国民的議論って?

「国民的議論」でググった結果ですが、

画像で読み取れるタイトルから拾っただけで、
  1. 臓器移植法改正案
  2. 裁判員制度
  3. 農政改革
  4. 移民問題
  5. 亡国予算
  6. 原発
これだけ国民的議論が必要となっています。画面からのキャプチャーの関係で切れましたが、太陽光発電にも国民的議論が必要とされています。個人的な感想として、最近になり国民的議論が必要と主張する意見は非常に増えている様な気がします。そこまで必要であるとするという意見が溢れている国民的議論とは一体何かが非常に気になります。

「何か」とは、国民的議論とは具体的にどういう議論であるかと言うこと、またその議論を行なうために具体的にどういう手続き、どういう意見集約が必要かと言うことです。これだけ頻発されているのですから、それぐらいはハッキリしていないと嘘でしょう。国民的議論が必要と主張されるのなら、それが出来るような具体論も提示しないと虚しいフレーズになってしまいます。ところがこれが実にハッキリしません。

国民的議論を字義通りに解釈すると、国民全員で意見を出し合って議論して合意を得るという感じがしますが、そんなものは絶対に不可能です。日本には1億人3000万人弱の国民がいます。このうち成人だけでも1億人近くいるかと思われます。日本の国土は広くありませんが、それでもそれだけの人間が一堂に会することは絶対に無理です。

そもそも1億人が1人ずつ意見を述べただけで膨大な時間が必要です。1人の持ち時間を1分としても、1億分は必要で、167万時間、6万9444日、190年必要です。議論とは反論もあることですから、物理的に不可能としてよいでしょう。全員参加の国民的議論なら、他人の意見もちゃんと聞かないといけませんし、聞いているうちに寿命も尽きます。孫子の代まで聞いても無理ですし、さらに毎年新しい国民は増えます。

日本は民主主義国家ですが、全員参加の直接民主主義は不可能なため、間接民主主義を取っています。つまり選挙で選んだ代議員が国民の代表として議論を行い、これを国民の意志とする手法です。建前と言うか、制度として、国民が選挙で選んだ議員による議論が国民的議論になるはずです。ところが国会議員自らが「国民的議論が必要」と唱えるケースは珍しくもありませんから、国会論議は国民的議論に当たらないと考えても良さそうです。

政治家の用いる国民的議論としては、これも良くあるパターンですが、有識者会議なるものを創設し、これでの会議と、時に公聴会を組み合わせて国民的議論とすることがあります。これをもって国民的議論かと言われれば、思いっきり違和感が生じます。経済諮問会議や、財政審議会で行なっている事が国民的論議であると言われたら、石を投げる人が多いと考えています。

ではでは、世論かと言う事になります。世論はニア・イコールの感じもしますが、それではイコールかと言われれば、ちょっと違うように感じます。国民的議論が使われるときには、しばしば「世論調査では反対も多く、国民的議論を行い、理解を得る努力が必要」なんて感じで使われる事があります。だいたい「世論 = 国民的議論」であるならば、ある意味暴論ですが、消費税どころか所得税も無料にせよが世論となり国民的議論になってしまいます。

それではマスコミが集めた「国民の声」が国民的議論なんでしょうか。マスコミの手法として、編集室なりで決めた結論に沿って「国民の声」を集め、そこに有識者のもっともらしい見解をつけて提示します。ありふれた世論誘導ですが、これをもって国民的議論と言うのでしょうか。これにウンと言う人間は急速に減りつつあります。


どうも私の知る限りの方法では国民的議論なるものは成立しないような気がします。そこで見方を変えて、この国民的議論なるフレーズが使われるシチュエーションを考えてみます。これが実に多種多様な使われ方をしていて、一つに類型化することは難しいものなのですが、あくまでも私の印象として挙げてみます。

  1. とある問題があって、結論に対して意見が割れるときがあります。割れても多数派意見はあり、多数決ならその意見になりそうな時に、このフレーズが少数派から多用される事が多い気がします。会議室では少数派だが、もっとたくさんの人間、突き詰めれば国民全体の意見であれば「オレの意見が本当は多数派である」みたいな感じでしょうか。


  2. またある問題について、問題提起をしたものの、反響が乏しい時にも多用される気もしています。正しい意見のはずなので、もっと多数の人間、これも突き詰めれば国民全体に関心を持ってもらいさえすれば、多くの支持をもらえるはずだみたいな感じでしょうか。
上記した2つの用法は考え方としては間違っていません。世の中、そんな事は決して少ないとは言えないからです。さらに言えば、この時の国民的議論は具体策が見えています。1.なら会議室以外の意見を会議室内に反映させるように努力する事であり、2.であれば自分が正しいと考える意見の賛同を広く集める努力になります。

間違っていないとは思うのですが、使ったときの状態が問題です。国民的議論を口にしても、目指すべき方向性に努力するなら文句は無いのですが、口にするだけで何もしないと言うか、口にした瞬間に終止符になる印象が私にはあります。なぜかと言うと、次の類型を考えて欲しいのですが、

  1. とある問題に対して反対意見だが支持が得られず、反対意見が多いのを承知で、サイレント・マジョリティは支持しているとの強がりで国民的議論を〆のフレーズにして逃げる。
  2. 問題への評論がグダグダになり、後の議論は丸投げするために国民的議論で逃げる。
3.と4.の場合は、幻の国民的議論に責任をすべて押し付けているスタイルです。実態として具体的に存在しない国民的議論ですから、当然ですが口にしただけでは何も起こりません。何も起こらないが故に責任や結果を押し付けても問題は生じません。一種の遁辞と言うか、逃げ口上みたいなもので、新聞の社説あたりでよく見られる用法です。

個人的な感触として、何となく格好のよい〆言葉として使われる傾向が強くなってきていると思っています。つまり国民的議論のフレーズが出てきたらこの議論は終わりとか、棚上げみたいな使われ方です。何が本来かはわからなくなってしまいそうですが、当初はもっと前向きなフレーズであったものが、語感のよさから、くだらない意見の飾り付けに用いられてしまい、堕落したのではないかと考えています。

おっと言い過ぎた、まだ国民的議論は、このワン・フレーズでなんとなく人を納得させる魔力は残ってます。いつまで持つかは分かりませんけどね。


国民的議論はリアル社会では物理的に不可能なことは上述しましたが、国民的議論の考え方の一つとして「世間様」と言う考え方があります。世間様とは曖昧な言葉ですが、「世間様 = 世論」とも少し違います。世論のさらにベースとなるある種の社会規範とか、良識みたいなものと考えています。世間様は、かつては確実に存在していました。ある一定のコミュニティの中では全員の意見を聞き知ることは可能です。さらに類似の問題について長い年数、同様のメンバーで議論を重ねてきたため、どんな問題でもある水準まで議論済みです。

新たな問題であっても、ほとんどは過去の議論済みの解答例への応用問題になり、よほど新奇な問題であって初めて議論が沸騰する事になります。沸騰すると言っても議論済みの規範があり、その上でコミュニティの規範を乱さないという大前提の上での議論です。かつての世間様とはこんな存在であったかと思っています。

この世間様の存在は薄れてはきています。地域コミュニティの維持が難しくなってしまったからです。その代わりにネット・コミュニティが異常に発達してきています。ネットの本質の一つは超巨大な井戸端会議ですから、可能性としてかつての世間様の役割を代行する可能性を秘めているとも言えます。もちろん現段階では秘めているというだけで、かつての世間様の役割を果たしているわけではありません。

それでも短時間で非常に多くの人間が広範囲(地理的な意味でも、多様性の意味でも)で意見交換可能で、リアルタイムで一つの世論を形成する場としては無限の可能性を有しており、現在では実態の無い国民的議論なるものが出来るとしたら、ネットだけしか可能性はないかもしれません。どうなるかは時代が証明してくれると考えていますが、それが良い時代になるのか、悪い時代になるのかは全く別の議論ですけどね。