浦島夜想曲:留守番のマリー(1)

 私はマリー・アンダーウッド。アメリカのセレクション・マートの創業者の一族の娘として生まれています。まあセレブってことになるのだけど、お嬢様扱いで終るのは耐えられなかったのです。それだけの才能はマリーにあるはずだし、それだけの成績を大学でも残してきたつもりでしたし。

 マリーの目標はエレギオンHDの小山社長。短期間のうちにアジアの無名アパレル・メーカーを世界三大財閥に育て上げた立志伝中の人。マリーの能力を活かすにはそこしかないはずとずっと考えていました。

 でもエレギオンHDにはまともには入れません。父だって社長だけど、父の口添えぐらいでは無理なのです。でも一度だけチャンスをもらったのです。プリンセス・オブ・セブン・シーズでクルーズしている時に偶然小山社長一行と偶然ですが知り合いになり、社長の秘書役をこなせたら入社させてくれるという話が出てきたのです。

 クルーズでお会いしてた小山社長も、立花副社長もひたすら楽しい人で、とりあえず秘書役といっても船内の先導役ぐらいです。ちょっと気まぐれなところこそあるものの、マリーは手ごたえを感じていました、たかが秘書役ぐらい出来て当然じゃありませんか。

    「そうだマリー、次のグラン・カナリア島のガイド役やってみる」
    「はい、是非やらせて下さい」

 香坂常務が心配そうにしてましたが、

    「ミサキちゃん、一人でやらせてね」

 グラン・カナリア島といっても小さな島です。社長と副社長の要望は盛りだくさんでしたが、しっかりプランを作りガイド役としてスタート。結果は無残なもので予定の半分も終らないうちにタイム・アップ。それどころか、乗船時刻にも遅れてしまうのは確実状態です。社長は、

    「ミサキちゃん、悪いけど、後は頼む」

 そこからの香坂常務は凄かった。不可能と思われた乗船時刻に鮮やかにセーフ。後で立花副社長に、

    「秘書ぐらい簡単って、マイケルに啖呵切ってたみたいだけど、秘書業務には色んな要素が入ってるんやで。秘書はどれだけ先が見れるか、どれだけ上司の行動・クセを把握してるか、そのうえでどれだけ上司をコントロールしてコキ使えるかが求められる業務なのよ」

 さらに重ねて、

    「今回のもそう。クライアントの要求を聞いたうえで、限られた時間内に、どれだけ要求を満たせるかが求められるってこと。これは経営者であっても同じよ。コトリとユッキーに付いて今まで何を見てたの」
 天狗の鼻をへし折られました。それでもマリーに足りないものを教えられたと思っています。それは実務経験。香坂常務はクルーズでは秘書役をされていましたが、マリーがグラン・カナリア島のガイド役を引き受けた時点で、マリーの失敗を予想し、どこで失敗してもフォローする準備を整えていたのです。


 帰国してから父に頼みました。どこかに武者修行に出してくれないかと。父は渋っていました。

    「実務経験ならセレクション・マートでも積める」

 そうかもしれませんが、セレクション・マートに居る限りマリーは社長の娘であり、お嬢様扱いされます。もっと厳しい世界に身を投じないとエレギオンHDに通用する実務経験はいつまでたっても積めないと強く感じていました。マリーの言葉に折れたのか父は、

    「ラブリエ食品に勤めないか」

 ラブリエ食品はフランスの食品大手です。フランスの会社というのが意外でしたが、アメリカにいる限りお嬢様扱いは変わらないはずですから、勇んでこれを受けることにしました。父は、

    「予めいっておくが、社長のルナは女王と呼ばれるぐらいのやり手だ。甘い気持ちを少しでも持っていたら叩きだされるぞ」

 これを聞いて、かえって望むところとフランスのルナのところを訪れたのです。紹介状をもって社長のルナのところに挨拶に行ったら、

    「あなたは仕事を舐めてるの。そのフランス語はなによ、ここはフランスよ」

 いきなりここから始まりました。これは相当な覚悟が必要と感じたものです。続けて言われたのが、

    「私は現場を知らない人間は役に立たないとしか見ていない」

 いきなり配属されたのは下町のスーパーの売り子。なるほど現場研修かと思って、

    「いつまでですが」
    「そうね、うちの売り上げナンバー・ワンになるまで」

 げっ、でも他に道はなくスーパーに向かいました。ルナは行く前に、

    「一つだけアドバイスをあげる、世の中は売ると買うから成り立ってるのよ。でもね、売りたいものと、買いたいものは同じじゃないよ」
 判じ物のような言葉で、客が求めるものをそろえて売るのが商売のすべてじゃないぐらいしか思えませんでした。でも、仕事に取りかかると、最初にルナに言われたフランス語の能力不足は思い知らされました。

 とにかくフランスでは英語が通じにくいのです。たとえ英語を知ってる人でも知らないふりをするという噂は当たってるとしか思いようがないぐらいです。マリーは売り子ですがある程度の権限は任せられていましたが、これでは部下とも客ともコミュニケーションを取るのに壁になります。もう必死になって覚えました。

 三ヶ月もすればかなりマシになってくれました。でも目的は語学研修じゃありません。フランス語を覚えるのは手段であって目的でないのです。それでも言葉の壁が解消してくれたので、売上戦略を立てられるようになってきました。

 とにかく売り上げを増やすには客に買ってもらうこと。買ってもらうには、客の欲しいものをそろえること。当たり前の話ですが、まずそれを追及していきました。試行錯誤はありましたが、段々に客の求めるものは見えて来ましたし、売り上げも確実に増えてくれました。

 でもルナから与えられた課題は一番になることです。毎月のランキングが出ますが、マリーの成績はベスト・テンにも程遠い状態です。原因も明白で、客単価が低すぎることです。限られた売り場で、限られた客相手では、今の戦略ではこれ以上は無理なのは嫌でもわかってしまったのです。

 小売で客が求めるのは安価、安価となれば薄利、薄利となれば多売と連動しますが、多売が成立するにはスケール・メリットが必要です。しかしマリーの受け持ち範囲でそれは無理。打開策を考え込む毎日でしたが、ここでルナのアドバイスが頭に甦ってきたのです。

    『売りたいものと、買いたいものは同じじゃないよ』

 そうなんだ、客が買いたいものだけでは、ここでの成績は限界があって、売りたいものを買わせる工夫が必要なんだと。ここからが大変でした。一時は売上トップどころか赤字が続き、嫌味と叱責を毎月にように受け続けたなものです。二年間の辛苦の末についにルナの課題を達成し、マリーはルナに呼ばれました。この時にルナは、

    「マリー、あなたのことはメグミから頼まれてる。あのメグミがこんな頼みごとをするのは聞いたことがないから驚いた」

 メグミって小山社長のこと?

    「あなたがエレギオンHDを目指すのなら、うちの仕事ぐらい余裕でこなせないと到底無理。なんとか第一関門を突破できたから、やる気があるなら鍛えてあげる」
 小山社長はルナに教育係兼試験官を頼んでくれてたのです。二年に渡った現場での売り子は、マリーに現場を知る事の大切さを叩きこむためのものだったと良くわかりました。

 ルナの経営戦略は計算づくの緻密なものですが、どう言えば良いか、計算し尽くせない余りを必ず含んでいるのが見えてきたのです。それが何かも今のマリーならわかります。商売は人相手のもので、そこに予想しきれない動きが必ずあり、そこへの柔軟性が必要だってことを。

 六年もする頃にはマリーはルナの右腕と見なされるようになっていました。ルナの分身とさえ言われるぐらいにです。そこでルナに言われました。

    「マリー、あなたに選択をあげるわ。このままここで働くのもよし、最初の希望通りエレギオンに行くのもよし。私はマリーを手放したくないけど、メグミの頼みだからね」

 さすがにこの選択は迷いましたが、

    「やはり夢を追います」
    「わかったわ、じゃあ、これが最後のアドバイスになるよ。メグミは私のように甘くないよ」