ブログ始め

新年明けましておめでとうございます。旧年中は皆様の温かい御支援により、このブログも潰れずに生き残りましたが、今年の当ブログの目標は


続ける
おもしろくも可笑しくもありませんが、ブログなんてそんなものです。どこまで続くか分かりませんが、日々精進を重ねてブログを綴って行きたいと思っています。

去年を振り返ると当ブログの医療崩壊路線が変わらなかったように、医療崩壊は着実に進行した一年でした。医療崩壊が停止・再生に向かっていれば、ほぼ年がら年中、同じようなネタで続くわけも無く、豊富なネタが常に供給された確実な裏付けになると考えます。今年はネタ切れで当ブログの路線が否応なしに転換される事を願いますが、これは夢と言うより妄想としか考えられないのが新年のまず感想です。

医療崩壊も当初は医療の内部にいる人間の危機感で始まっています。このままの流れで医療が推移すれば現状の医療は到底支えきれないという意識です。この動きは源流を遡れば10年以上前から先覚者の間にはあったとは思いますが、一挙に広がったのは2006年の福島大野病院事件発生からだと考えます。それまで関心はあっても対岸の火事と思っていた医師も、まったく知識も関心もなかった医師にも短期間で危機感が広がりました。私もその1人です。

2006年当時の議論の焦点はそもそも医療危機、医療崩壊なるものが本当にあるかどうかから始まり、結論は速やかに「間違い無くある」に収束し、それも遠い危機ではなく眼前の危機であると言う認識に変化します。ネットの普及と医師とくに勤務医のネット比率の高さが情報の伝達に大きな影響をもたらしたのは間違いありません。それでも2006年当時の認識は

    表面化する前に未然に防げ
今から思えば可愛い認識で、当時は私も本気で「日本の医療を支えている医師の精神の崩壊を防げ」と書いていたことを白状しておきます。過去からの結果論ですが、あの時期に本格的な医療再建政策を行っていれば、今日の事態を招かなかったかもしれませんし、費用も非常に安価にすんだかと考えています。医療崩壊用語の一つに「PONR」がありますが、ポイントはここであったと私は考えますし、そう考える人は少なくありません。

しかし現場の悲鳴はネット内のさらにネット医師内に留まり、それ以外への広まりは微々たる物で、2006年のもう一つの大事件である奈良大淀病院事件を経ても殆んど変化が無かったかと考えています。簡単に言えば誰も何の手を打たず、行われた事は医療費削減だけであったという事です。

2007年になると危機感が先行していた医師の認識が抑鬱傾向になります。どれだけ悲鳴を上げても誰も聞いてくれないの絶望感です。医療政策は現場の末端医師では動かしようのないもので、当時改めて強く再認識されたのが、とくに勤務医の声はどこにも届けようがない事です。医師の団体としては日医がありますが、あそこは歴史的経緯から開業医のための団体であり、もう一つ言えば開業医でさえ日医にはほぼ関与できない特殊な組織形態を取っています。

私も開業医であり日医のA会員ではありますが、私が日医改革を志し、会長の座を狙おうと思えば少なくとも20年ぐらいは必要です。執行部に潜り込むのも同じぐらいの年月が必要な組織形態です。正直なところ、すぐにはどうしようもないと言う事です。

ましてや勤務医となります。そこで台頭したのはショック療法の必要性です。どうしようもない現実を国民に直視してもらい、国民の声として「医療をなんとかせよ」の声が出ないかぎりどうしようもないとの考えです。この考えは医療崩壊用語の「焼野原論」として今でも続き、基本的な考えの一つとして広い支持のあるものになっています。

そして2008年です。去年は新しい動きが漸く出てきました。医師ではなく国民サイドにです。出てきた理由は明快で、他人事ではなく、自分の身に降りかかる災難として医療危機がどうもありそうだの危機感がゆっくりですが広がり始めたと考えています。医師サイドから見れば「やっと」の感覚ですが、冷静に現実を考えると世の中はそんなものかもしれません。2006年に医療界の内部で感じられ始めた危機感が、2年経って現実のものになり、現実のものになった危機感にようやく慌てだすです。

ここで異論もあるかと思いますが、末期癌患者のロスの五段階説を応用した医療危機に対する国民意識の五段階説を再掲します。


段階
末期癌の段階説
医療崩壊への意識
第一段階
否認
医療崩壊の存在自体の否定
第二段階
怒り
弱体化した医療体制への怒り
第三段階
取引
こうすれば医療崩壊を防げるの姑息策の連発
第四段階
抑鬱
(何をしても無駄だのあきらめ)
第五段階
(受容)
(生温かく滅びを見つめる涅槃の境地)


このうち第四段階と第五段階は既に医師が辿った道筋ですが、国民意識では今後どうなるか分かりませんので括弧で括っています。去年に至りようやく危機意識を持ち始めた国民の反応の中心は第一段階の「否定」と第二段階の「怒り」が中心です。「否定」と「怒り」段階の人々は「医師の怠慢」を攻撃目標として活動されます。これについては沢山の意見が今でも渦巻いています。

昨年はこれに第三段階の「取引」が一部に現れ始めたのが特徴かと考えています。第三段階の「取引」は本質的に対策ではありません。「取引」は第二段階の「怒り」の上に展開されるものである事に注意して欲しいと考えます。第一段階の「否定」の人々は医療の弱体化自体を認識しませんが、第二段階の「怒り」では怒りながらも医療の弱体化の存在を認めています。ただ認め方が「もっと医師が働けばすべては解決する」に留まる点が特徴です。

第三段階の「取引」は医療の弱体化は「医師の怠慢」として叩くだけではどうも解決しそうにないから「ほんの少しだけ対策をしてやろう」への変化と理解すれば分かりやすくなります。言い換えれば弱体化の程度は「大した事はない」が基本ベースです。大した事がないものへの対策は小手先の姑息策になり、全体を見ずに局所のみの応急策に終始する事になります。

昨年の医療問題で中心になったのは救急問題です。とくに東京で2件続けて起こった周産期救急問題は、起こった場所が場所だけに蜂の巣を突付いたような騒ぎになりました。やはり奈良で起こるのと東京で起こるのではインパクトがこれだけ違うという事です。情報を知っている人間からすると、今まで東京で表面化しなかったのが不思議でならないのですが、東京でも隠しきれなくなったと素直に考えています。

インパクトの大きさは医療問題の対策を一挙に第三段階に引き上げる効果はあったと思っています。ただし所詮は第三段階であり、考え方は「取引」の範疇を出ません。問題の対策の基本は驚くほど狭い視野で考えられ、

    とにかく救急患者を病院に強制的でも押し込む
これの考え方の前提は
    押し込みさえすれば後は病院がなんとかする
少しでも冷静に物を考えられる人間なら、救急病院が足りないのが問題の根本である事に気がつくと思うのですが、その点については見事に無視されています。あんまり見事なので、批評するというよりあきれて物が言えなくなる心境になったものです。ただこういう発想が大手を振って認められる理由も考えておかなければなりません。

「取引」は「怒り」の延長線上にあるとしましたが、「怒り」の認識は医療は「だいたい足りている」です。さらに言えばもっと医師に鞭を揮えば余力は十分に汲みだせるはずだの認識もあります。そうなると発想される対策は

    いかに医師に対して厳しい鞭を振るうのが効果的か
この厳しい鞭が「押し込み理論」につながります。病院に患者を強制的に押し込むという鞭を振るえば、押し込まれた病院は死力を鞭に打たれながら汲み出して対応し、問題はすべて解決するというのが「効果的考え方」として帰着する寸法です。医療サイドから見れば鞭打たれて死者も出るんじゃ無いかと考えたりもしますが、鞭を振るう側に側にそんな痛みは感じませんし、ましてやそこから逃げ出すなんて事は頭の片隅にも無いかと存じます。


今年もしばらくはこの路線が展開すると予想します。この「取引」を支えるために必要とされるのは、この「取引」を正当化する「金のかからない意見」になります。意見を出すのはいわゆる「有識者」それも医師の有識者が望ましい事になります。医師以外にも登場するでしょうが、ここは手垢のついていない、あたかも良識のある第三者のような医師がもっともらしくて手頃です。そんな医師がいるかと言えば実は沢山おられます。有識者としてもてはやされる医師の条件は人を驚かす肩書きを持つ事が一つの条件かと考えます。手っ取り早く言えば「○○大学医学部教授」ぐらいが適当とかと考えます。

そういう人物は現場から既に遠い位置にあり、頭の中はその人物の「古き良き時代」しか残っていません。その人物だって現役時代は辛い経験、厳しい経験を積んだはずですが、人間は便利に出来ていましてて「辛い経験」「厳しい経験」は忘れ去られるか美化されて残るだけになり、「良き経験」が意識の中心になります。これは医師に限ったものではなく、ほぼすべての人間に当てはまる現象で「昔は良かった」現象として存在します。もう少し言えば「今どきの若い者は・・・」的な発言を繰り返す方々です。

そういう人物には立派な肩書きがついています。教授の権威は昔とは異なってきたと言っても、人は「○○大学教授」の肩書きを見れば素直に尊敬します。ましてや自分の職業分野でなく他の分野であれば「さぞや正論であろう」とひれ伏す寸法です。そういう人材は医療界でも事欠きません。

ここから先はチト生臭いですが、時の為政者がそういう発言を求めた時にそれに適切な回答を行なう有識者や専門家は珍重されます。珍重されるというのは、この手の人物メリットがあるからです。実利的には研究資金の調達が容易になりますし、教授退官後の天下り先の確保にもつながります。さらにそれ以外には名誉としてとして、御用会議に名を連ねたり、マスコミに「権威」としてもてはやされたり、芸能番組の人気者になるのもありえます。本だって売れるかもしれませんし、さらには勲章なんていうものの取得にも有利に働く事も夢ではありません。

こういう有識者の座は目に見える定数はなくとも決まっています。私に見る限りまだ定数には空きがあるようですし、これと言った人物まだは出ていないのでレギュラーの座は流動的かと考えられます。しばらくは医療界で主流になると考えられる「取引」の姑息策を裏打ちする

これのスターの座を巡る華々しい争いが展開されるんじゃないでしょうか。スターの座を握れば美味しい事限りありません。

もちろんこれに与しない医師有識者もおられます。ただそういう方々はアッサリ無視される事になります。下手に取り上げて予定調和を乱されたら困りますし、マスコミだって編集権があるにしても、そんな余計な手間の不用な人物の方が歓迎されます。たとえ発言しようとしてもその声を大きくする装置は絶対に与えられない事になります。

ただ今回の「プロ医師有識者業」がどれほど続くかは他人事ですが不安を感じています。現実は第三段階の「取引」を悠長に続けていくほど余裕はありません。これまでの情報から考えて年内の早い時期に破綻してもおかしくありません。どんなに言葉で繕っても現実の前では無力な事は、先の大戦で天才ゲッペルスをもってしても不可能であった事で証明されています。それでもこの手のディスポのような「プロ医師有識者業」は一年もスポットライトを浴びれば必要にして十分ですし、半年でも、3ヶ月でも当人は有頂天になれるので宜しいかと思います。

「取引」による姑息策は当面のところ、もし破綻してもさらなる姑息策で取り繕っていくかとは考えています。もちろんそれに対する「プロの有識者業」の有り難い賛成意見付でです。ただ姑息策は無限に続けられるわけではありませんから、どこかで補修不能の大破綻を起こす事になります。連発される姑息策は今年を支え続けるのか、それとも早い内に大崩壊を起すのかが今年の焦点でしょう。


それともう一つ関心があるのが、第三段階をもし越えたら、それは「抑鬱」になるのかどうかです。これも興味深い観察で、為政者にとっても国民意識が「抑鬱」さらには「受容」になってくれれば、見ようによっては申し分のない展開となります。そうなってくれれば、医療費削減は誰の気がね無く大鉈を振るえますし、反対意見や異論も登場しなくなります。そこまで読んで為政者が医療政策を決めているのであれば、これはまさに大狸となります。これも早ければ今年中に見られるかもと新年の期待にしておきます。