懐かしい話題をもう一度

長い読者なら覚えているかもしれませんが、かつて下記の様な医療崩壊に対する医師の受容段階を書いた事があります。


段階
末期癌の段階説
医療崩壊への意識
第一段階
否認
医療崩壊の存在自体の否定
第二段階
怒り
トンデモ医療訴訟やお手盛り医療改革への怒り
第三段階
取引
こうすれば医療崩壊を防げるの提案の摸索
第四段階
抑鬱
何をしても無駄だのあきらめ
第五段階
受容
生温かく滅びを見つめる涅槃の境地


改めて見たら本当に懐かしい感じがします。こんなものを久しぶりに引っ張り出したのは、Dr.Pooh様の医療破壊と言うエントリーを読ませて頂いたからです。私の5段階説はあくまでも医師に対するものでしたが、Dr.Pooh様はこれを世論と言うか国民の意識として比喩されたところに感銘を受けました。言われてみれば医療崩壊に対する国民の受容でも合いそうに思えます。

そこでと言うほどではないのですが、国民の意識と言う観点からほんの少し改変して見ます。


段階
末期癌の段階説
医療崩壊への意識
第一段階
否認
医療崩壊の存在自体の否定
第二段階
怒り
弱体化した医療体制への怒り
第三段階
(取引)
こうすれば医療崩壊を防げるの提案の摸索
第四段階
抑鬱
(何をしても無駄だのあきらめ)
第五段階
(受容)
(生温かく滅びを見つめる涅槃の境地)


医師の受容段階を書いたときには現実に第四段階、第五段階に進んでいる状態だったので書きやすかったのですが、国民の意識となるとまだそこまで進んでいるとは思えず、第四・第五段階はこうなるかは全くわかりません。わかりませんと言うより、そうなってもらったら医師も患者も本当は困るのですが、あくまでも今日の時点では未定として括弧付きにしておきます。

思えば医師の5段階説を書いたときに国民の意識はどうだったかと言えば、失礼ながら第一段階にさえ達していなかったと感じています。つまりゼロ段階とも言える「無関心」じゃなかったかと思っています。医師も第一段階からステップアップして第五段階に到達していますが、一番論議が熱かった第二段階から第三段階の時代の国民の意識は階段さえ登っていなかったとしてもよいと考えています。

医師が口角に泡を飛ばして医療崩壊の危うさを絶叫している時に余りに反応がなかったので、医師の意識は急速に絶望に進み、半年ほどで第四から第五段階に進んでしまったのは記憶に新しいところです。これは別に国民が悪いとかの問題ではなく、どこの世界でも起こりうる現場と周囲のギャップの問題であるのと、ネット時代になり情報伝達が早くなりギャップを埋める間が非常に短くなったためと考えています。

しかし医療崩壊は現実のものであり、無関心であった人々にも現実の痛みとして襲いかかる事になります。現実の痛みとなれば嫌でも意識段階は登って行きます。最初に出てきたのは当然「否認」です。最初と言うか今でも否認派が主流です。政府や厚労省が長年定義していた「医師は足りている、偏在しているだけだ」の呪縛は今も濃厚に残っています。「足りている」は最近になってようやく政府も否定し始めましたが、それでも医師不足政策の根本は「足りている」からほとんど踏み出しません。

医師「確保」対策なるものが安倍元首相、福田前首相の下で行なわれ、何百億円も投入されましたが、根本は「足りている」です。つまり足りないところに「どこか」から医師を調達して「確保」するのが基本発想です。「どこか」から医師を調達すれば、当然ですが引き抜かれた「どこか」は医師不足になります。「どこか」は前提条件として「余っている」必要があるのですが、現実はどこも余っていません。「足りている」ぐらいがせいぜいで、余剰の医師を抱えているところなど皆無に近いという事です。

その証拠と言うほどのことはありませんが、安倍元首相の100億円も、福田前首相の160億円も、医師「確保」の成果として非常に乏しい実績を残しています。金額の問題も無いとは言えませんが、政策の根本が医療崩壊の「否認」である事がうまく行かなかった主因と考えています。麻生首相は概算要求段階で300億円以上の「確保」対策をたてているようですが、根本思想を改めない限り、いくら金を積んでも成果は乏しいと考えています。

マスコミも基本発想は第一段階の「否認」です。否認の認識の下に報道記事を攻撃的に組み立てます。つまり、

    足りているのに医師不足に起因する医療事故が発生するのは容認しない
医療報道も種々雑多ですから、一概に投網にかけてしまうような分類は好ましくないのですが、上記のキーワードをあてはめると読み解きやすくなるものは多数に及びます。「足りている医師が患者の要望に応えられないのは許されない」としてもよいかと思っています。現場の医師側の意識としては「足りていない」のは常識で、「足りていない」の前提の上で何とか患者側の要望を叶えるように務めようですから、ギャップはかなり大きく、とくにマスコミの影響力は強大ですから摩擦が生じていると考えられます。

ゼロ段階の「無関心」から第一段階の「否認」にまで進んでいた国民の意識ですが、ようやく第二段階の「怒り」に進んでいる者が出ているように感じています。マスコミによる「医師叩き」も否認意識のものと、怒り意識のものは微妙にニュアンスが異なると思っています。否認意識のものはひたすら個人責任を追及します。個人は語弊があるので、医師と病院に限定して叩きます。

怒り意識となると、もうちょっと視野が広がって、そういう貧弱な医療体制を放置した医療政策に向けられます。第二段階に達した人は医師不足を前提として認めている事になりますから、医師不足によって弱体化した医療体制を問題視すると言えばよいのでしょうか。もちろん第一段階、第二段階と言ってもクリアカットに意識が変わるわけではなく、否認の意識も引きずりながら怒りの意識も爆発される方も沢山おられるかと思っています。

マスコミ論調が国民の意識とは本当は言えないのですが、マスコミ論調に影響される方は沢山おられますし、マスコミ論調も風見鶏のように世論の動きに反応するところがありますから例にしてみます。福島大野事件の時は完全に否認意識一色で報道されていました。もっと前の割り箸事件や東京女子医大事件になるとゼロ段階だったかもしれません。

次の大事件である奈良大淀事件でも基本的に否認意識が濃厚だったと感じています。ただ福島から盛り上がってきていた医師ネット世論が微妙に影響し、一部に第二段階に転じかけている感じも出ていました。後も事件は幾つかあるのですが、先日の東京妊婦脳出血死亡報道になると、かなり第二段階の怒り意識が強くなっているんじゃないかと考えています。意識の混在はもちろんあるのですが、全体の流れからそう考えています。

では第三段階の「取り引き」まで進んでいるかといえばまだまだ疑問です。読売私案がそうでないかとの指摘もあるかもしれませんが、医療崩壊の受容における「取り引き」はロスの5段階説の「取り引き」と若干ニュアンスが異なるものと私は捉えています。どう違うかですが、ロスの5段階説の「取り引き」は無駄な取り引きです。死の恐怖を逃れるための足掻きとしてもよいかと思います。

一方で医療崩壊の受容の5段階説での「取り引き」はもっと建設的なものと考えています。定義と言っても私が個人的に考えているだけで、どこにも正式に認められているものではないのですが、違っていなければならないのです。国民の意識の5段階説で第四段階と第五段階の定義を保留していますが、第三段階の取り引きが「足掻き」であれば向う道筋は破滅です。

破滅しかないとの悲観的な観測も強いですが、それでは希望がなさ過ぎます。ですから国民の意識の第三段階は「取り引き」ではなく「真摯な提案」であって欲しいとひたすら願うのです。第三段階が「真摯な提案」であれば第四段階、第五段階の展開は当然変ってきます。いや変って欲しいと強く願っています。そういう観点から言うと読売私案は怒り意識、下手すると否認意識の産物に過ぎなくなりますし、事故調法案もまた同様と考えています。

第二段階にようやくさしかかった国民の意識が、第三段階に至った時にどう変るかに注目しています。もし読売私案レベルが第一段階や第二段階ではなく第三段階の産物であるのなら、終着点は破滅しかないと考えています。


・・・と力んでみましたが強引に希望を紡ぐのはやっぱり無理があります。重複しますがオリジナルのロスの5段階説の「取り引き」は、あくまでも死の恐怖から逃れるための足掻きの「取り引き」です。あれこれと提案しますが、提案の本質として死を真正面から見ずに逃げ回るという意味なき取り引きになります。

医師の医療崩壊受容段階での取り引きはまだ「真摯な提案」の部分はあったんじゃないかと自画自賛はしています。あくまでも自画自賛であって本質の判断はなんとも言えませんが、国民の意識の医療崩壊受容段階はよりオリジナルのロスの5段階説に近い気がします。読売私案もそうですし、無過失補償制度、事故調法案もオリジナルの5段階説の「取り引き」そのものと見なす事は十分可能です。可能と言うよりそう見る方が自然です。

そうなると国民の意識は第三段階の「取り引き」の後、オリジナルに近い形で第四段階、第五段階と進むと考えるのが妥当です。医療政策は言うまでもなく国策であって、国策は基本的に世論の同意があって推進される側面があります。医療政策が崩壊から再生に向うためにはやはり第五段階を迎える必要がありそうです。第五段階の「受容」に至らないと現実的な提案や、それに基づいた地道な再生路線に提案が進まないと考えられます。

医療崩壊とはなんぞやの定義問題にも議論はありますし、焼野原とはなんぞやの議論もありますが、一つの条件として国民の医療崩壊への意識が第五段階に至ることなのかもしれません。それがいつの日なのかは今日の時点では予測が難しそうです。