ツーリング日和18(第13話)潮原温泉

 秋吉台から秋芳洞に寄らずに国道四三五号でまずは山口市に。ここが終点のはずもなく、中国山地の山の中を西へ、西へとひた走り。そう言えば国道一九一号と離れてからずっと山の中を走ってる。

 山口市から吉賀町ってところに入った頃にはさすがにウンザリしてた。だってだよ、今朝は九州の新門司にいたんだよ。どれだけ走ってるんだって話だ。ついでに言えば一昨日は神戸のバーで飲んだくれていた。

 それでも宿に近づいているはずなんだけど、この二人の宿選びのセンスも謎だ。湯村温泉の朝野家みたいな豪華旅館だって泊まる。壱岐の湯の本温泉の旅館も高級だった。だけど夕食無しの宿坊だって平気で泊まる。

『か弱い女の子だから』

 なんて言ってるけど、ライハだって泊まった事があるみたいだし、民泊だって、商人宿みたいな民宿だって平気で選ぶみたいだ。あの二人になりに選ぶ基準はあるのだろうけど、それが宿泊代でないのだけは間違いない。

 あの二人にとって一泊十万円だろうが、千円であろうが誤差の範囲みたいなもの。そりゃ、天下のエレギオンHDの社長と副社長だ。とはいうものの、だからと言って大盤振舞をするのじゃないのも知っている。

 来るときのフェリーだってそうだ、泊まろうと思えばスウィートだって良いはずだけど。個室とはいえバス無しの洋室だった。今日のお昼も瓦そばを予約してまで食べたけど、そこまでリッチかと言われるとそうでもない。あれぐらいなら、旅先のちょっとした贅沢の範囲に余裕で収まるのよね。

 持ち物もそうで、あれはウインドミルだ。バイク界ではブランドだけど、なんてことはない自社商品みたいなもんなんだよね。とにかく一緒にツーリングしてもセレブ感は乏しいと言うより無いとしても良いぐらい。

 そんなことはともかく今日の宿だ。あの二人が選びそうなのはまずは温泉旅館。これはユッキーさんが温泉小娘って自称するぐらいの温泉好きだから。でもさぁ、こんなところに温泉宿なんてあるのかな。それぐらいの山間の道だもの。

 温泉宿どころかホテルなり、旅館があるのかも怪しい気がしてるんだよ。まさかの野宿だとか・・・でもそれもない。あの二人のツーリング計画はそれはそれは綿密に練り上げてるもの。今夜だって予約されてる宿に向かっているはず。

 とはいえ遠いな。もう秋吉台を出発してから三時間は走ってるぞ。あの二人のツーリングの基本は早立ち早着き。なのにもう十六時を回ってんだよ。プランに問題でも生じてるとか。

 それについては心当たりはあるのはある。今回のツーリングにアリスが加わったのは、それこそ出発の前日だ。なんか無理やりみたいに連れていかれた部分もあるけど、アリスが加わったばっかりにの部分はあるはずなんだ。

 たとえば毘沙ノ鼻。本州最西端の地ではあるけど、あんなところは話のタネで一度行けば十分なはず。あそこに立ち寄ったのはすべてアリスのため。それを言い出せば角島だって今回の計画に入っていたかどうかは疑問だ。

「なにブツブツお経を唱えてるねん」
「それってオラショだとか」

 オラショってアリスは隠れキリシタンか。今日は朝の七時に出発みたいなものだから、さすがにヘバったのだけど、

「そうなるわな。これはユッキーが悪い」
「どうしてよ、コトリだってOKしたじゃない」
「もうちょっとや。事故せんときや」

 さっきから、もうちょっと、もうちょっとって言うけど、走ってるのは山間の道で広がってるのは田んぼばっかり。家だってあるけどコンビニどころかお店屋さんもないじゃない。こんなところに旅館とかホテルとかありそうにないよ。あっても。あれかな、自治体運営の合宿施設みたいなやつ。

「着いたで」

 はぁ、いきなり。あれって鉄筋のビルだけど宿屋だ。道路を曲がって正面に回り込むと、へぇ、これは立派だよ。こんなところにあると言ったら失礼かもしれないけど、あるのがウソみたい。

 正面に見える木造二階建ての建物が本館で右側の五階建てのビルが新館って感じで良さそう。本館が玄関みたいだから入るとこれはちゃんとしたロビーだ。新館の方に案内されたけど部屋だって綺麗だ。

「風呂やな」

 賛成。今日のツーリングの汚れを落とさないと。お風呂は新館の五階だけどここも立派だ。露天風呂もあるし、蒸し風呂とか、ジェット風呂とか、打たせ湯だってあるじゃない。広々してるし、窓からの景色も癒される感じだ。

 部屋に戻ると夕食だ。これは山の幸だ。当たり前か、こんな山の中で海の幸がテンコモリだったらビックリだ。メインは猪鍋で、お刺身はイワナと子持ちこんにゃく、焼き魚は山女魚か。あわび茸のステーキって初めてだ。

「ジビエの燻製もなかなかや」

 鹿肉と猪だって。それにしてもの宿だけど、

「飛鳥時代に鳥たちが傷を癒してるのを松川大然和尚が見つけたのが始まりよ」

 飛鳥時代って聖徳太子とかの時代だよな。発見者である松川大然和尚の石像もあったけど誰なの、

「コトリ、知ってる?」
「知らん」

 おいおいって言いたいけど開湯伝説ってやつだろうな。だったら江戸時代ぐらいから続くぐらいはあるわよね。

「それがはっきりしなくて」
「この旅館が始まったんが昭和九年らしいで」

 昭和九年っていえば一九三四年だから余裕で老舗だけど、その頃から一軒宿で今も一軒宿。どうもなんたら和尚が見つけた霊泉は古くからあって、万病に効くぐらいで飲まれていたみたいだけど、それを温泉旅館化したのが昭和の初めぐらいだったのかも。それでもこんなとこよ、

「広島県は温泉が少ないところなのよ」

 だから宮島観光にもセットで使われるってホンマかいな。いくらなんでもと思ってしまうけど、

「それぐらい広島県で温泉は貴重なの」

 なんかこの温泉をユッキーさんが選んだ理由が見えて来た気がする。ここも秘湯だ。秘湯って人里離れた山奥にあるってイメージになるだろうけど、もっと広げて考えるとあまり知られていない温泉でも良いと思うのよ。

 もちろん広島県ではそれなりに有名で、ホントに宮島観光でセットになってるかもしれないけど、他県の人間からすればまったく知られていないで良いと思う。場所だって国道沿いにある温泉だけど間違いなく秘湯だ。

 でもこれだけの設備と食事だから高いのだろうな。秘湯だからって安いわけじゃないもの。逆に人気が出てしまった秘湯の宿って、ボロっちいのにやたらと高いところもあったはず。

「料金か! 平日やったら、今食べてる料理グレードアップで一万二千百円や」

 ウソでしょ、冗談でしょ。神戸のビジホで素泊まりしたって五千円ぐらいするよ。東京だったらもっとのはず。ビジホはシーズン変動が大きいけど前に泊まったビジホなんて、

「それはしゃ~あらへん。世の中は需要と供給から成り立っとるのが基本や。たとえ十万円だしてもビジホに泊まる需要があれば料金は成立するねん」
「都市部、とくに東京なら固定資産税も桁違いだからね」

 それはそうなんだけど、なんだか複雑。

「東京なんか住むだけで高いとこや。そやけど住みたい人間はなんぼでもおるやんか」
「そうだよ、高い費用を払っても住む価値がある人は多いってこと。アリスの商売だってそうでしょ」

 うぐぐぐ、それは否定できない。オンラインで自宅でもやり取りできる部分は増えたし、それでなんとかなってるから神戸に住んでるけど、東京に引っ越したい誘惑は常にあるのよね。東京での華やかそうな暮らしに憧れがあるのは否定しないけど、それよりリアルで取引相手と顔馴染みになる関係を築けるのは大きいもの。

「まあそうやろ。なんぼオンラインの時代になっても、商売の基本は人と人との間で築き培った信用や。オンラインではあれは無理や」
「株取引とは違うからね」

 アリスは元寇映画のシナリオで一流の仲間入りはしたと思っている、ここまで来れば目指すのはトップの座。ここを目指すには神戸に住んでいたら限界がありそうに感じてる。でも、でも、健一は神戸で仕事がしたいのはわかってる。

 だから東京進出はあきらめていたのだけど、風向きは変わっちゃった。健一の関係がなくなればアリスを縛るものはなくなるのよ。そうだよ、これは人生の転機かもしれない。アリスだって女の幸せをどこかで望んでいたし、健一と一緒になることでそれが叶いそうにも思ってた。

 でもやっぱりアリスに女の幸せは似合わないのかもしれない。アリスは家庭的な女じゃない。シナリオを書くために生まれた女で、アリスの人生の成功はそこがすべてだ。

「アリス、人の幸せって主観なのよ。たとえ大金持ちになっても本人が満足しなければ幸せじゃないし、なんとか食べられる生活でもそれに満足し幸せを感じれば十分なのよ」
「これも言うといたるわ、後悔はなるべく残したらアカン。どうしたって後悔は残るもんやが、残さずに済むもんやったら残さん様に努力しとくべきやと思うで。そやな、結果的に後悔になっても、残さん様にした努力をするんは大事なこっちゃねん」

 結婚まで思いつめた健一にはタップリ過ぎるほどの未練はある。そう、これで終わりにして良いかって未練だ。でもさぁ、でもさぁ、ああなってしまったものをどうやったら良いと言うのだ。

 健一の両親には頭からダメ嫁の烙印を押されてしまってる、押したい理由は悔しいけどアリスにだってわかるところがある。それぐらい自分の事はわかってるつもりだ。そりゃ、強引に押し切って結婚も出来るだろうけど、その後のことを考えるとロクなものが思い浮かばない。

「人生には幾つもの岐路があるのよ。岐路にさしかかった時に選択に誰だって悩むものよ。でも選べるのは一つだけ。それもやり直しは利かないものがものが多い」
「その選択かって、その時は完璧と思うても、後から失敗やと思う事なんて山ほどあるわ。そやけどな、それでも選ばなあかん時はあるねん」

 さすがはエレギオンHDの社長と副社長の話だと言いたいところなんだけど、こんなに悩んで、こんなに真剣な気持ちなのよ。語ってる人生訓みたいな話の内容はともかく、ビールをラッパ飲みしながら語るなよな。

「それは悪かった」
「ラッパ飲みは御行儀悪いものね。ちゃんとグラスに注ぎましょう」

 あのなぁ、グラスに注いだって、注ぐ側から一気飲みしてたら同じでしょうが!

「喉乾いてるねん」
「わたしもなの」

 どれだけ飲んだら乾きがおさまるって言うんだよ。それにこんな時に部屋の電話ってもしかして、

「こんな話するのに、ちょっと足りんな。猪肉十人前追加や」
「あわび茸のステーキとジビエの燻製も五人前ずつ」
「ビールも一ダース」
「中瓶だから足りないよ。二ダース持ってきて」

 こいつら・・・人の深刻な悩みを酒の肴にしやがって。