アカネ奮戦記:辰巳雄一郎

 辰巳雄一郎は写真家。その才能は小学生時代から神童と呼ばれ、高校卒業すると赤坂迎賓館スタジオに入門。わずか四年で師範まで取得しシンエー・スタジオに移っています。シンエー・スタジオに入ってからも西川流のプリンスとして注目され続け、三十歳になった時に手がけたのが西川流の大改革。当時の西川流はあまりにも行き過ぎたマニュアル化のために、

    『上達すればするほど、同じ写真しか撮れなくなる』

 この悪評が立ち人気を落としていました。辰巳は過剰なマニュアル化を大胆に削除し、二十段階以上にも別れていた段級制度を半分以下に簡素化します。その結果、西川流はカメラ技術の効率的学習法として再生しています。この功績により、辰巳は西川流の総帥として君臨することになります。

    「あの先が大事だったのだが・・・」

 西川流の系譜は、

    西川大蔵 → 竜ケ崎学 → 辰巳雄一郎

 こう受け継がれ、日本の写真テクニックの集大成とも呼ばれる事もありますが、

    「西川流が天下を制したことはない」

 常に強力なライバルが存在します。神戸のオフィス加納です。創始者西川大蔵には加納志織、二代目竜ケ崎学の時代からは麻吹つばさ、泉茜です。辰巳は打倒オフィス加納を三代目として胸に抱いていますが、

    「とにかく手強い」

 辰巳は西川流を大改革しましたが、ポイントは到達点の変更です。旧制度では創始者である西川大蔵の写真に限りなく近づくだけでしたが、それではオフィス加納に勝てないのです。そこで師範以上の者のエリート・コースを設け、辰巳は自らのシンエー・スタジオをその場にしました。

    「オフィス加納の真似では意味がないと考えたのだが・・・」
 オフィス加納は少数精鋭主義で弟子を育てます。この手法と一線を引くために辰巳は可能な限り多数の弟子を抱えることにしたのです。フォトグラファーは天才の道ですから、とにかく数の中から見出そうぐらいです。
 そのためシンエー・スタジオの規模は、これまで西川流総本山と見なされていた赤坂迎賓館スタジオも凌ぐものにはなりましたが、
    「出ないものだ」

 そこそこ一流クラスまでは出現するものの、麻吹つばさ・泉茜クラスは愚か、新田まどか・星野サトルにも遠く及びません。

    「余計な才能を持つのは出たが・・・」

 口に苦いものが走ります。辰巳は写真家であると同時に経営者でもあります。弟子の育成のためにもカネはいくらあっても足りません。そんな辰巳に弟子からスタジオ幹部になった築田が、

    『シンエー・スタジオの看板を使わせて頂いたら、新たな収益事業を起こせます』

 たいした話ではなく、支社を作る提案でした。ここでユニークだったのは、

    『都市部では飽和状態ですから、あえて地方に進出してみたいと考えています』

 こういう商売は都市部でこそ成立すると考えた辰巳ですが、つい築田の提案を承認したのです。築田は故郷の赤壁市に支社を設けました。築田は市長と結びつき観光写真利権を提案します。

    『田舎者相手に質で圧倒する計画です』

 こういう説明を辰巳は受け、これも認めています。たしかに負ける要素がどこにも見つけられなかったからです。築田は市長にコンテストを開かせグランプリを獲得すると、

    『これで赤壁市の観光写真はすべてシンエー・スタジオが独占できます』

 さらに築田は学校から市の関連施設までコンテストの結果に依るものにするのに成功しています。そこまではやり過ぎと辰巳は意見しましたが、

    『社長、赤壁市ではこれがポピュラーなやり方なのです。地方には地方のやり方があります』

 さらに築田は市長の相談役的な地位になっています。辰巳は深入りしている点を懸念しましたが、収益は堅調でしたから認めています。

    「スタジオ対抗戦になってしまっているのは気にはなっていたが・・・」

 築田の事業のカギはコンテストでのシンエー・スタジオによるグランプリ獲得です。これに勝ち続ける限り写真利権はシンエー・スタジオのものです。逆に言うともし敗れれば一挙に失いかねません。

    『市内の零細写真館に勝てる道理がありません』

 築田は参加資格も市長と組むことで巧妙に設定していました。参加資格は市内の写真館に限定する一方で、市内に写真館さえあれば、その系列の写真家の参加を可能にしていたのです。築田はこれにより、東京本社からいくらでも助っ人を呼ぶことに可能にしています。たしかにシンエー・スタジオに正面から刃向えるスタジオなど日本にほとんどなく、そんなところが赤壁市の小さな利権争いに絡んで来るとは予想さえ出来なかったのです。

    「それでも、やはり築田如きの口車に乗ってしまったのは失敗だった」

 築田のやり方が赤壁で不評なのは既に知っています。それだけではなく、東京にもボツボツ聞こえ出しています。そのために、

    『辰巳雄一郎は事業欲が強すぎる』

 この風評が立ち始めています。でも築田を切れないのは自分が認めてしまった事業であるのが一つ、さらにシンエー・スタジオ本社の経営の手腕も捨てがたいところがあります。

    「根っこは同じなのだが・・・」

 ここのところ同じところでグルグル思考が回ってしまう自分に苦笑しながら、

    「こういう事態になる可能性はあったのだ。これは自分で蒔いた種のようなものだから、自分で刈り取るしかないが、青島健の才能はタダ者ではない。築田ではかなり危うい、いや負ける公算が高い」

 とにかく負けられない勝負に追い込まれています。

    「いつかはオフィス加納と雌雄を決する気持ちはあったが、こんな形で実現するとはな。今回は前哨戦のようなものだが、青島健相手でもオフィス加納に土を付けるぐらいの意味はある」

 西川流創始者の西川大蔵は一世を風靡しましたが、加納志織に巻き返された後は明確な形でオフィス加納に勝ったことがないのです。不本意な部分もある勝負ですが、やるからには負けられません。辰巳はさらに情報収集を部下に命じます。

    「ちょっと妙なことが」
    「なんだ」
    「青島健が店番をしなくなってから若い女性が代わりに撮っています」
    「バイトだろう」
    「それがえらい評判のようです」

 辰巳社長は漠然たる不安を抱きます。

    「調べただろうな」
    「実際に支社の女性職員に行ってもらい撮ってもらっています」

 スクリーンに映される一枚のポートレート。辰巳社長だけではなく、会議室の全員が釘付けです。

    「こ、これは・・・」
    「なんて写真だ」
    「これが町の写真館の写真だと言うのか」

 じっと見つめていた辰巳社長は、

    「これはまさか、いやそうだ、他に考えようがない。加納アングル、違う、違う。これは加納アングルでさえない、これは渋茶アングルだ。これを見間違えるようなら辰巳雄一郎はフォトグラファーとして失格だ」

 ざわつく会議室ですが、

    「渋茶アングルなんてありえないです」
    「そうですよ、あれが撮れるカメラマンなんていませんよ」
    「偶然じゃないですか」

 そんな声を無視するように、じっと考え込んだ辰巳社長ですが、

    「青島健の指導に渋茶のアカネが付いている」

 ざわつく会議室。

    「まさか、泉先生にそんな時間が」
    「そうですよ、青島健は破門されてるのですよ」
    「たまたま撮れただけですよ」

 辰巳社長は睨みつけるように

    「じゃあ、誰がこれを撮れるというのだ。加納アングルを受け継いでいるのはこの世で麻吹つばさと泉茜、新田まどかしかいない。さらに麻吹つばさと泉茜はこれを独自に進化させている」

 これは写真家なら常識です。

    「西川流の総力を挙げても、未だに加納アングルのメカニズムは半分も解明されていない。西川流だけではない。世界中の写真家が研究に研究を重ねてもそうだ。おぼろげにわかっているのは、理を越えたところの感性に理を作りあげているらしいぐらいだ。こんなものがヒョイと撮れるものか。お前ら偶然でも撮れるか」

 静まり返る会議室。

    「それにだ、この写真は渋茶アングルだけではない、ここにも、ここにも、ここにも、ここにも、ここにもだ・・・これだけの工夫とアイデアが凝らされているのがわからんのか。全部計算尽くで撮っておるのだ。それも技巧が表に現れないようにだ。こんな芸当があっさり出来てしまうのは、麻吹つばさか泉茜しかおらん」

 しばらく考え込んだ辰巳社長は、

    「渋茶のアカネがわざわざ赤壁市に出てきて指導に当たっているとなると・・・」

 こう呟いてさらに考え込みます。

    「でも相手は泉先生ではなくその弟子です。心配し過ぎではないでしょうか」
    「それが油断だと言っておる。渋茶のアカネが来たのは青島に十分伸びる余地があると見たはずだ。そうでなければ、来るはずがない。それもだ、これだけ長期にだぞ。渋茶のアカネがどれだけの仕事を抱えているかを知らないわけではないだろう」

 泉茜がどれほどの売れっ子であるのは知り過ぎるぐらい知っています。

    「これは容易ならん。現地入りを早める」
    「では来週早々に」
    「バカを言うな明日からだ。渋茶のアカネがなんのために付き切りで指導していると思っているのだ。青島健が私に勝つ可能性があるからと見ているからだ。そうでなければ、神戸に連れて帰っている」

 ここで一人が、

    「審査員の買収工作を考慮されては」

 辰巳社長は苦笑いしながら、

    「油断はするなと言ったが、私を誰だと思っておる。そんな手まで使うほど落ちぶれていない。目指すのは文句の付けようのないフェアな勝利だ。可哀想だが完膚なきまでに叩きのめしてやる」