意識は進む

奈良の事件はとりあえず一段落です。それでもお蔭で個人情報保護法がどんなものか、そこでブロガーはどんな位置付けになるのかよく勉強させてもらいました。ブロガーも個人情報保護法では報道機関にも位置づけられますし、著述業にも位置付けられます。公序良俗に反しない限り、言論の自由の下、自分の考え、主張を他の報道機関や評論家、ジャーナリストと同様に発信できる事が確認できたのは大きな収穫です。

医師はたしかに個人情報はもちろんですが、それよりも重い医療情報の秘匿が義務づけられています。ただしこれは自分が業務で知り得た事であり、ネットでブロガーやコメンターとして書いている限り、ネット上の情報は自由に利用、引用が可能であり、それについての分析論評は誰にも縛られ無いと言う事です。この告訴報道はネット医師の言論の封殺ではないかの声が一部にあり、私も漠然と不安を抱いていましたが、結論としては今までと何も変わらないことが再確認できました。

そういう訳で今日のお題です。もう1ヶ月ほど前からエントリーへの反応に非常に違和感を抱いています。簡単に言うと非常に反応が渋くなっているのです。もちろんエントリーに出来不出来はありますし、あくまでも私が興味関心を抱いたものを書くのがブログですから、私が「おもしろい」と感じた話を読む人間が必ずしも「おもしろい」と感じない事を差し引いてもです。

これについては当初、私の意識感覚がネット医師の大勢からずれたのではないかと考え、私なりにあれこれと話題を散らして方向性を探りましたが、どうもこれといったものがつかめず、どうも違う様だの結論としました。これだけ探しても無いのなら、これは私がずれたのではなく、ネット医師の意識が拡散して一点に集まるような状態でなくなったと考えたのです。

意識拡散説でしばらく自分を納得させていましたが、どうしても違和感がそれでも残ります。拡散とは散らばる事ですが、どうも面として拡散しているのではなく、線として拡散していると考えた方が正しいのではないかと言う事です。意識は確かにある程度分散していますが、これは医療危機に問題意識を持ち始めてからの単なる時間差であり、誰もがほぼ同じ思考を経て意識段階を進ませているだけだと言う考えです。さらにこの意識段階の進み方は遅れて参加したものほど早く、去年の福島事件から問題意識を持っていた者が進んだ時より数倍の速度のような気がします。

意識段階のステップのモデルには末期癌患者の古典的な死への受容の五段階説がマッチしているような気がします。現実には必ずしもこうならないケースが無数にありますが、今日は末期癌患者の話ではなくネット医師の意識段階のお話ですから、段階説への医学的論議はご容赦ください。これを医療危機に問題意識を持った医師の意識段階にあてはめて考えれば、


段階
末期癌の段階説
医療崩壊への意識
第一段階
否認
医療崩壊の存在自体の否定
第二段階
怒り
トンデモ医療訴訟やお手盛り医療改革への怒り
第三段階
取引
こうすれば医療崩壊を防げるの提案の摸索
第四段階
抑鬱
何をしても無駄だのあきらめ
第五段階
受容
生温かく滅びを見つめる涅槃の境地

初期の崩壊論議は第一段階論者と第二段階論者が主役でした。第一段階は当初より少数派ではありましたが、それでも去年の今頃にはまだまだ第一段階の精神論者が結構幅を利かせていました。やがて第二段階論者と第三段階論者が主役を占めていた時代が長く続き、奈良事件の頃が一つのピークであったように思います。それが去年の終わり頃から第四段階論者が勢力を増し、最近では第四段階すら越えた第五段階が勢力を急速に増していると考えます。

この過程は当初からネットの議論に参加した者は一年かけて段階を登っていますが、後から参加するほどステップアップが早いと感じます。もちろん問題意識をもつ人間の参加は、医師以外も含めて時間とともに加速度的に増えていますから、現時点でも第一段階から第五段階まで幅広く意識の分散は見られますが、大勢は第四段階ではないかと思っています。

第四段階となると少々の出来事には反応しなくなります。加古川クラスの事件ではもう驚かない感性です。カルテ流出告訴報道でも「もう勝手にしろ」です。何を言っても無駄、何をしてももうどうにもならない抑鬱気分ですから、第二段階や第三段階の人間がいくら騒いでも「今さら何を」と冷ややかに見つめている状態と考えています。2月ぐらいに焼野原待望論についての議論がありましたが、意識が第四段階に至ると待望論とかなんとかではなく、太陽が西に沈むのと同じぐらいの常識であり、常識であるからそれについての議論さえ虚しい心境と考えます。

つまり熱くなる時期がネット医師世論では急速に終わりつつあると見ます。第五段階にまで行けば、冷ややかなりにまた反応が出るのでしょうが、第四段階が反応では最悪で、笛を吹いても躍らないどころか、聞こうともしなくなっていると思います。あくまでもこれは私の見方ですから異論はタンマリあるでしょうが、そう考えると最近のエントリーへの反応の変化がよく理解できますし説明もつきます。ここまで意識が変わったかと一種の感慨があります。

そう考えた上でどうしたら良いのか私は悩んでいます。迷っていると言っても良いかもしれません。前にも同じように悩んだ時に、それでも基本はメディア・リテラリシーだと考え直しましたが、今回もそれでよいのでしょうか。他にもっと違う道があるのでしょうか。また第五段階を越えた第六段階があるのでしょうか。

しばらく試行錯誤が続きそうです。