社会の木鐸

新聞を始めとするマスコミが自負するところです。無知なる一般大衆が気づかない社会の危機や危険を、賢明なるマスコミが警鐘を打ち鳴らす事だそうです。そういう時代もあったかもしれませんし、文字通りの行動をしている部分も現在でもあるかもしれません。それでも最近は違和感を覚える事の方が多くなっている気がします。

人権保護法案だったか人権擁護法案だったかの中でマスコミ規制条項があり、マスコミはこぞって反対の声を上げています。マスコミ側の主張を読めば、権力側の恣意的な運用部分があまりに多く、報道の自由や権力の監視の役割が大いに損なわれると書かれており、そこだけ読めば正しい主張のような気がしますし、同調は出来ます。

ところがこんなマスコミ規制案が浮上したのは、マスコミサイドの過剰報道の産物である事をどれだけ自覚しているかが疑問です。桶川ストーカー殺人事件のようなマスコミの取材による良い例もありますが、一方でその他の事件でどれだけの被害を撒き散らしているかの論評には、ほとんど触れる事は無いのです。天秤に懸けると良くない例が遥かに多く、ごく稀の効果的な例は、まぐれ当たりのように感じてしまうのは私だけでしょうか。

私の本音ではマスコミ規制は反対ですが、現在のマスコミの姿勢では、この条項が削除されると「お墨付き」となり、ますます増長する危険性のほうを懸念します。そんな事を一般人である私にも感じさせてしまっている事がマスコミの怠慢であると見ます。

マスコミとは何かの立場をもう一度責任者は考え直す必要があります。今でもマスコミはかなりの信用を一般大衆から得ています。新聞に書かれた事、テレビで報道された事をそのまま真実であると信じる人間は少数派でありません。報道そのものが世論を誘導しているのも否定しきれない事実です。

それぐらいの権力を許しているのは報道機関が「社会の木鐸」であり「公明正大」であるという前提があるからです。しかしその前提が静かに崩れようとしています。どうも信用できない、世論操作をしている、意図的に真意を捻じ曲げていると感じ、それを主張する人々が確実に増えています。

新聞、テレビを始めとする報道機関はどれだけ危機感を感じているかが疑問です。彼らの驕り高ぶった目には「無知なる大衆を啓蒙指導してやっている」との感覚しかない様に思えてなりません。彼らが「正しい」と判断した事は絶対の決定であり、これに従わないものに報道による社会的制裁を加えるのは「正義」であると信じて疑っていないように思えます。

そんな報道姿勢に背を向ける人間は日一日と増えています。そういう連中は例外だと報道機関は多寡を括っているようですが、これが臨界点まで達すれば報道不信と言う名の報復を社会全体から見舞われる事をどれだけ自覚しているのでしょう。

臨界点はそんな遠くの時期ではないように感じています。それまでに衿を正し、本来の意味での「社会の木鐸」の精神に回帰しないと、どれだけの事態が待ち受けているか、これは報道機関にとっても存亡の危機になるのは当然ですし、私たち一般大衆にとっても大いなる不利益を蒙る事は間違いありません。

誰か改革者は出てこないものかと憂慮しています。