日曜閑話65

今日は金曜ですが祝日なので前倒しで日曜閑話とさせて頂きます。テーマは「古代史散歩」です。


日本の古代史の第1級資料は古事記日本書紀です。それは誰もが認めるのですが難点はそれしかないこと。これが無謬に近ければ良いのですが、そうでもないのもまた良く知られています。正しい部分もある一方でそうでもない部分が結構多いです。そうなってしまった理由として藤原不比等の影響が多大とされています。不比等は趣味で日本書紀を編纂したのではなく濃厚な政治意図をもって編纂しています。藤原氏鎌足の時に中大兄皇子天智天皇)と組んで大きくなりますが、壬申の乱大友皇子大海人皇子天武天皇)に敗れると衰退の危機に立たされます。

天武天皇は奈良朝を開きますが筆頭後継候補の草壁皇子皇位を継ぐことなく亡くなります。当時の皇位継承と言うか家督相続法は血統主義に加えて実力主義の色合いが濃かったとして良いと見ます。天武天皇の妻であった讚良皇女は自分の子である草壁皇子が無理ならその孫の軽皇子に継承させたいの強い願望を抱きます。これは当時的にかなり無理があるもので、他の皇位継承候補者の強い不満を起こします。これを封じるために讚良皇女は自らが皇位持統天皇)を継いで軽皇子文武天皇)が成長するまでの時間稼ぎを行います。

そういう時期に不比等は持統に取り入ったと見て良さそうです。不比等が献策したのはおそらく嫡々継承の理論的正当化です。日本の皇位は昔から嫡々継承である事を歴史的に証明する作業とすれば良いでしょうか。そのために公式の歴史書である日本書紀が編纂されます。日本書紀の編集テーマは、

  1. 万世一系の証明
  2. 持統−文武継承のための女帝先例の創作
日本書紀に異論が出たら困るので、日本書紀編纂と同時に他の歴史書をすべて葬り去ります。この葬り去る作業が徹底していたために後世の私たちは実際がどうであったかが判らなくなってしまっています。それとそういうテーマで編纂される一方で創作以外の事実例もしっかり織り込まれています。そりゃ全部が創作では理論書・歴史書としての信憑性が無くなります。そのために歴史ロマンをあれこれ推理する余地が残されているとしても良いかもしれません。そうそう、上記した事も私の仮説部分が大です。ここは歴史閑話ですから自由に進めますが今日のテーマは日本書紀の編纂テーマである「万世一系」「母孫継承」は実はなかったの話です。つまり無かったから不比等が作ったです。


日本書紀の偉人の1人に聖徳太子がいます。聖人としても伝承される人物なんですが、私はこれに該当する人物は存在しても聖徳太子自体は存在しなかったの説を取っています。聖徳太子推古天皇摂政として活躍した事になっていますが、よくよく考えれば非常に不自然です。推古天皇皇位継承の話はともかくとしても、聖徳太子の政治力は卓越しています。その上に聖徳太子は臣下の実力者ではなく「太子」すなわち皇位の正統継承者の地位にいます。推古天皇は実質的に日本最初の女性天皇とされていますが、推古天皇後の女性天皇も役割的には皇位の「つなぎ」的な地位であり、より相応しい男性皇位継承者が現れればこれを譲るものです。

推古天皇が女性でありながら、たとえば卑弥呼のような位置にいる実力者であればまだしもなんですが、聖徳太子摂政、つまり天皇になり代わって政治権力を行使する立場にいます。この摂政と言う地位が「どうも」なんですが日本初のようです。少なくともそれまでに頻繁に現れる地位ではありません。時代が下ると天皇の権威を借りての政治形態がポピュラーになりますが、この時代の天皇は直接の統治者であるのが常識で、摂政を立てて自分の能力の不足を示すなんて事はありえないぐらいでしょうか。

さらに言えば太子の地位と言うのは実は微妙です。天皇の地位の重いこの時代では男性天皇であっても太子の勢力が大きくなるのは好まれません。自分の地位を脅かす者として排斥されかねないと言うところです。そのため天皇が健在のうちは行動は控え目にします。太子といえども天皇の地位を巡る権力闘争ではライバルになってしまうです。そのため後継者が立てられない事も珍しくありません。天皇から見れば危険な存在になり、皇位を狙う者にとってはウッカリ太子になったりすれば権力闘争に巻き込まれて殺されかねないてなところです。

それなのに聖徳太子摂政になり権力を存分に揮った事になっており、なおかつ太子の地位のままで生涯を終えます。だから聖人として今も崇められていると言えますが、非常に不自然な状態とも言えます。ここは聖徳太子天皇であったと考えるのが自然です。この点について古代史に珍しく資料的裏付けがあります。隋書倭国伝です。聖徳太子の行った事業の一つとして遣隋使があります。この遣隋使の記録が隋書倭国伝に残されています。この遣隋使ですが日本書紀では1回となっています。小野妹子が使者となり

    日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや
これで有名なものです。ところが隋書にはそれ以前にもう1回記録されています。つまり遣隋使は2回あったと言うことです。年も記録されており、
    第1回遣隋使・・・開皇二十年(600年)
    第2回遣隋使・・・大業三年(607年)
600年は日本書紀によると推古8年、607年は推古15年にあたります。でもって第2回の607年は日本書紀にも記載されています。注目すべきなのは日本側の天皇の名前です。
    第1回遣隋使・・・倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる
    第2回遣隋使・・・その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢
「阿輩雞彌」(文字化けしてたらゴメン)は「オオキミ」と呼ぶことで見解は一致しているそうです。でもって天皇の名前は第1回も第2回も
    多利思比孤(タリシヒコ)
すなわち男性名です。ここはごく素直に男性天皇皇位にあり遣隋使を派遣したと受け取るべきかと考えます。天皇が男性であった傍証はさらにあり、第1回遣隋使が隋の皇帝に話した天皇家の様子があります。

王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六〜七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ

推古女帝に妻がいるのは不自然です。当時の男性実力者で天皇になれそうなのは聖徳太子以外にありえないになります。これを覆すためには相当無理な解釈を重ねないと難しくなります。また隋書の記録が聖徳太子時代である傍証もあります。これも600年の第1回遣隋使の記録として良いかと思いますが、

内官には十二等級あり、初めを大紱といい、次に小紱、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)

歴史好きならこれだけでピンとくるところで、聖徳太子が定めた冠位十二階そのものです。実は冠位十二階も日本書紀の記録では年代が微妙にずれwikipediaより

日本書紀』によれば、 推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に始めて制定された冠位である。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階の冠位が制定された。

隋書と書紀の冠位の順番が違う面もありますが、ひょっとすると正しいのは隋書であったかもしれません。まあ制度が微妙に変遷していたのかもしれません。それでも遣隋使が日本書紀推古天皇時代に行われ、この時期に冠位十二階制度が存在していた事が確認できると思います。


この時代にはもう一人の大実力者が存在します。蘇我馬子です。教科書的には崇仏派として排仏派の物部守屋と争いこれを滅ぼしたことが有名ですが、その後に崇峻天皇擁立・暗殺、さらには推古天皇擁立し聖徳太子のバックアップ役に回っているぐらいで良いかと思います。馬子がとくに活躍したのは推古天皇擁立までですが、擁立後の馬子の存在感がチト薄いのが前から気になっていました。日本書紀的にも推古即位後は聖徳太子の時代になります。これもやはり不自然な気がします。

簡単な権力闘争のお話で権力者は並び立たないのが宿命です。権力闘争は地位向上、ライバルの排斥が原則ですが、一方で権力闘争に参加したからには常に戦い続ける必要もあります。躊躇したら今度は排斥される立場に追い込まれるからです。最終的にはライバルを悉く退けNo.1になるしかないとすれば良いでしょうか。馬子はその原則に忠実に従い物部守屋を滅ぼし崇峻天皇を暗殺し、傀儡とも言える推古天皇を擁立しています。蘇我氏皇位に登れないのであれば臣下のダントツNo.1として君臨するはずです。そのなるために馬子は戦ってきたはずです。

ところが推古時代になり聖徳太子が台頭すると馬子は退く傾向を示します。これも違和感バリバリです。仮に馬子が太子の政治能力を認めたとしてもこれを立ててバックアップに退くなんて事は権力闘争の原則からしてありえないです。ましてや太子は摂政であり大臣の馬子の上に君臨する形になります。太子の権力基盤は推古になりますが、推古は馬子が擁立した傀儡で怖くもなんともないとすれば言いすぎでしょうか。太子を傀儡にして裏で権力を握るの解釈は出来ない事もありませんが、傀儡ならば推古一人で十分で太子まで立てての二重の傀儡にする必要はどこにもないと考えます。

聖徳太子推古天皇」は上で考察しましたが、ここはもう一歩進めるべきだろうと考えます。絶大な権力者は1人で良いわけで

こう考える方が筋が通りやすくなります。つまり馬子が権力闘争の末に天皇となり、憲法十七条や冠位十二階も定め、遣隋使も派遣したです。これなら隋書の「多利思比孤」の謎も妻や後宮の話にも矛盾しなくなります。そう、推古女帝も聖徳太子も存在せず馬子のみが存在したのが史実だったんじゃないかと。


畿内には王権があったのは間違いないでしょうが、王権を継承する王家は一つでなかったのが実相と考えています。王家も元は1つだった可能性もありますが、分家、分家で複数の王位継承資格家が並立していたと考えています。古代の継承は嫡子相続が確立しておらず、兄弟相続も多く、さらに叔父とか甥が浮上する事は珍しくもありません。つまり資格者として血統主義はあっても、継承するのはその時の実力者の慣習です。この相続法は延々と日本で続き、いわゆるお家騒動が頻発しています。南北朝の騒乱がダラダラと長引いたのもこれが原因の一つですし、応仁の乱の原因としても大きいと思っています。

蘇我氏もまた王位継承資格家の一つであったと考えるべきと思います。日本書紀に現れる物部氏や大伴氏もまたそうなのかもしれません。とくに蘇我氏は馬子の時代に強大になり天皇家そのものみたいな状態であったと考える方が自然な気がします。しかし日本書紀の編纂方針は万世一系であり、天皇家本体は神武以来一貫しておく必要があったと考えます。日本書紀が伏せたかったのは現在の天皇家蘇我天皇家を滅ぼして取って代わった事です。ですから蘇我氏は臣下でなくてはならない事になります。蘇我天皇がいたのでは万世一系が怪しくなります。蘇我氏の存在自体を抹消してしまうのも一つの方法ですが、蘇我氏と言うか馬子天皇の功績は大きく消し去る事が出来なかったと考えています。冠位十二階や憲法十七条もそうですし、遣隋使なんかもそうです。

そこで大規模な脚色を行ったと考えています。馬子天皇を消し去ると同時に「持統−文武」正統説の話も盛り込んでしまったぐらいです。まず行ったのは女帝の存在の創作です。先例がある方が持統天皇の正統性にプラスになります。その上で馬子天皇の正の業績を担う存在として聖徳太子を創作します。さらに蘇我氏が滅ぼされる必然の理由として負の業績を担う馬子、さらには蝦夷・入鹿を創作したぐらいです。ちょっと陰謀論に走りすぎと言われそうですが、隋書に傍証はあります。

王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六〜七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。

女帝である推古に妻はいないので「聖徳太子推古天皇蘇我馬子」説の傍証にしていますが隋書には太子の名も記されています。日本書紀通りなら太子の「利歌彌多弗利」は聖徳太子になりますが、「多利思比孤」同様に日本書紀から消え去った名前になります。これが馬子天皇であるならストレートに蘇我蝦夷になります。日本書紀では「推古 − 舒明 − 皇極」と続いている事になっていますが、実際は「馬子 − 蝦夷 − 入鹿」であったぐらいです。


北九州王権

大和王権の大元は神武東征伝説にあるように九州からの遠征軍と考えています。九州と言うより北九州王朝からの派遣軍と言うか、植民地開拓軍ぐらいのイメージでしょうか。古代の先進地は大陸や半島との交流があった北九州であるのは間違いないからです。遠征は成功し畿内大和王権が成立したぐらいの理解で良いかと思っています。これが卑弥呼と関連するかどうかは置いときます。この大和王権の本家とも言える北九州王権はどうなったかです。これも隋書に片鱗が窺えます。

翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

竹斯国は筑紫と読んでも差し支えないと思いますから、大和王権の勢力下に置かれていたと考えて良さそうです。ただなんですがwikipediaで気になった記載として、

推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。

もちろんこれは日本書紀の記載に基づくはずですが、新羅への遠征軍の主力はやはり北九州から集められたと考えたいところです。チト強引かもしれませんが、蘇我氏は北九州にも大きな勢力基盤があったんじゃなかろうかです。つうかここはもう一歩飛躍させて、蘇我氏は北九州王権由来の氏族ではなかろうかです。何を言いいたいか判りにくいと思いますが、大和王権が北九州王権を支配下に置いたのではなく、北九州王権が大和王権支配下に置いたんじゃなかろうかです。

この北九州王権支配に対する反乱が乙巳の変じゃないかです。この変は蘇我入鹿宮中暗殺事件から蘇我氏本家滅亡に至るものを指しますが、構図としては北九州王権支配に対する大和王権側残党のクーデターと私は考えます。大和王権側から見ると正統性の奪還であり、天智・天武への回帰は正統性回復の正義です。同時に蘇我氏支配は大和王権側の黒歴史にもなります。万世一系日本書紀の編纂方針にも反しますから、真っ黒に塗り潰した上に新たな全く違う歴史を書き込んでしまったぐらいです。


改新の詔

これは乙巳の変後に皇位に付いた孝徳天皇が発したものです。教科書でも有名な大化の改新の始まりにもなります。wikipediaから

  1. 罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘
    (従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する)


  2. 初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河
    (初めて京師を定め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする)


  3. 初造戸籍計帳班田収授之法
    (初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする)


  4. 罷旧賦役而行田之調
    (旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする)

一般に氏族国家から唐風の中央集権による律令国家への変革政策とされています。そういう部分もあったかもしれませんが、違う見方も出来そうな気がします。第1条に注目したいのですが、

    従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する
これはかなりでないぐらい強硬な政策です。明治維新版籍奉還から廃藩置県に匹敵するほどの大改革です。明治の時はすんなり進みましたが、通常は大反発が起こります。そりゃ、乙巳の変中大兄皇子側に付いた豪族の所領まで召し上げてしまうとする政策になるからです。ですから実際にはそんなに徹底して行われなかったの検証がいくつもあるようです。これも見方を変えたいと思います。乙巳の変大和王権残党による政権奪回と考えたならば、蘇我氏の勢力圏であった北九州を含む地域への占領地処分政策ではなかろうかです。

私も良くわからないのですが改新の詔勅の第1条の冒頭にある「罷昔在天皇」は天皇の事を表現するのにかなり素っ気ない表現にも解釈できるそうです。素っ気なく扱える天皇とは「馬子 − 蝦夷 − 入鹿」と続いた蘇我天皇の事を指すと私は見ます。蘇我天皇が設けてきた「屯倉」および、蘇我系氏族の「部曲の民と各地の田荘」をすべて没収するぐらいの意味合いです。これは北九州から畿内のかなりの部分を指す広大な地域であったんじゃなかろうかです。そして没収すると同時に唐風の律令制度を導入して管理するぐらいの意味合いです。もう少し見方を変えると大和王権による北九州王権版図の吸収合併政策です。

一方でクーデター時の大和王権豪族系の「部曲の民と各地の田荘」は温存されたと考えます。そりゃそうで、ここまで敵に回したら中大兄皇子のクーデター政権は吹っ飛びます。


クーデター政権側の中心人物である中大兄皇子は改新の詔に始まる大化の改新政策を推し進めたとして良いかと思います。ただ反発は強かったと思います。反発は旧蘇我系占領地にも起こるでしょうが、クーデター参加組にも起こったと見ます。旧蘇我系版図を吸収した中大兄皇子の権力は肥大化しますが、クーデターに参加した豪族への恩賞はそれに較べて遥かに少ない不満です。それだけでなく自分の領地にも律令制が押し寄せる懸念が強くなったぐらいです。権力を握った者はかつての味方であっても、「次」のライバルとして警戒し勢力の弱体化を図りたがるものです。ましてやクーデター政権ならなおさらと言ったところです。そういう反発や不満を中大兄皇子は強権をもって抑え込む方針を取っていたんじゃないかと推測します。

強権で不満を抑えてはいましたが、それだけでは限界があると見て行ったのが外征じゃないかと見ます。為政者の常套手段です。でもって白村江です。この外征で勝っていれば中大兄皇子の威権が増して強権政策をさらに推進できたはずですが、目論見はもろくも崩れ敗北します。そういう不満勢力をうまくまとめたのが大海人皇子じゃなかろうかです。大海人皇子を支持する勢力は強く、とくに白村江以降は強大になったぐらいの想像です。天智天皇大海人皇子を取り込もうとしたり、逆に排斥しようと動いたりしますが、下手に手を出せば内乱必至のために手を拱く状態に陥ったぐらいに見ています。滋賀遷都も大海人皇子対策の一環だったかもしれません。両者の抗争が臨界点に達した時に天智天皇崩御します。天智天皇の死については昔から異説があり扶桑略記には、

一云 天皇駕馬 幸山階觶 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害

この記述の信憑性は疑われてはいますが、そういう異説が出るぐらいの情勢の険悪さがあったぐらいに私は受け取ります。日本書紀にある馬子による崇峻天皇暗殺が仮に史実とすれば、天武も権力奪取のために天智を暗殺しても構わないわけです。ただ暗殺はダーティ・イメージを政治的には植えつけます。だから天武も不比等もこの事実を伏せたかったです。一方で天武天皇天智天皇をかなり仇敵視していたのは間違いないと見ます。天皇諡号の多くはそれこそ古事記日本書紀編纂時に作られたものが少なくありません。また慣例として諡号は後を継いだ天皇が先の天皇に贈るものです。「天智」と見ても知らなければ良い諡号に見えます。しかし天智の由来はwikipediaより、

殷最後の王である紂王の愛した天智玉

殷の紂王と言えば夏の桀王と並び称される中国の暴君の事を指します。殷の紂王で有名なものとして酒池肉林、炮烙の刑が今でも語り継がれています。実際はどうであったかの話はさておき、諡号選定では当然そういう故事に因んで「天智」が選ばれています。天智天皇が殷の紂王なら天武天皇諡号の解釈は簡単になります。紂王を滅ぼしたのは周の武王です。暴君紂王になぞらえた天智天皇を倒したのは、聖天子の一人に数えられる周の武王になぞらえた天武天皇であるの意味です。天武にとっても乾坤一擲のクーデターであり、暗殺でもなんでも取れる手段はすべて駆使したであろうぐらいでしょうか。


天武の再びのクーデター後は奈良時代になります。政治的不満とは面白いもので、不満の象徴的な人物を倒し、政策を若干手直しする程度で落ち着くことがしばしばあります。それと天武は天智と違いライバルの徹底排斥を行わなかったと見ます。天武にとって天智系皇族は仇敵みたいなものですが妻の持統がそもそも天智系であり、天智系皇族は冷遇されながらも奈良期を生き延びます。そして天武系皇族が死に絶えた後、再び皇位に返り咲き今に至るとして良いかと思います。他の氏族にも似たような処遇を示した可能性を考えます。あえて後世に例えれば天智は信長的なポジションで活躍し、天武は秀吉と家康的なポジションで奈良期の繁栄をもたらしたぐらいでしょうか。

奈良期も陰湿な権力闘争は繰り返されていますが、壬申の乱以前とは大きく違うところがあります。壬申の乱以前は皇位を巡る直接の権力闘争です。これが奈良期以降は臣下No.1を巡る宮廷内闘争にレベルダウンした印象です。理由は様々でしょうが、これも天武の政策の結果なのかもしれません。天武は権力維持のために諸豪族の力を認めました。認めたが故に臣下である諸豪族の力が伸び、やがて天皇は傀儡化してしまいます。傀儡化はしますが、そのお蔭で権力闘争のレベルが傀儡を操縦できる臣下No.1が実質の闘争の終着駅になったぐらいです。

たぶん天智はそうではなく天皇が一身に権力を掌握できる中国型の皇帝を目指したと考えています。これを天武が軌道修正したぐらいです。天智型であれば天皇の権力は強大にはなりますが、強大過ぎるが故に権力闘争のターゲットになり、どこかで天皇家は滅ぼされ新たな天皇家が出来ていたかもしれません。ちょうど蘇我天皇家が滅ぼされたり、天智天皇家が滅ぼされそうになったりしたのと同様です。そういう事態を結果として回避できた点を考えると天武の政策は良かったのかもしれません。

歴史の流れを考えると壬申の乱をもって最大権力者である天皇の地位を直接争う時代は終了し、以後は天皇の下の実質No.1を争う時代に移行したぐらいでしょうか。この辺で今日の古代史散歩は休題とさせて頂きます。