ツーリング日和5(第24話)講義

 店が軌道に乗り始めた頃から佐伯さんに飲みに誘われるようになっています。まさかデートの誘いかとビビった部分はありましたが、行ったらエライ目に遭いました。形としては夕食を頂きながらお酒を飲むなのですが、実態は甘いものではありません。

「経営とは・・・」

 そうなのです。経営哲学、経営理論、経営のための具体的なノウハウなどなど、ひたすら実践経営学みたいなものの講義です。これが会っている間にひたすら続きます。合間の雑談すらほとんどありません。

 これも一回限りじゃなく、次もあるのですが、佐伯さんは前回の講義をボクが理解し、把握できているか質問攻めにされます。理解とか把握が十分でない部分があったりすると、ガチで徹底的に教え込まれます。

 佐伯さんと飲みに行った後は、佐伯さんの講義内容を思い返し、必死になって復習します。これをサボると再教育の地獄が待っています。ですから何を食べているのかわからないようなものですし、聞き漏らせば大変な事になりますからお酒も舐める程度しか飲んでません。ですから、

「今日は飲みに行きます」

 こう言われた夜は地獄宣言になります。最初は妙な勘違いをしている人もいましたが、実態がわかってからは、

「シェフ、お気の毒に」
「御同情申し上げます」
「生きて帰って来て下さい」

 行かなければならないボクが、一番ショボンとしてますけどね。まるで屠殺場に連れて行かれる子羊みたいなものです。ただのシェフのボクにそこまで学ぶ必要があるかを聞いたこともありますが、

「オーナーの意向です」

 これで切って捨てられました。佐伯さんからオーナーの言葉出れば、それは絶対であり、最終決定であるのは十分に学習しています。ボクも懸命取り組んではいるのですが、佐伯さんはお気に召さないようで、

「どうして、これぐらい・・・」

 どうにも頭に馴染みにくいと言うか、それ以前に受け付けないと言うかで、肌に合わないと言うか、根本的に受け付けない部分が巨大すぎるのです。ぶっちゃけ心がアレルギー状態になっています。

 アレルギー状態ですから、講義が苦痛で、苦痛だから余計に拒否感が強くなって、覚えも理解もグダグダの悪循環になっています。そりゃ、ボクだって将来独立して経営に携わる可能性もありますから、覚えておくべきぐらいは思っているのですが、どうにもこうにも状態です。

 そういう様子は佐伯さんもわかっているとは思うのですが、オーナーの意向は佐伯さんにとって途轍もなく重いようで、ボクにとっての地獄の時間は果てしなく繰り返されるみたいな悪循環に陥っています。


 昼間はあのキツイ態度に辟易し、夜は地獄の講義で責め上げられるのはウンザリも良いところだったのですが、佐伯さんへの見方が変わる出来事があったのです。あの日は改良ケーキの研究を仕事が終わってから試行錯誤していました。

 さすがに疲れたので、この辺で切り上げることにして、事務室の前を通りがかった時です。部屋の中から佐伯さんの声が聞こえたのです。電話をしているようですが、いつもの佐伯さんと様子が違うのです。

 悪いとは思いましたが、そのあまりの違いに立ち聞きしてしまったのです。それぐらいいつもと佐伯さんの声の様子が違ったのです。

「・・・それがお申し付けなのはわかっております。現状でも十分に売り物になりますし、かつてのドゥーブル・フロマージュは完全に再現されております・・・」

 口調から電話の相手はオーナーらしいのは察せられましたが、

「・・・まだ売り出せないとしていますし、それは私も賛成です・・・資金繰りについても十分承知しております。期限も承知しております・・・それはごもっともですが・・・」

 経営に関する内容なのはわかりましたが、あれだけオーナーの意向を絶対視する佐伯さんが、どう聞いても逆らっているとしか聞こえないのです。

「・・・ここまででも十分すぎる成果です。でもまだです・・・お願いします。なにとぞ、もう少しの御猶予をお願いします・・・」

 あの佐伯さんが必死の懇願状態です。

「・・・それもわかっております。ですが、ここは伸びる時期です。ここが大切な時期ではありませんか・・・ありがとうございます。必ずご期待に応えて見せます・・・ええ、もちろんです。そうなっても後悔はありません。この体と引き換えにしても責任は必ず取ります」

 ただならぬ電話はようやく終わりました。このまま立ち去るべきっだったかもしれませんが、あの切羽詰まった様子はただ事とは思えません。どうしても気になってしまい事務室に入ってみると、

「シェフ、まだいたの。まさか立ち聞きしてたとか」
「少しだけです。聞こえてしまったので」

 佐伯さんの顔は紅潮していますし、普段の口調と全然違います。

「聞かれちゃったのか。でも心配ないよ。ちゃんと納得してくれたから」
「でも責任を取るとか、ましてや体とか聞こえましたが」

 佐伯さんは渋い顔で、

「あれは物の例え。女が責任を最後まで取るとなると出ちゃっただけ。男ならマグロ漁船みたいなものよ」

 なんだよそれ、いくら物の例えとは言え、そこまでの責任の取り方は度を越えています。

「そんなに心配しなくとも、女の体だって責任を取れる体とそうでないのがいるよ。マグロ漁船に男でも無理なのがいるのと同じ。私ならマグロ漁船かな」

 このたとえも無理があり過ぎる。それに佐伯さんは余裕で責任が取れる体ですよ。

「それはありがと。シェフはね、自分の夢と理想に向かって進めば良いだけ。私はそれを阻もうとする者から守るためにここにいるのだから」

 この電話の一件でボクは佐伯さんに完全な信頼を置くようになりました。佐伯さんはオーナーの意向を受けて仕事をされていますが、それ以上に店の実情を踏まえてオーナーとも交渉してくれていたのです。

 あの電話だってオーナーの意向に完全に反しているものです。そのために佐伯さんがオーナーに課せられた責任の大きさはマグロ漁船並なのです。これは物のたとえじゃなく、本気でそれぐらいの責任を被っているに違いありません。

 佐伯さんも間違いなくボクらの仲間で、ボクらのために全身全霊をかけているのです。それがわかった夜でした。ですから夜の経営の講義だって頑張れる・・・・とは行きませんね。ありゃ、ボクには苦行でしかありません。