摸索される新マスコミ

これを読んだ上での感想です。新聞を始めとする既製マスコミの凋落は言われて久しいものがあります。これは確実に「大」と付けられる報道機関の経営悪化と言う形で現れています。でもって既製マスコミが凋落したのなら、次の時代のマスコミと言う事で活動されてられる方もおられます。既製マスコミが没落しようとも報道と言うマーケットは厳然としてあるわけですから、次の時代の新マスコミの覇権を握ろうと考えるのはビジネスとして自然な発想かと思います。新マスコミを創作する時に抑えておくべき点はなんであろうかです。発想的には、
  1. 既製マスコミが凋落した点を是正する
  2. 既製マスコミとは全く違う枠組みを考える
どっちがと言うより「どっちも」なんですが、どちらに比重を置く方が良かろうかです。新マスコミの成功なんて「勝ったもの勝ち」の世界で、試してみなければ「わからない」になるにはなりますが、既製マスコミの枠組自体が唾棄すべきものであるかないかは検討しておいても損は無いと思います。そもそも報道(マスコミ)に期待されるものは何であるかです。人は情報(ニュース)を欲する生き物です。昔の旅人はニュースを持って歩いて伝えるだけで一宿一飯にありつく事さえ可能であったとされます。一番の基本は情報の収集と選別システムだと私は考えます。


情報の収集も質によって評価が変わります。これも昔から珍重されたのは可能な限り一次情報に近いものです。情報の特質で伝聞を重ねるごとに変質する可能性がある事は良くしられており、もともとはささいな話であったのが最終的にはトンデモナイぐらいにパンパンに膨れ上がってしまっている事は良くあります。伝聞は他にも途中で誤って伝えられたりもあり、珍重されるのはやはり一次情報に極力近いものになります。

情報の質は一次情報に近いだけではまだ十分とは言えません。これを的確に取材できる能力にも大きく左右されます。その事件なりの本質がどうなのかを見抜く力と、これを要領よくまとめて的確に事件の本質を伝える能力です。

良質の取材者が一次情報に極力近いところで集めたニュースでも、そもそも事件の質がどうかの問題もあります。つまり伝え広めるに値するニュースであるかどうかの判断です。情報量が少ない時代であれば、とにかく情報を集める方が優先され、集められた情報の価値判断は情報を集めるものの役割でも良かったかもしれません。ところが現在は溢れかえる情報の中で自分に必要な情報の絞込みが必要になっています。自分に必要な情報を整理してくれて、手際よく提示してくれる機能を報道機関には期待されています。

別に気合を入れて書くほどの条件ではありませんが、

  1. 良質の取材をして良質の情報を集める
  2. その中でも必要な情報を手際よく選別し提供する
この2つの条件は既製マスコミであれ、新マスコミであれ求められるものとして同じじゃないかと私は思います。つうかこの基本条件を満たしていないとビジネスとして成立させるのは難しいと考えます。これを踏まえて既製マスコミが凋落傾向を示したのは、2つの条件への信用の揺らぎのためと私は素朴に考えています。なんちゅうか良質の取材と思い込んでいたのが、かなり杜撰な仕込み記事であったり、信用できる情報整理者と信じていたら、しばしば恣意的な偏向を平気で示しているです。

もっと信用を落とした点は、そういう批判に晒されても悪しき手法を懲りることなく繰り返し遊ばされたところでしょうか。批判を受け止めず、「一部の誤解者」とか「あれはネットの別世界」とか嘯かれ続けられた点でソッポを向かれた点は小さくないと思っています。ネット情報の充実は、チャチな記事のメッキぐらいは容易に剥がされる事に、なかなか気が付かず傷口を大きくしてしまった側面はあると思っています。


そこまで考えると、既製マスコミの枠組でも劣化した条件を改善すれば十分に再生の可能性はあるはずです。ここで手遅れかどうかについては長くなるので省略します。今日のテーマは新マスコミを指向するものの傾向です。どうにも彼らは基本条件の充実には必ずしも熱心でない気がしています。とにかくスローガンとして

    既製の打破!
これしか唱えていない気がどうしてもします。既製の打破事態は悪いとは言いませんが、打破する方向性がピントハズレの気がしてなりません。「既製は悪」と唱えるとなんでもOKみたいな感じさえ受けます。言ったら悪いですが小手先のケレンで新奇さを狙っているようにしか私には見えません。

確かにネット時代が来て、個人でも質の高い情報発信を行なう者は増えたと思います。増えたとは思いますが、個人による情報発信は千差万別も良いところで、それこそ玉石混交のカオス状態です。そういう個人発信の情報を無秩序にかき集めたところで屑箱にしかならないのは既に実証済みかと思います。必要なのは玉石混交のカオスの中から必要な情報をピックアップする努力と能力です。お手軽に個人の情報発信をかき集めて「新マスコミでござい」が通用するほどビジネスは甘くないです。

この方向で新マスコミの成立を狙うなら、それこその人海戦術が必要です。その手間と経費に見合うだけのビジネスモデルが確立されないから未だに成立しないわけであり、アイデアとしてのネットの中の個人発信情報をかき集めるだけでは周回遅れも良いところの発想です。求められるのは如何にビジネスに乗せられるピックアップ・システムを確立するかにあります。


この傾向の延長線上で、新マスコミのチャレンジャーは伝播の方法の工夫に偏る傾向が著明です。とにかく目新しい方法で注目を集めようです。ネット時代に相応しい新たな手法にチャレンジするのは意欲的と評価できますが、どうにも単なる思い付きの域をでないものが多い気がしています。私も軽くですが検証した試みもチャチさに失笑物も良いところです。あれから情報を集めてみましたが、

  1. ニュースソースは既製メディアが既に報じた物のかき集め
  2. これを引用と称しての無断利用
確かにニュース・ソースを横断的に興味の持ったニュースを集める点では新しい着想かもしれませんが、それが何故従来行われていなかったかに考えが及ばないようです。ニュースも著作物であり、引用を行うにもすべて著作権法に則り行なう必要があります。これは既製打破とは無関係のものです。むしろ言論人の生命線、財産に関る分野です。こんなものを安易に打破してもらったら困ります。記者クラブの寡占とは別次元のお話です。

そのために既製メディアは努力されています。通信社からはある程度の著作権付きでニュースを買っています。これをやっているから転載もある程度の範囲の書き直しも報道機関は可能なわけです。引用時も何故に紙面をボードに貼りつけ、枠で引用個所を明示しているかです。さらにその後にコメンテーターに一定の時間必ずしゃべらせるかも考えた事がないのでしょうか。すべては著作権との整合性のためです。なんか本気で通信社であれ、他の報道機関のニュースであれ、報道されたものは自由に誰でも使えると思っていたフシまで窺えますから処置無しの気がします。


またこれも厄介な試みでネットの特性を活かした双方向性に力を入れようともされています。発想としては悪いとは思いませんが、非常に厄介な試みであるのは間違いありません。双方向性で得られるのは賛辞や賛同だけではないと言う事です。立場が違えば、はっきりとした異論反論も当然でてきますし、もっと程度の低い誹謗中傷の類も容易に渦巻きます。これに対応するのは半端ない体力と精神力と時間が必要です。

双方向性が高いほどプチ炎上程度は日常茶飯事となり、そこにしばしばの大炎上も起こります。現在のネットの双方向性につきまとう負の部分です。世の中は穏やかな善人のみで構成されているわけではなく、小骨の多い人物、一言居士、とにかく反骨の人、なんにつけ難癖つけまくる人、人を揶揄するのに快感を覚える人、釣り師、粘着、荒らし・・・ネットもまた社会の縮図と言うより社会その物であり、なおかつ本音がより噴出しやすいツールであると言う事です。

だから双方向性の試みは厄介であり、これを上手く運用するのは至難と言う事です。なんちゅうても注目度が高まるほど負の側面も強くなるのがネットの特性ですから、これをどうにかするモデルが待たれているわけです。とにかく双方向性であれば既製打破であり、これで新しい試みなんて底の浅い構想では到底無理と言うところぐらいです。


報道はネット時代になっても報道ビジネスの基本は変わっていないと思います。もう一度書きますが、

  1. 良質の取材をして良質の情報を集める
  2. その中でも必要な情報を手際よく選別し提供する

これがまず出来ていないと、如何なる新マスコミの試みであろうとも挫折すると私は思います。斬新な発想と思いつきは似て非なるものです。ネット時代は情報を発信する者と、それを受け取る者の距離を劇的に縮めましたが、縮んだから情報発信側に都合が良くなった訳でもありません。むしろ上記した2条件の達成ハードルはより高くなったとさえ思っています。チャチなやっつけ仕事では寄って多寡って化けの皮を剥がされてしまうです。

私は小手先の芸を練磨するのが新マスコミの方向性とは思えません。ネット時代と言う新たな環境で2条件を充足させたところこそが次の時代の覇権を握ると予測しています。まあ、私の予想とて当たるも八卦、当たらぬも八卦程度ですから、そこのところはヨロシク。