安全・安心

医療危機の根本とは何かの議論は果てしなく続いています。新研修医制度に目が向けられた事もあります、医療訴訟も重大な原因です、医療費削減政策も大きな影を落としています、そもそも医師が足りないも当然の事です。これらの事は徹底的に論じられました。しかしそれでも決定打ではありません。これらの事のどれかを解消しても危機は解消しませんし、全部に対応しても危機は続くと考えます。解消しないのなら放置しても良いというわけではなく、解消するのは絶対の必要条件であって、十分条件足り得ないのが医療危機の根の深さです。

では十分条件とは何かになりますが、これがすこぶる付きの超難題です。未だにこれを見つけたものはいないとまで考えています。もちろん私もそうで、なんとなくこれが十分条件で無いかとおぼろげに感じている程度です。その一つが事故調試案のこの文言に表されていると考えます。

    患者は、医療が安全・安心であることに加えて、「納得」のいくものであることを望んでおり、そのためには、医療従事者は十分な説明を行う必要がある。
患者サイドの最近の見解からすれば常識的な事が書かれています。医療サイドもそうありたいと願う言葉ではあります。医師にとってこの文言は、願いとか、理想とか、精神です。いつかそういう医療が出来れば良いと、その目標に向かって邁進するという位置付けです。しかし患者サイドというか、国民サイドからは責務として要求されていると感じています。つまりこの文言に書かれている内容をそのまま実行することを義務付けられているということです。

「医療が安全・安心」である事は誰でもそうであって欲しいですが、病気や治療の種類によっては最初から「いちかばちか」状態の時はいくらでもあります。安全・安心の言葉の裏返しは、絶対にミス無く、必ず成功する事を要求されている事になります。さらに言えば、いかなる状況に置いても、いかなる経過であっても結果として不成功に終われば「安全・安心」の基本要求の前に反する事になります。

残念ながらそれが出来るほど医療は進歩していません。「安全・安心」を責務として要求されることは、明日から交通事故をゼロにすとか、犯罪発生をゼロにするほどの難事と考えています。医師は医療バカでもありますから、この要求の実現に努力を重ねてきましたが、医師も医療バカではありますが根っからのバカではありませんから、この要求の無謀さに気が付き始めたと考えます。努力程度で何とかなるものではないという事の発見です。

私も医学生の頃に防衛医療や萎縮医療は医師として行なってはならないと教えられました。研修医になってもそうです。また当時は「安全・安心」の要求程度は今より低く、防衛医療や萎縮医療をしようとも考えませんでした。しかし安全・安心の要求が高まれば、まず防衛医療が無意識のうちに行なわれます。この辺りのニュアンスが微妙なんですが、確率的に価値は低い検査と考えても、「念のためにしておこう」の範囲が広がっていきます。確率は低いとは言え、「安全・安心」が基本要求ですから、確率が低くとも運悪く的中すれば大変です。

非常に微妙なところですが、従来の常識でカバーする範囲より、もうちょっと手を広げてカバーしておこうという考えです。この「もうちょっと」が年とともに拡がっています。従来ならばそこまですれば防衛医療とされていたものへの歯止めが弱体化しています。「安心・安全」に近づけるためにはせざるをえないとの考えです。

それでも防衛医療の範囲を広げる程度なら実害はまだ少なかったと思います。せいぜい過剰検査批判が出る程度でしたが、「安全・安心」の高まりはさらに医療サイドに圧し掛かります。手を出す事、治療する事自体が「安全・安心」に反する事態がある事に気がついたのです。そもそも「安心・安全」な医療を提供できる状態でない患者への治療の回避です。

現在の医療技術では、「安心・安全」な医療をなんとか、それなりに提供できる範囲は限定されます。厳密に言えばその範囲であっても「安心・安全」の医療ではありません。それでも高い確率で「安心・安全」であろうと考える範囲はあります。そこまでは手を出しても、そこから外れるものには回避したいの思いです。

その「安心・安全」の範囲については各医師により差はあります。差はありますが、「安全・安心」の要求が高まれば範囲は益々狭まります。「安全・安心」の要求の高まりと、それに対応する医療技術の進歩とでは、速度が相当異なります。医療技術の進歩の方が遅く、時に技術の進歩は「安全・安心」と反する事さえあります。

医療に要求どころか明文化され義務されようとしている「安心・安全」ですが、この視点で診療関連死の定義を見直してみます。

  • 誤った医療を行ったことが明らかであり、その行った医療に起因して、患者が死亡した事案

  • 誤った医療を行ったことは明らかではないが、行った医療に起因して、患者が死亡した事案

診療関連死の定義の前提は、「誤った医療」を行なった時であり、「正しい医療」をしていれば診療関連死にならないのですが、「正しい医療」の前提が「安心・安全」の医療という事になります。そうなると「安心・安全」の言葉通りで、安心できて安全な治療であるにも関わらず死亡したものは診療関連死という事につながる可能性が十分にあります。

医師は医療で安心できて安全が保証できるものは存在しない事は熟知しています。「安心・安全」の医療が「正しい治療」であり、それ以外が「誤った医療」とされるなら、医師は「安全・安心」の医療しか行なわなくなります。完全には「安心・安全」でなくとも自分の判断でその範疇に属する医療のみを行なう事になります。つまりそれ以外は行わなくなるという事です。

これも事故調の診療関連死の定義にあるにある事例ですが、

  • 重度の先天性心疾患を持つ新生児に対して、死亡率の高い手術を実施した直後に、児が死亡した場合(※ 手術しなければ数週間以内に死亡するような場合)


  • 交通事故による多発外傷(瀕死の重傷)で救急外来受診後に死亡した場合
事故調ではこういう場合は「どう考えるか」と平和に論じていますが、「どう考えるか」も何もありません。こんなケースで「安心・安全」な治療など存在しません。治療を行なうから「安心・安全」な医療に反する「誤った医療」と定義されますから、すなわち医療自体を行なわないです。医療を行なうから「正しい」か「誤っている」を「安心・安全」の前提の下に判定されますから、医療が存在しなければ判定自体が消滅します。

とは言うものの医師には応召義務がありますから、その場に居合わせて手を拱いているだけで責任を問われます。ではどうするか、そういう医療現場に居ないことが医師にとって「安心・安全」への最良の選択になります。

「安心・安全」の医療は事故調が定義するまでもなく、既に医療現場に目に見えない重圧として圧し掛かっています。その結果として、そういう医療現場から真っ先に医師は逃げ出しています。これを大義名分として明文化し処分する機関が誕生すればどうなるか。その結果が及ぼすものは医師から見れば余りにも明白です。

そういう機関がもうすぐ出来ます。