の使者も小野妹子と言う道案内がいる方が確実に日本に向えます。つうか、わざわざ別に帰る必要性が思い浮かびません。

それより何より、小野妹子と隋の使者が別々に日本に来たのであれば、二つの国書が存在してしまう事になります。まさか隋の使者が手ぶらでわざわざ日本に来るとは思えないからです。隋の使者が国書が持っていた傍証として、

    其後清遣人謂其王曰 朝命既達、請即戒塗
    (その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。
「朝命既達」とは国書の返書を渡した事と受け取りたいところです。国からの返書を小野妹子と隋の使者に2通渡すのは妙ですし、小野妹子が国書を持ち、隋の使者が手ぶらもやはり妙です。さらになんですが、
    復令使者隨清來貢方物
    (再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。)
隋の使者に随伴したのはまたもや小野妹子日本書紀にはなっています。考え方として、国書への返書はその国の使者に渡し、使者だけが来たと言う考え方もあります。国書の返書は小野妹子が持ち、隋の使者は口頭で使いの言葉のみを伝えた可能性です。ただしそうであれば、隋の使者の言葉は隋からの国書の存在が前提になるはずで、国書の紛失はそれこそ重大すぎる失態になります。

隋はわざわざ人を遣わして日本に使者を送っているのですから、国書の返事は隋の使者が持っていると考えるのが自然です。小野妹子も隋がわざわざ返答の使者を遣わすのであれば、これに随従して帰国するほうが自然かと考えます。隋の使者が帰国する時にも小野妹子は再び随従するぐらいですから、それぐらい鄭重に扱ったと見ます。

隋からの国書を小野妹子が預かっていたとし、隋の使者と別便で帰国していたなら、

  1. 隋は日本に小野妹子への国書と、隋の使者の国書の2通を日本に送ったことになる。
  2. 国書が一通なら、隋の使者は国書なしで日本を訪問した事になる。
  3. 国書が一通なら、隋の使者は国書が無い状態で日本に朝命を伝達しないとならなくなり、小野妹子の失態は致命的となる。
当時の国際儀礼はよくわからないのですが、日本から隋への国書は上奏文となります。可能性として、小野妹子に国書の返書を与え、隋の使者に別の国書を与えたとも考えられますが、隋の外交姿勢としてそこまで鄭重にする必然性があったのかは疑問です。国書を持ってきた使者に対し、単に返書を与えるのではなく、わざわざ使者を出すのはそれだけでかなり厚い礼と考えられ、国書は答礼の使者が持っていると考えるのが自然です。

一番自然なのは、

  1. 小野妹子が国書を隋に渡す
  2. 隋は使者に返書を持たせ、小野妹子と共に日本に行く
  3. 小野妹子は使者の成功により昇進
  4. 小野妹子は隋へのさらなる返書を持って、隋の使者と共に再び隋に渡る
問題は不比等がなぜ国書紛失事件を創作する必要があったかです。おそらく遣隋使は当時のビッグプロジェクトで、誰もが知っている快挙であったと考えます。それ故に遣隋使の記録自体は抹殺する事が出来ません。不比等の目標は蘇我氏天皇の歴史からの抹殺ですから、国書にある天皇の名前や皇太子の名前が記録に残るのが困ると考えたと思います。

不比等工作説に立脚している面もありますが、隋からの国書が2通あれば、もう1通も抹殺する必要があります。紛失したため抹殺された国書は1通であり、そこから考えても国書は1通であったと考えます。

日本書紀で作り上げた当時の様子は、推古女帝の下に聖徳太子摂政を行なっている政治体制です。馬子天皇の存在が明記されている国書は不比等にとって非常に都合が悪い存在であると考えられます。記録から抹殺するには、記録しないだけでは不十分と言うか不自然と考え、そもそも日本に到着しない事にしてしまったと考えます。

そのために小野妹子が紛失した事にし、さらに紛失したから処罰として流刑にした事にし、さらに隋の使者と再び同行していますから、恩赦で超特急で復帰させるなんて事をしたんじゃないかと推理します。


エピローグ

全体に不比等に対して批判的な感じがするかもしれませんが、今日の仮説が真実であれば不比等の功績は多大です。発端が持統−文武ラインの成立であり、これが子どもや孫が可愛かった持統天皇の願望と、それの成立に尽くす事による藤原一族の繁栄のためであったとしてもです。

日本書紀は一種のプロパガンダ書ですが、ここで確立した万世一系理論は天皇家を今日まで存続させる原動力になったと思います。万世一系理論により天皇は何があっても別格とのプロパンガンダが浸透したお蔭で、その後のいかなる政争、戦乱があっても天皇家は連綿と続いています。いかなる権力者がその後に現れようとも、誰も天皇位に就こうとか、天皇家を潰そうなどとは思いもしなかったからです。

日本人の深層意識の中に天皇は人間と言うより、どちらかと言えば神に近い存在であると無意識のうちに根付いてしまったせいとも考えています。天皇位が単に日本の最高権力者であるというのだけなら、とうの昔に滅亡したと考えます。それを最高権力者であるだけでなく、間違い無く神の一族の後裔であるとし、それの理論書として日本書紀があるとすればよいでしょうか。

言ってみればローマ法王古代ローマ皇帝を合わせたような存在にし、さらにそれが万世一系世襲であるとしたのが不比等と考えています。もっとも皇帝的権力は平安期に入ると失われましたが、神聖権威はしっかりと受け継いでいかれたと考えています。少し穿つと、不比等にとっては天皇の神聖権威は必要でしたが、権力は藤原一門が握らないと意味がありません。

自然にそうなったのか、不比等の意思があったのかは不明ですが、地上のあらゆる権力を独占するような藤原氏全盛の時代が訪れますが、あそこまで権力を握っていた藤原氏も直接には天皇にはなっていません。まわりくどい方法を使って天皇の非常に近い親戚である以上には決してなっていません。これも世界史的には非常に珍しい形態であるとして良いかと思います。

これも不比等の計算のうちなら稀代どころではない大政治家であった事になります。



かんりぶっ飛んだ仮説でしたが、お楽しみ頂けたでしょうか。では皆様、よいお年を。