17年前からある新聞協会のオフレコ取材原則

昨日でエエ加減この問題から離れようと思ったのですが、こういう時に限ってネタを拾ってしまうので執念深く続きになってしまいました。食傷気味と思いますが、勢いつうか、乗りかかった船ですから御了承下さい。


新聞協会の見解

これは新聞協会HPの声明・見解にあるもので、1996(平成8)年2月14日付とあり、実に17年前のものです。

わかりやすいタイトルなのですが今日は全文一挙引用してみます。

 日本新聞協会編集委員会は、昨年、オフレコ取材内容が外部のメディアなどに流れ、問題となったことから、オフレコ取材のあり方を再検討し、同問題に対する見解をまとめ、その基本原則を確認した。

 オフレコ問題に関する日本新聞協会編集委員会の見解

 最近、閣僚や政府高官などの取材をめぐり、いわゆるオフレコの扱いが相次いで問題となり、とくに昨年末、江藤元総務庁長官のオフレコ発言の一部が外部の他メディアなどに漏らされたことは、取材記者の倫理的見地から極めて遺憾である。オフレコ(オフ・ザ・レコード)は、ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法で、取材源を相手の承諾なしに明らかにしない「取材源の秘匿」、取材上知り得た秘密を保持する「記者の証言拒絶権」と同次元のものであり、その約束には破られてはならない道義的責任がある。

 新聞・報道機関の取材活動は、もとより国民・読者の知る権利にこたえることを使命としている。オフレコ取材は、真実や事実の深層、実態に迫り、その背景を正確に把握するための有効な手法で、結果として国民の知る権利にこたえうる重要な手段である。ただし、これは乱用されてはならず、ニュースソース側に不当な選択権を与え、国民の知る権利を制約・制限する結果を招く安易なオフレコ取材は厳に慎むべきである。

 日本新聞協会編集委員会は、今回の事態を重く受けとめ、右記のオフレコ取材の基本原則を再確認するとともに、国民の知る権利にこたえるため、今後とも取材・報道の一層の充実に力を注ぐことを申し合わせる。

この見解が出された契機となったのは、

    とくに昨年末、江藤元総務庁長官のオフレコ発言の一部が外部の他メディアなどに漏らされたことは、取材記者の倫理的見地から極めて遺憾である。
17年前の「昨年末」ですから1995年の末の事になります。具体的にはどんな件だったかはwikipediaよりお手軽に、

1995年8月、村山改造内閣総務庁長官に就任するが、同年11月、朝鮮半島に対する日本の植民地支配に関し「日韓併合は強制的なものだったとした村山首相(当時)の発言は誤りだ。植民地時代に日本は悪いこともしたが、良いこともした」というオフレコ発言を巡り、批判され長官を辞任した。

植民地発言と同じ頃、大田昌秀沖縄県知事によるアメリカ軍用地強制使用手続きの代理署名拒否問題が起こった際、宝珠山昇・防衛施設庁長官が、オフレコで村山富市首相を「頭が悪い」などと批判して辞任するなど、メディアがオフレコを報じるべきか報じないべきかをめぐり、その場にいた記者が江藤の「ここから先はオフレコで」という発言を認めていながらオフレコの内容を報道したこととあわせて当時論争になった。

wikipediaには「当時論争になった」とはなっていますが、新聞協会の見解ではハッキリと、

    取材記者の倫理的見地から極めて遺憾である
こう結論付けているのが確認できます。倫理的見地についても具体的に書かれており、オフレコ取材のマスコミ側の扱いとして、
    取材源を相手の承諾なしに明らかにしない「取材源の秘匿」、取材上知り得た秘密を保持する「記者の証言拒絶権」と同次元のものであり、その約束には破られてはならない道義的責任がある。
報道に従事する者として絶対の大義であるとされる「取材源の秘匿」「記者の証言拒絶権」と同等の「道義的責任」と位置付けられています。あえて平たく言えばオフレコ破りは報道関係社に取っては犯してはならない倫理的・道義的大罪であると表明していると誤解の余地なく確認できます。かなり明快な表現、文章だと私は思います。

オフレコ取材は報道として発表できないものにものになるため、オフレコ取材自体を可能な限り慎むべしとの文言も加えられていますが、そこはともかくオフレコ破りが報道機関にとって重い大罪として扱う見解がはっきり出されているのがわかります。このオフレコ取材の定義みたいなものも見解には書かれています。

    オフレコ(オフ・ザ・レコード)は、ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法
長くも無い見解ですが、私が読む限り取材源側に関する制約は書かれていません。昨日のメディア・スクラムの見解であった一般私人、公人、公共性の高い者の区別はないと見てもよいかと存じます。メディア・スクラムへの見解にあえて照らし合わせても、メディアスクラムでは私人と公人(及び公共性の高い人物)では公人より一般私人の方が重く扱われています。

オフレコ取材の見解の例には明らかに公人のものであり、公人に対してこれだけオフレコ破りの倫理的・道義的責任を重く取っているのですから、一般私人についてはなおさらと考えても良いかと存じます。一般私人より公人が重いか軽いかは不明ですが、取材源としては区別無くであると私は素直に受け取りたいと思います。


17年間のオフレコ破りの記録

まずは簡単にwikipediaより、

  • 2002年6月 - 内閣官房長官福田康夫非核三原則の見直しについてオフレコで発言し、問題視された。
  • 2003年7月 - 内閣官房長官福田康夫が、強姦について「裸のような格好をする女性も悪い」とするオフレコ発言が報じられて、国会質問でも取り上げられる。福田自身は答弁でこのオフレコ発言を否定した。
  • 2009年3月 - 内閣官房副長官漆間巌西松建設事件の検察捜査の見通しについてのオフレコ発言が問題視された。新聞報道等では、懇親会のオフレコ発言に関する扱いのルールに従い、「政府高官」として匿名で報じたが、政治問題化したことから河村建夫官房長官が実名を明かした

2011年7月に松本元復興大臣のものも出ていましたが、これについては取材源側がオフレコを求めてはいますが、取材側が認めていないのでオフレコ破りには該当しないと取るそうです。他に私が覚えている物として、2011年9月の鉢呂元経済産業大臣の「放射能つけちゃうぞ」発言もオフレコであったとされます。後はググってみると2011年11月の田中元沖縄防衛局長の発言を巡る報道もオフレコであったとする話も有るようです。

こういうオフレコ破りが繰り返される背景についてwikipediaでは、

共同通信後藤謙次は、オフレコ発言であっても時期を置けば公表できるタイミングが、長年の取材により政治家との呼吸で分かるという[3]。元産経新聞記者の福島香織も、自社で報道しなくても週刊誌に情報を流したり、別に取材して同一情報が得られれば報道したりで、完全オフレコが守られないこともあるとしている[4]。その他にも、外部へ漏らさないとなっているオフレコ発言が、政治記者によって別の政治家に筒抜けになっているケースもあり[5]、ジャーナリストの岩上安身は、オフレコの記者メモが権力闘争の道具に使われたり、官邸に集められることで政治部の記者が諜報機関の役割になっていることを指摘する[6]。

新聞協会の見解は17年前でのものですが、新聞協会に属していない人間はともかく、属している人間であってもオフレコは判断によっては破っても良いものの考えがある事をうかがわせます。


アルジェ人質殺害事件の朝日新聞

この事件では日揮も、政府も被害者氏名を公表しない方針を取っていたのは周知の事です。これに対し朝日記者が遺族に接触し、「許可無く実名は報道しない」の約束の下に被害者名を聞きだしたとされます。でもってこれを大々的にスクープとして報道しています。これについての遺族の話は信用が置けると判断しています。朝日の取材方法は、

    ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける
これに該当するかと存じます。そうなると明らかなオフレコ破りであり、新聞協会の見解に照らし合わせれば、
    その約束には破られてはならない道義的責任がある
道義的責任の重さは新聞協会の見解では「取材源の秘匿」「記者の証言拒絶権」と同等のものとされ、これらを破ったのと同じぐらいの責任が生じると解釈可能です。つうか他に取りようがありません。


でも軽そう

私は良く存じませんが、記者が「取材源の秘匿」なり「記者の証言拒絶権」を破ったなら業界的に記者烙印が速やかに押される気がします。それぐらいの矜持は記者ならあるとさすがに思っています。ではオフレコ破りはどうでしょうか。新聞協会の見解はあっても、実質的に凄く軽い気がしています。朝日の記者が社内でどういう扱いを今受けているか知る由も在りませんが、朝日が重大視して厳重な処分(懲戒免職でも不思議と思いません)を下したとの情報は存じません。

内々で処分している可能性もありますが、記事は記者だけが書くわけでなくデスクや編集局長も含めた共同責任作業です。記者が懲戒免職相当の重大処分を受けたのであれば記事に関った上司だけでなく、社長までの責任問題となると考えるのが妥当です。報道倫理としての道義的責任の重さから言えば、変態新聞事件に十分に匹敵する、考え様によってはそれ以上とも私は思うぐらいです。そうなれば公表の上での幹部処分が発表されるべきとも考えます。

そういう情報はアルジェ事件だけではなく、1996年の見解発表以降に確認されているオフレコ破りでも記憶に全く存じません。ひょっとしたら、マスコミ業界特有の処分である「懲罰的昇進」が行われているのかもしれませんが、確認の術は無いと言うところです。


もっとも「取材源の秘匿」にしろ「記者の証言拒絶権」にしろ守れなくても違法行為とは言えません。また新聞協会にあるのもあくまでも見解であって、実効性を担保する第三者委員会等も設置されていません。あくまで「そうするべきだ」と発表してるに過ぎないとも言えます。まあ見解の文尾も、

    右記のオフレコ取材の基本原則を再確認するとともに、国民の知る権利にこたえるため、今後とも取材・報道の一層の充実に力を注ぐことを申し合わせる。
これはオフレコ破りがあっても「申し合わせ」が不十分であっただけに効力を留めるための「申し合わせ」と読めない事もありません。そうでなければ17年も前の見解がここまで軽視され続ける理由が思い浮かばないぐらいが正直な感想です。それでも無理やり他の理由も推測すると、
  1. 17年前の「申し合わせ」であるため、当該報道機関幹部が退職等でいなくなり、伝承の系譜が途絶えた
  2. 17年前の「申し合わせ」内容は時代の変化のために有名無実となり、重要視される見解ではなくなっている
  3. 最初から書いてあるだけであった
どれが真相なのか? マスコミ業界事情の「常識」について疎い私にはトンとわかりません。これもまたあえて言えばBugsy様からですが、

「国民のレベル以上の政治家や政府は その国には持てない」ならば「国民のレベルと同等以上なマスコミも持ちえない」でしょう。

悲しい話ですが、お後が宜しいようです。