ミクロを言い出したらキリがなくなるので、かなり大雑把なマクロ感覚とお受取下さい。どちらも情報であるのに違いはないのですが、大きな相違点は、
- マスコミ情報は消費型
- ネット情報は記録型
- マスコミ情報の過去情報の検索は難しい
- ネット情報はググれば素人でも探し出せる
- マスコミ情報はその場限りの垂れ流し型
- ネット情報は時系列を意識した蓄積型
一方でネットの情報発信者は過去の様々な主張との整合性に気を使います。「その場限り」を頻用すれば炎上するかスルー対象にされてしまうからです。これは日常的に時系列情報を用いてマスコミ批判を行う者が多い事にも起因すると思っています。自分が行なっている事を、自分でやってはシャレにならないと言うぐらいところです。
ネットがある程度普及した段階でマスコミはネット対策をやっていました。いわゆる封じ込め戦略で、具体的な戦術として
- ネットはリアルとは別空間の意見が常識となる世界である
- ネットの情報は下らない
- ネットの意見などリアル社会に何の影響ももたらさない無価値なものである
まあ、封じ込め戦略を用いなくとも結果に大差はなかったの意見にも理があると思っています。どんな対抗策を取っても結果は同じであったろうぐらいです。それでも既製マスコミは現在でも強大で巨大です。そこで現在の勢力確保に戦略転換している気がしています。これなら今まで続けてきた戦略と相違は少なくなります。
同時に垂れ流し記事もネットへの対抗上、これを保持する方針のように見えます。考え様によっては、そういう記事を好む人間が購読者であると言う考え方につながります。そうやって考えると昨今のマスコミが大好きな、
これが良く見えてきます。これはツイッターから拾ったのですが、メディアの端くれとして言えば、実名報道すればいいじゃんというのが私の考え。被害者が望んでいないなら、名前出すなよ的な優等生がネットには満ち溢れているけど、マスコミってそんなキレイな存在じゃない。ヤクザが自分のことを棚に上げて正論吐くのとレベルは同じ。期待しすぎだ。
個人的には「釣り」の可能性も捨てがたいのですが、ちょっと参考になります。マスコミが麗々しく持ち上げる「市民感情」とか「市民感覚」の本質は、垂れ流し型記事にその場限りで踊ってくれる人の意味ではないかです。今日は右、今日は左と垂れ流し記事で面白いように踊ってくれる人々です。たぶんネット前の時代は自在に操れたとも考えられます。
ポイントとして「市民感覚・感情」は実際の市民の感覚とか感情でなく、マスコミが意図操作した感情や感覚であるです。マスコミのお得意の世論調査にしても、垂れ流し記事で感覚・感情操作が終わった後に成果を結果として示す手法です。これも上手い具合に、既製マスコミからネットに切り替えた人間は、新聞社の世論調査なんかにあんまり応じませんから、回収できるのは垂れ流し記事の影響下にある人間が主体となります。
どれほどの回収率になっているかの証拠があります。前に新聞が消費税の軽減税率の適用の是非を世論調査していた話を書きました。その世論調査の回収率が明記してあります。
調査は、全国の満20歳以上の男女4000人を対象に個別面接調査(オムニバス)で実施、回収率は30.3%だった。
そういう事です。一方で絶対に市民感情・感覚として世論調査されない問題もあります。被害者氏名実名報道問題です。これは現状ではどうやってもマスコミ側の旗色が悪い問題です。垂れ流し情報による洗脳も効果的とは言えそうにないと思っています。やれば最悪袋叩きが予想されますから、既製マスコミとしては市民感覚・感情を問いたくないであろうです。これも別にたいした質問は不要なんです。たとえば、
Q.被害者遺族になった時に実名報道の許可を望むか
- 許可など不要で報道を望む
- 遺族の意向を確かめた上で望む
- 実名報道は望まない
- わからない
関連質問としてマスコミの過剰取材による報道被害をセットで望むかをつければ完璧ですが、どっちにしても既製マスコミには望ましくない市民感覚・感情ですから鮮やかにスルーされるのは確実です。
アルジェの被害者実名問題は、朝日が被害者遺族をペテンにかけると言う荒業を用い、日揮や政府の防衛線を崩し実名報道に成功しています。政府も既に既製事実になった点を鑑み、押しきられるように実名公表に至っています。マウコミ倫理として、実名公表、実名報道に成功したと今後も自画自賛を続けられると予想しています。もちろん今後も変わらず被害者実名は容赦なく報道されるのは間違いありません。
マスコミが欲したのは実名公表から、実名報道を行なう報道の自由ですから、これを阻止しようとした政府の策謀の捉え方になるかと存じます。これを突破し政府に実名公表まで追い込んだ朝日記者及び朝日新聞はマスコミ界のヒーローとなります。もし朝日が突破していなかったら、問題はマスコミが触れたくもない遺族への過剰取材の問題に飛び火しかねなかったからです。
過剰取材の規制もマスコミにとって報道の自由、公共性の大義を侵す大問題です。それでもさすがにあれを「報道の自由のために甘受せよ」の主張は無理がありますから、そこに飛び火する前に被害者遺族をペテンにかけ、問題を鎮静できる方向に導いた功績はMVPものと評価されても足りないぐらいかもしれません。なにせこのまま決着してくれたら、取材におけるペテンも報道の自由に加えられる先例として明示されそうだからです。
個人的にはそういう局所戦の勝利にどういう意味があるのか理解するのが困難ですが、業界論理・業界倫理・業界大義ですから仕方がないと言うところでしょう。どちらかと言うと、
こういう改善のキッカケになるとも思いましたが、どうにもマスコミ業界的は禁断の領域である事がはっきりと認識できました。あえて希望的観測を付け加えれば、これでこの問題は終了にはならないと思っています。マスコミの天敵のネット利用での情報発信者の特徴は過去事例を結構記憶していることです。マスコミ情報愛好者のように都合よく忘れてくれないのです。そのために私も執拗に記録を書いています。次の時に参照してくれる人間のためにです。