新春雑感

昨日は日曜閑話の予定でしたが、正月気分のせいか朝から取り掛かってついに仕上がらず、休載になってしまいました。こんな時もタマにはあるという事でお目こぼし頂きたいところです。そういう訳でもありませんが、今日もまた苦しんでいます。休載にしたいのはヤマヤマですが、他愛ない話で埋めておきます。

ここ10年ばかりで驚異的に普及した情報通信機器に携帯電話があります。私は電話自体が大嫌いなのでアレですが、物凄い普及ぶりにただただ驚くばかりです。もうすぐと言うか現実的に1人に1台に確実に近づいています。教育委員会が定番のように小中学生の携帯禁止を打ち出していますが、これが大した効果を及ぼさないのもいつもの事でしょう。教育上の良し悪しの論議は別にして、現代人の必需品に確実になっています。

携帯の普及は文化とまで言わなくとも日本の風景をかなり変えました。大袈裟に言えば携帯前と携帯後では世界が異なると言ってもよいと思います。細かい事を言えば待ち合わせが完全に様変わりしました。かつての待ち合わせには悲喜劇がありました。ぶっちゃけた話「待ちぼうけ」です。個人的には5時間なんてトンデモ記録を持っていますが、そこまでは待ちすぎとしても1〜2時間程度の経験は携帯前の世代なら誰しも持っているかと思います。

待ちぼうけは正直なところ辛く切ないもので、相当後になってから「ほろ苦い思い出」として熟成され、青春時代の懐旧談のタネになりますが、無くなっても困るものではないから良いかもしれません。そんな話が出来る携帯前の世代が共有できる特権ぐらいに思っておきましょう。

他には恋人ないし好きな人の家に電話をかけるドキドキと言うのがあります。携帯前の時代の電話は固定電話だけですから、誰が取るかは運次第で、怖そうなお父さんとかが出ると完全に舞い上がったものです。携帯前の世代で有名なエピソードとしては、電話で告白しようと極度に緊張し、出てきた母親に告白したなんて話が流布していました。経験談なのか、ネタのなのかは今となっては分かりませんが、「ありえる話」と無邪気に信じてはいました。

ドラマで電話はいつの時代でも重要な小道具ですが、携帯前、さらにコードレスフォン普及寸前に流行したのがロングコードです。「なんじゃそりゃ?」と言われそうですが、電話機のコードを長いものに変更して、部屋の中を持ち歩きながら電話できるという形式です。冗談みたいに思われるかもしれませんが、数年ぐらいはそういう時代はありました。コードレスフォンも初期は高かったですからね。


文化と言うか風景は小さな事ですが、携帯後に確実に変わったものがあります。家計への電話代の負担です。電話代も詳しくはないのですが、1台につき1万円ぐらいの維持費は必要だそうです。夫婦で持てば2万円、子供も持てば3万円、4万円に跳ね上がります。毎月の事ですから小さくない負担です。小さくないのですが、家庭でも個人でも必需品としての優先順位は非常に高いですから、それだけの支払いを行ないます。

ただ携帯維持費のために削られる分野が出てきます。有名なのはCDだそうで、携帯普及とともに売り上げは確実に減少しているそうです。CDを買っていた予算が携帯維持費に費やされているからだと言われています。クルマの購入にも影響が出ているそうです。携帯前の若者は節約の限りを行なって、なんとかクルマを持とうとしていました。ところが必需品として携帯が先に確保されると、クルマの購入費用も維持費も捻出できなくなったと言う事のようです。

他にも若者だけでない小遣い文化の一部が携帯維持費のために衰退したとも言われています。その分、携帯で新しい文化が出来ていると言われればそれまでですが、必需品としての携帯維持費の影響は相当な大きさのようです。携帯はただの電話ではなく情報機器でもあります。PCによるネットと同等とはいきませんが、代用品ぐらいの価値は十分あります。そのため携帯維持費のために携帯で代用できる分野は節約のために代用してしまおうと考えます。

昨年末に地味に報道されたニュースに新聞社の赤字が報じられました。赤字の原因は不況による広告費の減少と、購読部数の落ち込みとされています。とくに深刻と考えるのは購読部数の落ち込みと考えます。これについてはネットの情報の質と新聞の情報の質の問題と考える人もいますが、どうやらそうではないようです。そういう理由で新聞購読をやめた人もおられますが、その数は統計に影響するほどでないと思われます。

理由は情報源としての新聞は携帯で代用できると考える人が増えた事のようです。新聞購読は携帯維持より必需度で上に来なくなり、携帯維持費の捻出の対象に位置付けられているという事です。もちろん携帯で得られる情報と、新聞で得られる情報では新聞の方が基本的に上でしょうが、そこまでの情報を日常生活で必要としない人間が少なくないという事です。携帯で不十分と感じた情報はテレビやネットで補足すれば十分と見なされつつあるという事です。

これは日本だけではなく世界中である程度起こっている現象とされます。日本以外では携帯の代わりにネットと言うところもあるようですが、いずれにしても購読情報源としての新聞の地位は目に見えて地盤沈下を起しています。むしろ日本が「緩やか」であったと言う方が正しいかもしれません。新聞は家庭の必需品の順位を大きく下げられ、携帯の維持費と言う経済的理由の前にジリ貧状態になっていると思います。

ビックリするような変化ですが、これは構造不況と言ってもよいかと思います。新聞は経営改善のために質の向上を掲げていますが、新聞離れは質の問題が本質ではなく、家庭内の経済問題に起因しているという事です。少数の聞き取りによる意見ですが、新聞最大のメリットがテレビ欄と折り込みチラシでは先行きが暗いと直感的に感じます。

携帯電話の普及により消え去った風景は幾つもありますが、新聞を読むという風景も消え去っていくのでしょうか。そんな事も目に見えて分かってくる1年になるかもしれません。絶対になくならないと思っていた風景も、時代の流れの前に短期間でなくなる経験は沢山しましたから、新聞がそうなっても、その時には誰も何も感じないかもしれません。ただ新聞を知っている世代のみが、後になって新聞時代を懐かしむネタにするのでしょう。