メディア・スクラムと公共性に関する当該業界の自主対応

もうやめようと思ったのですが、拾ってしまったので書いておきます。一応二部構成ですが、最初の方は新聞協会の見解を支障なく全文引用するための努力と解釈してください。それなりにツッコミを入れていますが、とにかく全文をまず読んで欲しいと言う事です。キモの考察は後半部です。お急ぎの方は新聞協会の見解をリンク先で読まれた上で、後半部の分析・考察を読まれても良いかもしれません。


集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解をまず読む

これは2001年12月6日第609回編集委員会によるものとされ、新聞協会HPの声明・見解として掲載されています。分割しながら紹介してみます。

 事件や事故の際に見られる集中豪雨型の集団的過熱取材(メディア・スクラム)に、昨今、批判が高まっている。この問題にメディアが自ら取り組み自主的に解決していくことが、報道の自由を守り、国民の「知る権利」に応えることにつながると考える。こうした認識に立って、日本新聞協会編集委員会は、集団的過熱取材にどう対処すべきかを検討し、見解をまとめた。

    この問題にメディアが自ら取り組み自主的に解決していくことが、報道の自由を守り、国民の「知る権利」に応えることにつながると考える
メディア・スクラムの問題は2001年段階で新聞協会も対応を考えないといけないぐらいに重視されていたと事が確認できます。見解を出した時点から既に10年以上が経過している事もまた確認できます。また見解だけ出して何もしていないわけではなく、2002年4月18日に第613回編集委員会の決定として「集団的過熱取材対策小委員会」の設置要領も発表されています。具体的に見解に沿ってメディア・スクラムを自主的に解消する姿勢を示していると見れます。

 集団的過熱取材とは、「大きな事件、事故の当事者やその関係者のもとへ多数のメディアが殺到することで、当事者や関係者のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう取材」を言う。このような状況から保護されるべき対象は、被害者、容疑者、被告人と、その家族や、周辺住民を含む関係者である。中でも被害者に対しては、集団的取材により一層の苦痛をもたらすことがないよう、特段の配慮がなされなければならない。

ここはメディア・スクラムの定義が書かれています。

    大きな事件、事故の当事者やその関係者のもとへ多数のメディアが殺到することで、当事者や関係者のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう取材
ここも読みようですがメディア・スクラムが及ぼす被害として、
  1. 当事者や関係者のプライバシーを不当に侵害
  2. 社会生活を妨げ
  3. 多大な苦痛を与える
この3点を挙げています。とくにメディア・スクラムはプライバシーの侵害も惹起しうると認めています。この点を留意しておいて保護対象は、
  1. 被害者
  2. 容疑者
  3. 被告人
  4. その家族や、周辺住民を含む関係者
このうちとくに被害者は別格とする補足があり、
    中でも被害者に対しては、集団的取材により一層の苦痛をもたらすことがないよう、特段の配慮がなされなければならない。
先日、犯罪被害者等基本計画案(骨子)に対する意見書を紹介しましたが、ここでの実名報道の定義は犯罪被害者のみとなってましたが、このメディア・スクラムへの見解(以後は見解と略します)ではそういう限定はなく、あらゆる被害者全般となっています。犯罪被害者等基本計画案(骨子)に対する意見書ではプライバシーの侵害が懸念される時には、
    当然、匿名
こうなっていましたから、実名報道の結果、メディア・スクラムが発生しプライバシーの侵害が起これば報道側の責任もあると・・・解釈出来るのかなぁ?

 集団的過熱取材は、少数のメディアによる取材である限り逸脱した取材でないにもかかわらず、多数のメディアが集合することにより不適切な取材方法となってしまうものだ。また、事件・事故の発生直後にとくに起きやすく、そのような初期段階での規制は必ずしも容易ではない。

ここはメディア・スクラムの特徴が書かれていると解釈します。非常に興味深い分析で、

    多数のメディアが集合することにより不適切な取材方法となってしまうものだ
よくマスコミの不手際と記者個人は分けて考えるべきだの主張があります。私もレッテル貼りで一絡げにするのは好ましくないとは思います。私が存じ上げないだけで、きっと立派な記者もおられるはずだと思っています。ところがそういう記者がいても集団になると豹変するのがメディア・スクラムの特徴であるとしています。個人の問題と言うより、メディアが集団化する時に起こる非常に避けにくい現象であるとしています。


次はメディア・スクラムの定義、特徴を踏まえた上での具体的な対策が書かれています。

このため、取材現場を必要以上に委縮させないということにも留意しつつ、次のような対応策をまとめた。

 すべての取材者は、最低限、以下の諸点を順守しなければならない。

  1. いやがる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではない。相手が小学生や幼児の場合は、取材方法に特段の配慮を要する。
  2. 通夜葬儀、遺体搬送などを取材する場合、遺族や関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮するとともに、服装や態度などにも留意する。
  3. 住宅街や学校、病院など、静穏が求められる場所における取材では、取材車の駐車方法も含め、近隣の交通や静穏を阻害しないよう留意する。

この3つは「最低限」の遵守事項としています。繰り返すようですが、12年前の2001年にはこの見解は出されています。それとマスコミに波及条件を求める事が出来るのかどうかは全く持って自信が無いのですが、集団取材の時だけではなく、個別取材であっても常識的には適用される条件かとも個人的に思います。もちろんマスコミ界がどう解釈しておられるかは知る由もありません。

 不幸にも集団的過熱取材の状態が発生してしまった場合、報道機関は知恵を出し合って解決の道を探るべきであり、そのためには、解決策を合同で協議する調整機能を備えた組織をメディア内部に持っておく必要がある。調整は一義的には現場レベルで行い、各現場の記者らで組織している記者クラブや、各社のその地域における取材責任者で構成する支局長会などが、その役割を担うものとする。解決策としては、社ごとの取材者数の抑制、取材場所・時間の限定、質問者を限った共同取材、さらには代表取材など、状況に応じ様々な方法が考えられる。

対応方法の具体性はともかく私が興味深かったのは、ここに書かれている対処法はあくまでも、

    不幸にも集団的過熱取材の状態が発生してしまった場合
一方でメディア・スクラムが発生してしまうのは、
    事件・事故の発生直後にとくに起きやすく、そのような初期段階での規制は必ずしも容易ではない
2つを合わせると、メディア・スクラムはメディアのサガとして止めようがない自然発生現象であり、起こる事自体は太陽が東から昇るが如く不可避なものであるとしているのでしょうか。メディア・スクラムによる弊害も列挙されていましたが、これを根絶する事は無理であると明言し、起こってしまってから対応するしかないとしているようにも読めます。私の曲解かもしれませんが、気になるところです。

 また、現場レベルで解決策が見いだせない場合に備え、中央レベルでも、調整機能や一定の裁定権限を持った各社の横断的組織を、新聞協会編集委員会の下部機関として設けることとする。

 集団的過熱取材の被害防止は、各種メディアの一致した行動なしには十分な効果は期待できない。このため新聞協会としては、放送・雑誌など新聞以外のメディアの団体に対しても、問題解決のための働きかけを行うことを考えたい。

 なお、集団的取材であっても対象が公人もしくは公共性の高い人物で、取材テーマに公共性がある場合は、一般私人の場合と区別して考えることとする。

 われわれは今後も、必要に応じ見解を見直し、集団的過熱取材問題に適切に対応していきたいと考えている。各取材現場においても、記者一人ひとりが見解の趣旨を正しく理解し、この問題の解決に取り組んでほしい。

この部分で注目すべき記述があります。

    なお、集団的取材であっても対象が公人もしくは公共性の高い人物で、取材テーマに公共性がある場合は、一般私人の場合と区別して考えることとする。
ここについては次で考えてみます。


分析・考察

新聞協会の取材対象とメディア・スクラムについての考え方を表にしてみます。

取材対象 一般私人 公人もしくは公共性の高い人物
具体的保護対象 あり 「区別して考えることとする」だけで具体的な記述なし
具体的対策 あり
対策委員会 あり


ここで公人もしくは公共性の高い人物ですが、とりあえず公人は置かせて頂きます。考えたいのは私人と公共性の高い人物の違いです。公共性の高い人物には但し書きがついてまして、
    取材テーマに公共性がある場合
ここでそもそも論なのですが、マスコミが取材テーマとするものはどういう選択基準であるかの問題があります。大建前論になるかもしれませんが、その出来事(事故・事件など)を報道し、多くの人に伝える事に社会的意義を認めた時とするのが妥当です。言い切れば取材テーマにその出来事を取り上げた時点で、十分に公共性があるとも言えます。そうでない記事は例外を除いてほぼ無いと考えます。

そう考えるとマスコミが取材テーマにした時点で公共性は既に存在しているとの解釈は成立可能です。その上で公共性の高い人物について2つの解釈が出てきます。

  1. 取材テーマに公共性があり、なおかつ取材対象が公共性の高い人物
  2. 取材テーマに公共性があるから、取材対象は公共性の高い人物になる
どちらの論理をマスコミは選択しているかです。これについては天災被害者の実名報道基準で取り上げたエピソードが参考になります。これは台風15号で川に流されて行方不明になった出来事についてのものです。ここでのNHKと遺族のやり取りからですが、

僕が・・・「田舎の爺さんの名前が全国津々浦々に流れる事にどんな公共性があるのか?」と聞くと。
「公共性があるかないかは、NHKが決める事」と言い。

「町役場から名前を聞いて、警察では名前を伏せてあれば、親族の意向が働いている事位分かるでしょ?」
「おっしゃるとおりですが、公共性を優先しました。」

これは

    取材テーマに公共性があるから、取材対象は公共性の高い人物になる
こちらの解釈で動いている傍証の一つになると考えます。アルジェ人質殺害事件も参考になります。この事件で朝日新聞は遺族をペテンにかける行為を行いましたが、この行為自体にマスコミ側からの批判は乏しいところがあります。つまり公共性のある取材テーマであり、公共性の高い人物になっているから、扱いは公人同様のものになり、その程度のペテン行為はたいした問題にマスコミ的にはならないの見方です。

もう少し傍証を加えると、歌舞伎町火事や広島のラブホ火事の時の実名報道問題もあります。これらの時にマスコミは実名報道に執拗に拘っただけではなく、とくに歌舞伎町火事では警察要請を振り切って実名報道を行なった事に報道の大義を持ち出していました。こういう行為は一般私人対象であれば考え難いところですが、マスコミ論理では

    公共性の高い人物になっており、公人と等しい扱いを行うのがルールである
これに基づいていると解釈できます。実名報道問題は今日はちょっと置いておきますが、公共性の考え方・適用範囲についてはそうなっていそうだと判断します。そこまで考えると面白い構図が出来上がります。表にしてみます。

一般私人 公共性の高い人物
分類基準 取材テーマにならない 取材テーマになる
取材規制 各種基準を打ち出している 「別扱いにする」としているだけである
実質 取材・報道とは関係ない 取材・報道対象になる


マスコミが取材テーマにした瞬間に出来事は公共性がまず生じます。それだけでなく出来事が公共性があるものなので、取材対象の人物は公共性の高い人物に速やかに変わり、公人と同様の「別扱い」となります。こういう定義の中で一般私人は取材テーマにそもそもならないわけですから、そもそもメディア・スクラムは発生の余地すら乏しい事になります。


曲解であるとの反論もあるかもしれませんが、2001年にとにもかくにもメディア・スクラムに対する規制基準を業界の自主ルールとして発表しているわけです。そこから10年以上も経っても、メディア・スクラムによる報道被害は「さほど」変わらず発生しています。私が覚えている範囲では新型インフルエンザに関してもメディア・スクラムは結構あったと記憶しています。

しかし新聞業界の基準に当てはめると、新型インフルエンザと言う高い公共性のある取材テーマであり、取材対象は当然のように公共性の高い人物となり、公人と同様の業界ルールの自主規制の対象外になりますから、「あれは自主規制対象のメディア・スクラムに当たらない」の解釈が成立していると考えます。そいでもって業界ルールを適用すればメディア・スクラムは2001年以降は激減していると主張することも可能です。そういうルールだからです。

さすがにプロの言論人が叡智を集めて作られた自主規制で、実務に影響が少ない点と言う点では見事すぎるものです。そういう点ではさすがとしか言い様がありませんが、なんとなく自分で自分の首を締めている気がしないでもありません。もっとも幾ら自分の首を首を締められても他人事ですから御随意にです。そういう業界であるとして扱わざるを得ません。なんとかしたくとも第四の権力者様ですから、一般私人がどうにか出来るものではないのが実感です。