東大リンデロン事件

医畜日記・楽屋篇を書かれているakagama先生のエントリーで気になっていたのが東大リンデロン事件です。2回に分けて書かれていまして、

akagama先生らしくないといえば失礼ですがシリアスな力作です。これだけでも十分な内容ですが、補足情報も絡めて見てみたいと思います。事件の発端はakagama先生によると、

 ある夫妻が、アメリカに渡米して、人工授精(IVF)にて、三つ子を妊娠して帰国しました。

 なぜ、アメリカで治療をうけたかというと、実は、夫人は、気管支喘息を持病として持っていたこと、四十五歳と高齢であったところから、日本では、治療を引き受ける先生がみつからなかったからのようです。

事件は1995年の事で、高齢(45歳)のうえ気管支喘息を持病として持たれていた夫人が、日本では不妊治療を断られ、アメリカで人工授精を行い三つ子を妊娠した事に始まるようです。帰国後の治療を東大病院で入院治療されていたようですが、出産に備え、胎児の成熟を促すためにリンデロン(ステロイド)を投与したところショック症状が起こり、治療の甲斐なく胎児は死亡し、夫人も意識が戻らないまま2000年に死亡されたと言う痛ましい事故です。亡くなられた夫人及び三つ子の胎児の御冥福を謹んでお祈りします。

事件は遺族をこれを医療ミスとして民事訴訟に及んだ事で大きくなります。この事件は大きく報道されたようで、当時の記事を探索された方がおられるので、まずはタイトルを御紹介します。

  • 妊婦にステロイド剤投与で三つ子の胎児死亡 副作用で植物状態に−−東大病院

    1996.02.04 毎日 大阪朝刊 1頁 1面 (全1,135字)
  • 東大病院、ステロイド剤を「適応外使用」 副作用で妊婦が植物状態、三つ子も死亡

    1996.02.04 毎日 東京朝刊 1頁 1面 (全1,194字)
  • 三つ子死亡…名前も決めていたのに 父親、謝らぬ病院に怒り−−東大病院・医療事故

    1996.02.04 毎日 東京朝刊 23頁 社会 写図有 (全1,129字)
  • 妊婦、副作用で植物状態 胎児は死亡 東大病院がステロイド剤を注射

    1996.02.05 朝日 東京朝刊 30頁 2社 (全719字)
  • 東大病院事故 患者が植物状態後も処置ミスで肺炎、火傷

    1996.02.05 毎日 大阪朝刊 23頁 社会 (全749字)
  • 植物状態の女性の肺に、流動食が混入 ずさん処置、次々と−−東大病院の医療事故

    1996.02.05 毎日 東京朝刊 27頁 社会 (全750字)
かなりセンセーショナルに報道されたのが分かるのと、どうやら訴訟になったのが1996.2.4らしい事が確認できます。おそらく2/4が訴訟一報、2/5が続報みたいな感じでしょうか。それとこれも一目瞭然ですが、この事件をスクープとして主導権を握ったのが当時の毎日新聞、現在のタブロイド紙であることも推測できます。このうち2/4の一面を飾った大阪朝刊と、同日の23ページに社会面記事として書かれた東京朝刊の記事が入手できたので御紹介しておきます。

まずは一面記事です。

妊婦にステロイド剤投与で三つ子の胎児死亡 副作用で植物状態に−−東大病院
1996.02.04 大阪朝刊 1頁 1面 (全1,135字) 


 体外受精で三つ子を妊娠した女性(47)が、昨年十月、出産のため入院していた東京大学医学部付属病院(東京都文京区)で、アレルギー治療薬を投与されたところショックで植物状態に陥り、三人の胎児も死亡したことが三日、毎日新聞の調べで分かった。夜間、研修医が一人で薬剤を注射した直後、呼吸困難を起こした。家族は「副作用が多い薬と分かっていながら、安全への配慮があまりにも欠けている。事後の処置も不適切だった」として損害賠償を求める訴訟の準備を始めた。病院側は事実関係を認めたが、「最善を尽くした結果で、責任はない」と主張している。

 被害に遭ったのは関東地方に住む会社員の妻A子さん。国内の病院で数年前から不妊治療を受けていたが妊娠しないため、米国の生殖医療をあっせんしている「代理母出産情報センター」(同千代田区)と契約。昨年初め渡米し、専門医療機関体外受精を行い三つ子を妊娠した。胎児の発育は順調だったが、多胎妊娠による切迫早産などの危険性を考慮して八月から東大病院へ入院。十月十一日に未熟児のまま出産する予定だった。

 ところが、予定日の二日前の午後八時ごろ、A子さんは研修医からステロイド剤「リンデロン」を十二CC注射され、直後にショックを起こし呼吸困難となった。ショック症状は緩解剤を投与すればすぐに改善するが、駆け付けた研修医は酸素吸入の処置だけを行ったという。その後、救急部の別の医師が緩解剤を投与したが、呼吸確保のため気管支への挿管が遅れ、A子さんは約二十分間呼吸停止し、そのために植物状態となった。

 二日後、胎内から三人の子を取り出したが、いずれも死亡していた。

 「リンデロン」はアレルギー性疾患などの治療薬だが、肺機能が弱い未熟児の自力呼吸を促す効用があるため、出産前に母体を通して投与される。こうした症例への使用は国内では承認されておらず、医師の裁量で「適応外使用」として行われている。同薬には副作用が多く、使用の際は「常に十分な配慮と観察を行うこと」と添付文書で義務づけられているが、「適応外使用」の場合は、副作用被害救済制度の対象にならない。

◆「投与は必要だった」と病院は責任否定

 東大病院は事実関係を認めながらも「リンデロンの投与は必要だった。ショック症状の副作用はめったに起こるものではなく、予測できなかった。事後の処置も最善を尽くしており、ミスはなかった」と話す。

 しかし、ステロイド剤の使用方法や投与量、新生児集中治療室などの準備態勢、ぜんそくの持病があり薬に過敏反応しやすいA子さんの体質への事前チェック−−などに問題がなかったのか、疑問の声が上がっている。家族は「十分な説明もなく注射されてこんな目に遭い、『しかたなかった』では納得できない」と話している。

毎日新聞社

続いて社会面記事です。

三つ子死亡…名前も決めていたのに 父親、謝らぬ病院に怒り−−東大病院・医療事故
1996.02.04 東京朝刊 23頁 社会 写図有 (全1,129字) 


 ◇「妻は実験動物じゃない」

 「ごめんね、狭い所で……」。冷たい顔にほお擦りして、父は三人の遺体をひつぎに入れた。自分の面影を宿す小さな顔を見つめていると、怒りが込み上げた。三日、明らかになった東大付属病院の医療事故は、不妊・生殖医療に潜む「闇(やみ)」をさらけ出した。出生直前の三人の子が死に、妻は植物状態になりながら、「処置は適切だった」と主張する医師。絶望と怒りの四カ月。だれの助けもないまま、会社員の憔悴(しょうすい)は限界に近づいている。

 「すぐに来てください。危篤状態です」。若い研修医の声だった。昨年十月九日夜、会社で残業をしていたAさんは、東大病院へ車を飛ばした。三つ子を妊娠している妻は、二日後に出産する予定。暗い病棟の中で、救急部のドアが開いていた。

 その夜、医師資格を取って一年目の研修医が妻にステロイド剤「リンデロン」を注射した、と病院側から説明を受けた。未熟児の肺機能を活性化させるため、先輩医師が指示した。

 しかし、「リンデロンのような副作用の強い薬剤は、設備の充実した施設でチーム医療を組んで慎重に投与しなければならない」と、未熟児出産に詳しい別の大学病院の産婦人科医は指摘。「事前に何のチェックもなく、一二CCも一度に投与するのはむちゃだ」と関係者は疑問をぶつける。

 研修医は注射した直後に病室を去り、呼吸が苦しくなった妻がナースコールで知らせるまでの五分間、だれも異状に気付かなかった。ショックによる呼吸困難は、気管支けいれんの緩解剤「ボスミン」の投与ですぐに改善されるが、研修医が取った処置は酸素吸入。「ボスミンを打てば胎児は死んでしまう。救急医療は経験を積んだ医師も判断に迷うことが多い。母子ともに助けるため、研修医が行った処置は適切だ」と同病院はいう。

 だが、ボスミンは妊婦への投与が認められている。「胎児へ何らかの影響が出る心配はあるが、薬剤の感受性は個人差があり、何とも言えない」と製薬関係者は話す。

 妻は二十分間呼吸が停止し、二度と起き上がらなかった。二日後、体内から子供が取り出された。二人が男の子で体重千グラム、一人は女の子で七百グラム。今の未熟児医療の水準なら十分救える大きさだ。可愛らしい顔が、悲しかった。名前も決めてあった。孫を心待ちにしていた祖母が用意した産着と靴下は、三つの小さなひつぎに入れた。

 注射は本当に必要だったのか。なぜ事前の検査をしなかったのか。ミスや遅れはなかったか。子供だけでも救えなかったか……。疑問をぶつけても、医者はまだ一度も謝ろうとしない。

 「植物状態になった妻を医者はやっかい者のように見る。患者は実験動物ですか」。何もかも失ったAさんに、同病院は毎月四十万円近い医療費を今も支払わせている。

毎日新聞社

記事の内容は10年以上前である事を感じさせないステレオタイプの医療訴訟記事ですが、ここからわかるのは、

  1. 三つ子であったため早期分娩を予定していた(事件発生の2日後の予定)
  2. 早産未熟児であるので東大病院はリンデロン投与を行なった
  3. 投与後に喘息発作とショック症状が起こり、結果として胎児は死亡し、夫人は意識不明となった
これと別情報ですが、当時の週数ですが、
    妊娠27週
こうなっています。27週と言うだけで予断を許さない週数ですが、そのうえ三つ子ですからかなり手強そうな治療になりそうに思われます。

一つの焦点がリンデロン投与ですが、なぜリンデロンが投与されたかになります。周産期医療に従事した方なら周知の事ですが、早産児の切迫流産にはステロイド投与が行なわれます。行なわれますというよりこれは行なうべきだとなっています。たとえば日産婦誌54巻9号.クリニカルカンファランス―これだけは知っておきたい―2.Preterm PROM―現状と問題点 1)Preterm PROM―診断と管理には

6)ステロイド投与

胎児肺の成熟が不良の場合は,副腎皮質ステロイドホルモン(ベタメタゾン12mgを24時間ごと2回筋注,または,デキサメタゾン6mgを12時間ごと4回筋注)を投与し,胎児肺の成熟を促進しておく.

ステロイド投与を明記してありますし、前期破水の有無による妊婦の搬送のタイミングにも、

1994年に、早産が予測される母体に、副腎皮質ステロイド剤の投与が望ましいとの勧告が、米国のNIHよりだされました。この勧告によりますと、分娩前のステロイド剤の母体投与が、胎児成熟を促進させ、早産児の死亡率、RDS、脳室内出血の発生頻度を低下させると報告されております。投与時期については、できれば分娩24時間以前が望ましいとされております。

ここにもステロイド投与の重要性が書かれています。また記事見出しにあった

東大病院、ステロイド剤を「適応外使用」

これについても日産婦関東連会報第40巻2号「3.出生前ステロイド投与の現状」に、

出生前ステロイド投与は,わが国では保険適応がなく,いわゆる未承認薬の一つに数えられており,「包括医療」とも連動した新たな今後の課題といえよう.

気張るほどの事はではないですが、1995年時点でも現在でも臨床上の有用性は確認されており、東大病院がリンデロンを投与した事自体は特殊な治療でなかったと言えると考えられます。もちろん今でも常用されています。

ここで気になる判決ですが、控訴審まで進み被告とされた東大病院に責任無しと判断されています。このうち控訴審判決文の裁判所判断部分がネットに公開されています。これを読んでみたいと思います。ちょっと分量があるので適宜分割して読みます。ちなみに時刻関係が重要になりますが、リンデロンを投与したのは午後7時58分です。判決の争点になった時刻は2ポイントのようで、

  1. 午後8時14分及び午後8時16分の時点
  2. 午後8時18分の時点
このうちまず「午後8時14分及び午後8時16分の時点」を読んでみます。なおリンク元では氏名が公開されていますが、ここでは伏せてのものにさせて頂きます。

 控訴人Hは、妊婦Tは、午後8時14分の時点で、チアノーゼを呈し急激に症状が増悪する状態であったし、同16分の時点で、全身にチアノーゼが生じ吸入薬であるサルタノールの投与も功を奏していなかったから、D1医師らは、ボスミンないしエフェドリンなどの薬剤を直ちに投与し、さらには気管内挿管を行うべきであったのにこれを怠った過失があると主張する。

 しかし、前記のとおり、妊婦Tは、リンデロン注射の直後に息苦しさを感じ、気管支喘息の発作を疑って吸入薬であるサルタノールを使用したが、いつものように楽にならなかったため、ナースコールをし、午後8時12分ころ、D1医師に対し、いつもの喘息発作とは違うなどと言って強く息苦しさを訴えたものの、声の大きさや話し方は普段と変わらない状態であり、四肢に軽度のチアノーゼが見られ、血中酸素飽和濃度が若干低下しているほかは、脈拍は明確に触知することができ、心拍数は毎分110程度と普段よりやや多い程度で、意識障害はなくショック状態の所見もなかったし、その後、同14分ころまでは、医師の質問にはっきりと答えており、最高血圧は110から120mmHgで、渡されたスプレー状の吸入薬を自ら使用していたものである。以上のように、この時点までの妊婦Tの状態は、息苦しさを強く訴え、軽度のチアノーゼが見られる以外、特に深刻なものではなく、D1医師らは、酸素マスクによる酸素投与を開始し、再度吸入薬を投与したのみであるが、それ以上の処置をとる必要があったとまでは認めることはできず、証人兼子も、午後8時14分までの処置は妊婦喘息の治療手順として矛盾するものではないと述べている。

 ところが、同14分ころから16分ころにかけて、妊婦Tはショック状態には至っていなかったものの、チアノーゼの範囲は顔面にも広がり、呼吸は一層苦しそうになっており、応援に駆けつけたD2医師は、このような妊婦Tの状態を見て、ネオフィリンを準備するよう指示するとともに、妊婦Tの症状が更に悪化した場合には気管内挿管の緊急の処置が必要であると判断し、救急部の医師に緊急コールをしたものである。

 この時点におけるD2医師らの処置について、兼子鑑定も横山鑑定も、同16分に救急部の応援を要請し救急部の集中管理を期待したのは適正な判断であったとしているが、横山鑑定は、それのみならず、妊婦Tの四肢及び顔面にチアノーゼが出ていたから、第一に気道の確保と酸素投与、次に輸液の増量とボスミン投与が必要であると指摘し、上記処置のみであったことに疑問を投げかけている。

判決文を読む限り午後7時58分のリンデロン投与後より喘息発作が起こったのは間違い無さそうです。それに対しまずサルタノール吸入を行なったが改善しなかったのが午後8時14分の時点であったと考えられます。この時の状態の評価をどう見るかが一つの焦点であったようで、原告側は、

妊婦Tは、午後8時14分の時点で、チアノーゼを呈し急激に症状が増悪する状態であった

こうしています。だからボスミンを直ちに投与すべきであったと主張していますが、裁判所の判断は、

この時点までの妊婦Tの状態は、息苦しさを強く訴え、軽度のチアノーゼが見られる以外、特に深刻なものではなく、D1医師らは、酸素マスクによる酸素投与を開始し、再度吸入薬を投与したのみであるが、それ以上の処置をとる必要があったとまでは認めることはできず

原告の主張を退けています。続いてその2分後の午後8時16分ですが、

応援に駆けつけたD2医師は、このような妊婦Tの状態を見て、ネオフィリンを準備するよう指示するとともに、妊婦Tの症状が更に悪化した場合には気管内挿管の緊急の処置が必要であると判断し、救急部の医師に緊急コールをしたものである。

この時も原告はそれだけでなく

  1. 直ちに挿管
  2. ボスミン投与が必要
こう主張しています。このボスミン投与に対する裁判所の判断部分が次になるかと考えられます。

 まず、控訴人Hは、この時点でのボスミンを投与すべきであったと主張するところ、証拠並びに弁論の全趣旨によれば、ボスミンは血圧を上昇させ、気管支の痙攣を寛解させ、上気道の血管神経性浮腫も抑え、アナフィラキシー反応そのものの進行を止める作用を有すること、投与後1、2分で効果を発揮する即効性の薬剤で、アナフィラキシーショック気管支喘息の発作等に有効であるとされており、特に、アナフィラキシー反応に対する治療のための第一選択薬として使用されていること、しかし、強い血管収縮作用を有しているため、投与すれば子宮血流量が減少しその結果として胎児への酸素供給が途絶え、胎児を死亡させる危険性があるため、妊婦に対する投与は慎重でなければならず、妊婦にボスミンを投与するのは、胎児の生命よりも母体の救命を優先すべきであると判断される段階に至ったときであるとされていること、兼子鑑定人も、妊婦に対するボスミンの使用は、アナフィラキシーショック、母体心肺蘇生時以外はほとんどないとされており、妊婦喘息にショック症状を伴う致命的状況が判断される緊急時においてボスミンの使用を考慮する必要があると考えていること、妊婦に対するボスミンの投与を記載した文献は、ほとんどアナフィラキシーショックの例であり、妊婦Tのような気管支喘息の妊婦に対する積極的な投与を記載した文献は見当たらないこと、さらに、エピネフリンとβ2刺激薬の併用で、不整脈、場合によっては心停止を起こすという副作用の発生が報告されており、効能書にもβ2刺激薬との併用は禁忌とされていることなどが認められる。

 本件において、妊婦であるTは、アナフィラキシーショックではなく気管支喘息の発作を起こしたものであり、この場合にボスミンを投与することは、上記のように胎児の生命よりも母体の救命を優先すべきであると判断される場合、例えば、ショック症状を伴う致命的な状況にあると判断される緊急時に限られると解すべきであるところ、午後、8時14分から16分にかけての妊婦Tの状態は、顔面にまでチアノーゼが広がり、息苦しさが一層強まってきてはいたものの、ショック状態に陥っていたわけではなく、直ちに生命に危険が及ぶというような差し迫った状況にあったわけでもない。また、妊婦Tは、同12分前後に2回にわたってサルタノール(β2刺激薬)を吸入しており、その効果は吸入後5分から10分までの間で発現するとされているので、同14分ないし16分の時点において、D1医師らが上記サルタノールの効果の発現を見守るべくボスミンの投与等をしなかったというのは、一応理解できるところである。加えて、上記のとおりβ2刺激薬であるサルタノールにエピネフリン(ボスミン)を併用すると、不整脈や場合によっては心停止が起こる可能性が指摘されているのであるから、サルタノールの吸入後5分以内の間、ボスミンの投与を控えたのは、その時点においては妥当な判断であったというべきである。

 これに対し、横山鑑定には、午後8時15分の時点で、ボスミン少量0.1mgの静脈内注射を行っていれば、ボスミンの追加投与が必要であったかもしれないが、100%酸素のアンビューバッグによる加圧補助呼吸でも回復した可能性があり、これによれば、ボスミンの少量投与ならば胎児に影響を及ぼすような子宮動脈収縮を伴う子宮血流量の減少をもたらさないと判断しているようである。

 しかし、子宮動脈を収縮させないでおいて、血圧を上昇させたり喉頭浮腫を改善させるような適切なボスミンの投与量について報告した文献は存在しないし、ボスミンの投与により血圧も上昇し喉頭浮腫も改善されるとすれば、同時に子宮動脈収縮が起こると考えるのが薬理学的には妥当であるとする見解があり、確かに、妊婦に対するボスミンの投与について横山鑑定の見解を客観的に裏付けた文献は証拠として提出されておらず、これが現在の薬理学において承認された見解であるか否かは問題が残るところである。同時に、子宮動脈収縮が起こらない程度の少量のボスミンを投与したとすれば、それによっても、母体の血圧も上昇せず、喉頭浮腫も改善されないおそれも残ると見るのが自然であり、結局のところ、横山鑑定が同時に指摘しているように、ボスミンの効果を発現させるため追加投与を検討せざるを得ないことになるように思われるから、本件においては、上記ボスミンの少量投与により母体及び胎児の双方の救命が可能であったとまで認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

なかなか長いのですが、裁判所の判断としてボスミンは、

アナフィラキシー反応に対する治療のための第一選択薬として使用されている

これを前提として認めながら、ボスミンの血管収縮作用による子宮血流量の低下も考慮に入れる必要があるとしています。簡単に言えば胎児への影響です。そのため妊婦に対するボスミン投与の考え方として、

妊婦にボスミンを投与するのは、胎児の生命よりも母体の救命を優先すべきであると判断される段階に至ったときである

その上で当時の状況がそうであったかどうかの考察が行なわれ、

午後、8時14分から16分にかけての妊婦Tの状態は、顔面にまでチアノーゼが広がり、息苦しさが一層強まってきてはいたものの、ショック状態に陥っていたわけではなく、直ちに生命に危険が及ぶというような差し迫った状況にあったわけでもない

ボスミンを投与しなければならない状態ではなかったと判断しています。続いて原告側はボスミンが駄目ならエフェドリン投与をすべきであったと主張しています。

 次に、控訴人は、午後8時14分から16分の時点で、子宮血流量に関与しない昇圧剤であるとしてエフェドリンを投与すべきであったと主張しており、横山鑑定にも、ボスミンの使用を避けたいと考えるならばエフェドリンの使用が考えられ、早期にエフェドリンを使用していれば胎児の死亡を回避できた可能性があるとの記載があり、エフェドリンは、ボスミンと異なり子宮血流量への影響は少ないとされているから、妊婦への投与を避けるべきものとはされていない。

 しかし、上記のとおり、同14分から16分にかけての妊婦Tの状態は、顔面にまでチアノーゼが広がり息苦しさが一層強まってきていたものの、まだショック状態に陥っていたものでもないから、胎児に危険なボスミンを避けてエフェドリンを使用することを検討しなければならないという状況とまでも認められなかったし、妊婦Tは、同12分前後に2回にわたってサルタノールを吸入してその効果の発現を見守っているという状態であったこと、エフェドリンもβ2刺激薬との併用で不整脈、場合によっては心停止を起こし、効能書にもβ2刺激薬との併用は禁忌とされている旨の報告があることに照らすと、D1医師らがこの時点で直ちにエフェドリンを投与すべきであったとまで認めることはできない。

エフェドリンについても午後8時14分も午後8時16分でも、

顔面にまでチアノーゼが広がり息苦しさが一層強まってきていたものの、まだショック状態に陥っていたものでもないから、胎児に危険なボスミンを避けてエフェドリンを使用することを検討しなければならないという状況とまでも認められなかった

そこまでの状況ではなかったと判断しています。さらに原告側は直ちに挿管する必要があったとの主張も行われていたようで、

 さらに、控訴人Hは、午後8時14分から16分の時点で、妊婦Tにつき気管内挿管の処置を講ずるべきであったと主張しており、D2医師も妊婦Tの症状がさらに悪化した場合には気管内挿管が必要になることを考えたからこそ、救急部にコールをしたものであるが、自らは気管内挿管を行っていない。

 しかし、上記のとおり、その時点の妊婦Tの状態からして、直ちに気管内挿管をしなければならないような差し迫った状況であったとまでは認められないし、証人Nの証言及び弁論の全趣旨によれば、妊婦Tの病室にいた3名の医師のうち、D1医師は気管内挿管の経験がなく、D3医師とD2医師は手術室における気管内挿管の経験があっただけで病室における経験はなかったこと、筋弛緩剤を投与せずに病棟内で行う挿管には相当の経験を要するほか、挿管の準備などの難点があったこと、このような理由があったため、D2医師らは、救急部にコールをして気管内挿管を依頼し、その到着を待ってその時点の妊婦Tの症状を見て気管内挿管を行うのが適切であると判断したことが認められる。以上の妊婦Tの症状とその時点における気管内挿管の迅速な実施の困難性等に照らすと、上記D2医師らの判断が不適切であると認めることはできず、このことに、上記のとおり、兼子鑑定及び横山鑑定のいずれにも、この時点で救急部に緊急コールをしたのは相当であった旨の記載があることも併せ考慮すると、この時点で、D2医師らが直ちに自ら気管内挿管の処置をとらなかったことに過失があるということはできない。

ここも裁判所判断の前提として

直ちに気管内挿管をしなければならないような差し迫った状況であったとまでは認められない

こうしておいた上で、当時の病室にいた医師にawakeでの挿管技術が十分とは言えず、救急部の到着を待ち、挿管準備をして待っていた判断に問題はないとしています。ここまでの午後8時14分及び午後8時16分の東大病院の診療経過について、

以上認定したほか、午後8時14分から16分までの東大病院の医師らの処置について、過失があると認めるべき事情は見当たらない。

続いてその2分後の午後8時18分の裁判所判断です。

 控訴人Hは、妊婦Tは遅くとも午後8時18分の時点でショック状態に陥り、収縮期血圧は70ないし80にまで低下し、意識喪失、呼吸減弱など病状は急速に悪化していたものであり、この状態では胎児の生命維持に重大な危機が生じ、母体の収縮期血圧を上昇させる方法を講じなければ胎児を救命することはできないばかりか母体にも死の危険が切迫するので、ボスミンを投与すべきであったこと、ボスミンほど強い昇圧作用はないものの、血管収縮作用を有しないためその投与に当たって胎児への影響を心配する必要がないエフェドリンを投与すべきであったこと、どんなに遅くとも同18分までには、胎児の救命を断念して母体救命への積極的方針で臨むべき危機的状況が生じていたのであるから、子宮血流の減少に対する危惧からあえてボスミンの投与を控えるべきでなく、したがって、D1医師らには過失があると主張する。

 前示のとおり、確かに、この時点では、妊婦Tは、自力で身体を支えられなくなり、橈骨動脈の触知が困難になり(収縮期血圧が70ないし80mmHg以下の状態に低下し)、会話することはできず、呼びかけにも応答しなくなり、意識レベルは低下し、呼吸停止に近い状態になったものであって、妊婦Tは、ショック状態に陥り、胎児のみならず母体に対する重大な危険が生じる可能性を想定せざるを得なくなったといわざるを得ない。この事態に対し、D1医師らは、妊婦Tを半座位にして酸素投与量を多くする処置をとり、同18分ころの妊婦Tの状態を見て、妊婦Tの血圧を上げるたもの点滴ボトルを5パーセントブドウ糖液に交換して点滴速度を速め、アンビューバッグによる人工呼吸を試み、緊急コールをして早晩到着するであろう救急隊の医師が気管内挿管を行いやすくするための準備を行ったものである。

どうやら午後8時18分の時点で妊婦の状態は悪化しショック症状を呈したものと考えられます。原告側はこの時点でボスミンないしエフェドリンの投与を行なうべきであったと主張しています。

 まず、控訴人Hは、午後8時18分の時点における妊婦Tの状態からして、胎児の救命を断念し母体救命への積極的方針で臨むべきであったとして、ボスミンを投与しなかったD1医師らには過失があると主張するところ、妊婦Tはすでにショック状態に陥っており、吸入薬であるサルタノールの効果の発現も見られなかったから、胎児の救命を断念すべきことが明らかであれば、この時点でボスミンの投与に踏み切るのが相当であり、兼子証人も、同18分以降の呼吸障害の進展、ショック症状の重篤化はボスミンの投与の必要性が推測されると述べているところでもある。

 しかしながら、横山鑑定は、この時点において妊婦Tの胎盤血流量は減少していたものの、胎児は酸欠状態でなかった可能性があると指摘した上で、本件の病態下でボスミンを投与した場合どのような結果になるかは予測が困難であるから、D1医師がボスミンの使用を子宮の血流低下を理由に躊躇したことは理解できると報告しており、兼子鑑定も、同18分の段階で子宮血流量は減少傾向にあったものと推測されると報告しているが、胎児の救命は望めない状況にあったとか、ボスミンの投与に踏み切るべきであったとまでは報告していない。このように胎児の救命の可能性を完全に捨てきれない状況にあり、かつ、妊婦Tの症状が関係者の予想を越えて急激に悪化していったことに照らすと、同18分の時点において、胎児の救命を断念し妊婦Tの救命を優先してボスミンを投与すべき状況にあったとまで断定することは著しく困難であったと認められるから、D1医師らに対し、直ちに妊婦Tにボスミンを投与すべきであったというのは、難きを強いるものといわざるを得ない。加えて、D1医師らは、同16分の救急部への緊急コールによって救急部の医師を呼び出し、早晩到着する状況にあり(現に、それから約2分後の同20分には到着している)、救急部による気管内挿管に協力すべく準備を進めていたのであるから、妊婦であるTに投与するか否かの判断が困難なボスミンを投与しないで救急部の医師の到着を待つというのも、その時点において不適切な判断であったということはできず、兼子証人も、D1医師らが、救急部の来診を要請し、その到着に備えて準備を行うとともに、その間、妊婦Tを半座位にし、急速輸液、酸素吸入、アンビューバッグによる換気操作等の処置をしたことは、適切な対応と判断されると述べるところである。また、横山鑑定人は、ボスミンの投与の妥当性を指摘し、前記のとおりボスミンの少量投与の適切性については、前記と同様の疑問があるし、また、同鑑定人は、胎児の救命の可能性につき必ずしも否定的な認識を示していない点も考慮すると、D1医師らが妊婦Tに通常の量のボスミンを投与しなければならなかったとまで述べていると理解することも困難である。

 そうすると、D1医師らは、同18分の時点において、救急部の医師の到着を待つことなく、直ちに妊婦Tにボスミンを投与する義務があったと認めることはできないから、それをしなかったことにつき過失があるということはできない。

ここはやや微妙な判断ですが、原告は午後8時18分の時点で

妊婦Tの状態からして、胎児の救命を断念し母体救命への積極的方針で臨むべきであった

ところが裁判所の判断は妊婦の急激な悪化から、この時点で胎児をあきらめてボスミン投与を行なうのは

直ちに妊婦Tにボスミンを投与すべきであったというのは、難きを強いるものといわざるを得ない

さらにこの時点で救急部の応援を要請しており、現実に午後8時20分に到着しているのだからそれを待つという判断は、

妊婦であるTに投与するか否かの判断が困難なボスミンを投与しないで救急部の医師の到着を待つというのも、その時点において不適切な判断であったということはできず

こうい状況であるから、

そうすると、D1医師らは、同18分の時点において、救急部の医師の到着を待つことなく、直ちに妊婦Tにボスミンを投与する義務があったと認めることはできないから、それをしなかったことにつき過失があるということはできない

相当厳しい状況が分刻みで展開されているのがわかりますが、裁判所判断は東大病院側に過失無しと判断しています。時間経過をまとめると、

時刻 裁判所が認定した事実
19:58 リンデロン投与。喘息発作が起こりサルタノール吸入する
20:14 喘息発作改善せず、サルタノール再吸入、酸素投与行なう
20:16 挿管の必要性を判断し救急部コール
20:18 ショック状態になり、急速輸液、酸素吸入、アンビューバッグによる換気を行なう、
20:20 救急部到着


リンデロン投与から喘息発作症状がかなり強そうだと判断されるまで16分、さらにそれが挿管管理まで必要そうだと判断されるまで2分、そこからショック状態に陥るまでが2分。短時間のうちに病状が急激に変化した事がわかります。この短時間のうちに胎児の生命をあきらめ、母体優先の治療を断行する判断がなされなかった事を過失とは認定できないと、判決ではなっていると考えられます。

ここでもう一度エフェドリン論争に戻り、

 次に、控訴人Hは、午後8時18分の時点でも、D1医師らは妊婦Tに対し、子宮血流量を減少させない昇圧薬であるエフェドリンを投与すべきであったと主張し、横山鑑定人も、エフェドリンの投与の相当性を指摘している。

 しかし、同20分の時点で妊婦Tに対し気管内挿管を行う上で最大の障害になったのは、妊婦Tに生じていた重症の喉頭浮腫であるところ、エフェドリン喉頭浮腫の改善効果はボスミンに比べて弱いとされており、同18分の時点に既に相当重症の喉頭浮腫が生じていた妊婦Tにエフェドリンを投与したことにより、これを大幅に改善し、大脳機能の喪失を回避することができたか否かは、疑問が残るといわなければならない。また、兼子証人も、数分で救急部の治療が予想される時点でのエフェドリンの使用は、急速な臨床経過を合わせ、その後のボスミンの使用を困難にする可能性も考えられるとして、D1医師らがこの時点でエフェドリンを使用しなかったことが不適切であったとは判断されず、むしろ、回避するのが得策と推測される旨を述べている。

 結局、エフェドリンの投与により十分な喉頭浮腫の改善効果がもたらされることを裏付ける証拠がない以上、本件において、D1医師らが妊婦Tにエフェドリンを投与する義務があるとまでは認めることはできないし、これを投与したことにより妊婦Tが大脳機能喪失を免れたということもできないから、控訴人Hの上記主張は採用の限りではない。

ここは簡単にしますがこの時点でのエフェドリン投与の効果には疑問があり、因果関係が認められないと解釈すればよいでしょうか。挿管についてももう一度判断を下し、

 なお、兼子鑑定は、午後8時18分の時点における妊婦Tの呼吸の減弱の推移、意識の喪失からして、気管内挿管適応の時期であるが、同時に、このような事態を考慮して既に救急部の来診要請がされ、救急部の集中管理を期待したことは本件での適正な対応と考えられると報告しているから、この時点での救急部の到着を待って気管内挿管の準備をしていたD1医師らの処置が不適切であったとは認められない。そして、他に、東大病院の医師らのとった処置につき、過失があったことを認めるべき事情は見当たらない

現場の東大医師が自ら挿管せず、救急部の応援を依頼したのは適切であり、さらに応援を依頼したのは午後8時18分の時点ではなく、喘息発作であった午後8時16分の時点であったから状態の悪化を考慮に入れた適切な処置であったとしています。結論は、

3)まとめ

以上の次第で、本件事故の発生につき、D1医師をはじめ東大病院の医師らに過失があったと認めることはできないから、控訴人Hの請求は理由がない。

俗に言う被告側全面勝訴の判決と判断してよいかと考えられます。なお被告側に責任無しの控訴審判決を伝えるマスコミは私が知る限り皆無かと存じます。ただakagama先生のエントリーを読む限りでは原告はこの判決に強い不満を抱いている事が窺えます。訴訟に及んでから12年が経過していますから、その心情は理解できます。そこを配慮してあえて報道しなかったは選択枝としてありえるとは思います。もっともそれならば、訴訟の始まった時点であれだけの内容の記事を書かない方が良かったんじゃないかとは感じられます。