続社会の木鐸

マスコミなどの報道機関が拠り所にしている社会規範は一体何なのでしょう。ライブドアの例を見るまでも無く、明文化されている法律に違反している程度は同じでも、全マスコミが総出になって社会的リンチを加えるケースと、そうでないケースが確実にあります。

また裁判所が判断を下しても、その判断自体をマスコミが気に入らなければ猛烈に反発するケースもあれば、尻馬にのって傷口に塩を擦り付けてもまだ足らない様相を呈する事もしばしば見られます。それもマスコミ全体がほぼ同じ論調になる不可思議さもまたあります。あれだけ報道機関があるのですから、もう少し色合いが違っても良さそうなものなのに、事件によっては、まるで編集者が合同編集会議を行なったかのように同じである事も珍しくありません。

これはやはり何か暗黙のルールがあると考えざるを得ません。現代の社会は憲法とそれを補う法律によってルールが作られています。この憲法と法律の規定の枠内で暮らしていれば、基本的にはOKと考えます。堀江前社長ではありませんが、「法律で禁止していない事をしても何が悪いんだ」と正面切って言われると反論し難いところです。それでもそれだけではないとの漠然たる思いを誰もが持っているのもまた間違いない事実です。

この漠然たる思いは日本人であればどうやらほぼ共通のようで、この漠然たる思いこそがマスコミが善悪を判断する根拠になっていると見ます。そういう根拠があるからあれだけの非難報道を展開しても、「やりすぎ」の声は少数はであり、それよりも「そうだ、そうだ」の共鳴者の方が遥かに多いのではないかと考えます。すなわち世論たるものに当たると考えます。

漠然たる思いとはいったい何でしょう。ライブドア事件で主張されているのは企業倫理です。とはいえ倫理と言われてもこれもまた漠然としすぎる上に、個人差が大きく、世論形成に至るまでの大きな力になるとは素直に信じられません。

昔よりマシになったとはいえ日本は閉鎖社会と呼ばれています。閉鎖社会とはムラ型社会と言い換えても良いかと考えています。ムラ型社会とは濃密な人間関係がある共同体社会です。ムラはかつて農作業と言う唯一の産業のための運命共同体でありました。べつに農作業でなくても海辺なら漁業でしょうし、山なら林業でも良いかもしれません。

ムラは単一産業のために組織立てられた運命共同体であり、その構成員は個人の利害よりも、ムラ全体の利害を尊重優先する事を義務づけられた社会であったと考えます。構成員の行動がムラの利益に反する、もしくは損なうと判断されれば、これはムラにとっての反逆であり、最大の犯罪行為であると考えられたのです。

こういう思想を忠実に表したのが日本最初の成文憲法である、聖徳太子憲法十七条であると考えます。聖徳太子は仏教の熱心な信者です。仏法は現在のような葬式仏教ではなく、もっとも斬新な政治思想であり、最新の科学であったのです。寺と言うと今では抹香臭い陰気なところのイメージが強いですが、当時は最新最高の学府であり、今で言う大学のような教育機関であったのです。

聖徳太子は中国の隋唐に対して遅れていた日本を仏法と言う最新知識で近代化し、これをもって世界(当時の世界は東アジアの事)での独立基盤を強化しようと考えたのです。当然憲法十七条もまた仏法思想の影響が色濃く反映されています。とくに第二条は有名で、

    二にいはく、篤く三宝を敬ふ。三宝とは仏・法・僧なり。すなはち四つの生れの終りの帰、万の国の極めの宗なり。いつの世、いづれの人か、この法を貴ばざらん。人はなはだ悪しきもの鮮し、よく教ふるときはこれに従ふ。それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉れるを直さん。
原文が漢文なので、これを読み下したものを上に記しましたが、「万の国の極めの宗なり」とまで極言しているところからも、太子の仏法への傾倒ぶりが窺えます。

ところがそんな太子でも仏法は第二条なんです。この憲法十七条には仏法だけではなく、儒教道教の思想も取り入れたとされています。これらもまた仏法にならぶ最新思想です。当時の日本で最高の知識人であった太子が最新知識で編纂し、とくに仏法を思想の根幹として政治を行なっていくと宣言しているはずの憲法のそれも筆頭の第一条は仏法、儒教道教とも関係の無い倫理規定が書かれています。

    一にいはく、和らかなるをもつて貴しとなし、忤ふることなきを宗となす。人みな党あり、また達れるひと少なし。ここをもつてあるいは君・父に順はず、また隣里に違へり。しかれども上和らぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、すなはち事理おのづからに通ふ、なにの事か成らざらん。
あまりにも有名な「以和爲貴」すなわち「和を以って尊しとなす」です。太子は憲法を制定するに当たり、太子を以ってしてもこの「和」の精神を第一にもってきています。これはいかなる思想体系を取り入れてもこの「和」の精神だけは当時の人間の感覚として、必要不可欠な常識として何より最優先されていたことを物語ります。

つまり弥生時代から大和王朝にいたり日本は統一国家が成立されます。その統一されていく国民すべての基本的な倫理の基盤が「和」であり、すべての掟、しきたりの基準が「和」であり、それこそがすべてに優先される倫理基準としてあったのです。和とは即ち仲間内の秩序を守る事。仲間の範囲が家族、縁者、ムラ、クニと広がっても最大の倫理基準は「和」なんです。だから太子もまた何の疑いも無く「和」を第一条に明記したと考えます。

それから1400年が経ちましたが、未だに「和」は最大の倫理基準として人々の漠然たる思いの中に存在し続けていると考えます。マスコミが社会の木鐸を打ち鳴らすのは「和」の大罪を犯したものに対して行なわれていると考えます。「和」を犯す事はすべての憲法法律の規定を超えるものであり、「和」の倫理基準を犯しているのなら、たとえ裁判所の判断であろうともマスコミは確信を持って「間違っている」とアピールするのではないかと考えます。

えらく長くなりましたが、それでもマスコミはズレてきていると考えています。「和」の大罪の概念は非常に曖昧です。「和」の精神は続いていますが、「和」の概念は時代とともに変化します。変化するだけではなく、「和」自体をもう大罪と考えない人々の数が確実に増えています。固定化した概念での「和」の大罪をマスコミが糾弾してもこれに全国民が共鳴する時代が確実に変わりつつあると感じてます。

ほんの一昔、二昔前はマスコミと個人の情報量の差は圧倒的でした。また情報発信力も雲泥の差がありました。そういう時代であれば、ひとたびマスコミが糾弾行動を始めると、個人にはそれ以外の情報が入る事はまず無く、与えられた情報で判断する個人はマスコミの意のままにしかなりようがなかったと言えます。ところがネット社会が急速に普及すると、個人レベルの情報収集力、情報伝達力は飛躍的に上がり、いくらマスコミが旗を振っても「ほんまにそうかいな」、「違う考えはないのか」の情報を容易に収集でき、また「オレは違う」という情報発信もそれなりの影響力を持つようになっているのです。

「和」は残っていると思いますし、これからも根強く残るとは思います。しかし一方で「和」のルールに従わない、もしくは従わないものを許容し称賛する勢力がこれから増えると考えています。ライブドア事件の反応でも、「和」の大罪を犯したものへの当然の制裁であると言う意見はネットでもまだ多数派ではありますが、それを否定するもの、否定はしませんがライブドア報道に違和感を覚えるものは決して少なくありません。

現在のマスコミに対する私の最大の違和感は、未だに「和」の大罪ですべての国民が共鳴するはずだの思い込みにあると考えています。今回のライブドア事件でもたしかにまだ比較的多数の人間が共鳴はしています。しかしそうでない人間の数はもう無視できない少数派ではありません。かつてのように「国民の常識」として全員が無条件にマスコミの旗の下に集まる時代は確実に終焉に向かっていると考えます。

そこのギャップを確実に埋めていかないと、マスコミ報道の明日は無いと考えています。