これは九年前にエレギオンに勤め始めてすぐわかりました。ルナも女王ですが、小山社長はまさに氷の女帝です。怖いのはもちろんですが、その判断力、実行力は驚異的だったのです。さらに社員はエレギオン・グループの精鋭部隊。最初はあまりの仕事のハイ・ペースぶりに戸惑わされたものです。
慣れて来るとわかるのですが、エレギオンHDには小山社長が絶対の信頼を置く三人がおり、合わせて四女神と畏怖されています。そう立花副社長、結崎専務、香坂常務です。彼女らは常人じゃありません。立花副社長はニコニコと微笑みながら、結崎常務は煌々と輝きながら、香坂常務は静かに穏やかに信じられない仕事量をアッサリとこなしてしまうのです。
だから下からいくら仕事を上げても滞るとことがまったくありません。それだけでなく、どうしたらわかるのか未だに不明ですが、彼女らはトラブルが起りかけているところが察知できるようで、さっと舞い降りて瞬く間に解消してしまいます。
そのうえあの美貌と若さ。マリーも定番の大失敗をやらかしました。入社の挨拶を小山社長にした時ですが、
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「六年ならまずまずね。ルナが仕込んでいるなら即戦力で期待してる。シノブちゃんのところでまずは見させてもらうわ」
「社長、シノブちゃんとは」
「結崎専務よ。話は通してあるから挨拶に行ってらっしゃい」
専務室には不在だったので秘書に聞いた所在地に向おうとしましたが、ちょっと迷ってしまい、制服姿の若い女性社員に案内を頼みました。腰の低い親切な方で部屋までわざわざ連れて行ってくれましたが、部屋に入った瞬間に何が起ったかわからなくなりました。部屋中の社員が一斉に立ちあがり、
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「おはよございます」
聞くと結崎専務でした。結崎専務はニコニコしながら、
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「名札は確認するように」
九年の歳月が過ぎ、マリーは出世階段を駆け上がって行き最高業務責任者(CBO)まで任じられました。社内の評判として実質的なナンバー・ファイブと見なされてますし、あの木曜会のメンバーに名を連ねるのも時間の問題とさえ言われています。
それだけの実績と能力を示してきた自信があります。今なら社長や副社長はともかく結崎専務や香坂常務に近い実力を持っているはずです。いや今ならマリーの方が上ではないかとさえ思っています。
そんなある日に社長に専務室に呼ばれました。ここも少し説明が必要なのですが、エレギオンHDには社長室も副社長室もありません、あるにはあるそうですが香坂常務は、
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「あの部屋は事情があって使えないのよ。お二人の悪さの度が過ぎたから」
それ以上は教えてくれませんでしたし、他の社員に聞いても詳しい事情を知る者はいませんでした。その代りに、専務室と常務室のところに紙が貼り付けてあって、
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『ユッキーとコトリのお部屋』
九年勤めても謎の多い会社です。それはともかく、
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「マリーに頼みがあるのだけど・・・」
聞くとトップ・フォーがそろって旅行に行きたいから、マリーにその間の留守番を任せたいが自信はあるかでした。
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「十五年前に長期バカンスを取った時にはシノブちゃんに任せたけど、かなり大変だったみたいよ」
これはあのクルーズの時のお話です。あの時は最終的に八十日に及ぶ大バカンスで、結崎常務にも聞いたことがありますが、
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「長かったから、ちょっとね」
でも今回は、
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「長期バカンスですか」
「そうねぇ、出来たら一週間ぐらいしたいけど」
社長が企画されているのは国内の温泉旅行。それも近場です。
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「できるだけ余分な仕事は回さないようにしておくし、もしマリーが無理だと感じたらSOSを送ってね。その時は旅行を中断して帰るから」
「御心配には及びません。安心して旅行を楽しんで来てください」
それはともかく、結崎専務が八十日間留守番しても出来る業務なら、一週間なんて楽勝のはずです。自信満々で留守番業務を始めました。これも内心ぞくぞくするほど嬉しかったのですが、留守番中は臨時の肩書ではありますが、
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『社長代行』
でも蓋を開けると初日から悪夢でした。働いても、働いても仕事は減るどころか溜まるばかり。社長代行として優雅にお昼休憩どころの話ではなく、日付変更線を越えても終りそうになかったのです。とにかくこの日は無理やり一区切りとして帰宅しています。
どこかに甘さがあったと反省し、翌朝は朝からあらん限りの気合を込めて仕事を始めましたが、状況は悪化するばかり。仕事はますます積み上がり、さらに昨日下した判断の問題点も次々に浮上し、その処理にも追われまくります。社長秘書も付いてくれていたのですが、
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「社長はいつもこれだけの仕事を」
「いえ、旅行をされるので三分の一ぐらいに絞られています」
げっ、
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「いつ寝ておられるの」
「たいがいは四時ぐらいに仕事は終られ、終業時刻とともに帰られます」
ヤケクソ状態で三日目に突入。状況はさらに悪化します。マリーのパソコンには、マリーが判断を下すべき仕事が次々と増え、ちょっとでも甘い判断を行ったものは突き返され、そっちの対応にも追われまくられます。少しでも仕事を減らすために、そのまま徹夜。四日目を迎えて秘書団は、
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「社長代行、僭越ながらご意見させてよろしいでしょうか」
朦朧状態のマリーは、
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「かまわないわ」
「社長代行は昨夜は一睡もされておりません。そんな状態では判断ミスが増える懸念があります」
懸念どころか、昨日下した判断で突き返されたものがうず高く積まれています。
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「社長はもし社長代行の業務に支障が生じた時には、我々に速やかな報告を求められております」
「まだ四日目だよ」
「はい、もう四日目です」
マリーにもプライドがあります。結崎専務が八十日間もこなせた業務なのです。たった四日で音を上げてどうするのです。
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「今日一日がんばらせて。それでダメたっら、自分で社長に連絡する。あなたがたが今の時点で報告しなかった点については、全部マリーが責任を取る」
しかし無駄すぎる努力になりました。状況はひたすら悪化するのみ。疲労困憊のマリーは、ついに決断しました。
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「小山社長、マリーです」
「どう、なんとかなってる」
「それが・・・」
「そうなの。それじゃ、しょうがないわね。明日には帰るわ」
翌日の昼頃には帰って来られ、
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「マリーも疲れてると思うけど、今後の参考になるかもしれないから、良ければ見ときなさい。これぐらいはルチーン・ワークだよ」
その日のうちにマリーが溜め込んだ仕事を綺麗サッパリ片付けてしまわれました。
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「今日はこの辺にしておくわ。明日はルチーン以外の仕事も片付けなきゃいけないしね。マリー、留守番ご苦労様。もう五時だから帰っていいわよ
やっぱり社長は人間じゃない。社長はディスプレイを五面並べて、これを猛烈な速度でスクロールさせてます。あれで何がわかるかとしか思えないけど、
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「これはダメ、やり直し」
「これは、さらにこうさせなさい」
ディスプレイを見ながら次々に指示が下って行きます。マリーも内容を確認させてもらったのですが、重箱レベルのことまで踏まえた指示が出ています。後日、香坂常務に聞いたのですか、
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「あそこまでの芸当が出来るのは社長と副社長ぐらいかな。シノブ専務や、ましてやミサキになるともう少し時間がかかるわ」
頼み込んで香坂常務の仕事ぶりを見せてもらいましたが、たしかに社長より遅いかもしれませんが、あれはどう見ても流し読みしてるだけ。あのレベルで完璧に仕事が出来ないとエレギオンHDの留守番なんて出来ないのを思い知らされました。
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「マリーもそのうち出来るようになるよ。社長も期待していたわよ」
期待っていわれても・・・あれが出来るから、あれだけの仕事量をこなせるのはわかるとしても、あれがどうやったら出来るのか見当さえつきません。四人は仕事に戻ると溜まっていた仕事をサラサラと片づけてしまい、
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「マリー、四日間も頑張ったのは根性ね」
これが褒め言葉とは思えませんでした。これじゃ、木曜会メンバーなんて夢のまた夢みたいです。もっともマリーへの周囲の評価はかなり違って、
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「四日間も四女神の仕事を代行出来たのはさすがだ」
実態はそうじゃなかったといくら説明しても、
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「自慢できる実績だよ」
立花副社長まで、
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「エエ経験したやろ。また五人で遊びに行きたいから、もうちょっと勉強しといてね」