堀田道空ムック3

堀田道空ムックと銘打ってますが、今日は道空の話がメインでなく木曽川と中島郡のちょっとしたムックです。


堀田氏と舟運の関連を言及したのなら、やはり木曽川水運も調べておかないといけません。木曽の水運は木曽檜の搬出のため話がメインになるようで、最初は陸路で木材を輸送していたようですが15世紀に入って筏流しの方法が考案され、

    木曽のナー 中乗りさん
    木曽の御岳さんは ナンジャラホーイ
    夏でも寒い ヨイヨイヨイ
    ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
この世界が始まったようです。最古の文献記録は応永28年(1428)の円覚寺再建事業の時に2000本の丸太が木曽川を下り、桑名から鎌倉に運び込まれたものだそうです。この筏流しも最初から筏を組むのではなく切り出した地点では管流しと呼ばれる1本の丸太で流し、川幅が広くなる錦織で筏流しに組み替えるとなっています。錦織ってどの辺になるかですが、犬山からさらに上流で飛騨川と木曽川の合流地点のさらに上流地点になります。

一方の舟運の始まりは調べた範囲では不明ですが、筏流しより遥かに古いと見て良いはずです。記録としては江戸期のものが中心にならざるを得ませんが、木曽川舟運の始発点は尾濃村々由緒留には大脇・錦織・麻生となっているそうですが、ここまで舟運が遡ったのは17世紀以降らしいぐらいです。この辺はかなり上流なのですが、もう少し下った犬山あたりまでなら、もっと早い時期に舟運が行われていたと見て良いかと思われます。犬山の奥の上流部分は十石までの船だったようでが、明治初年の記録で犬山に近い前渡湊で三十石積船、笠松では六十石積船が使われていたとなっていますので案外大き目の船が使えたようです。

木曽川も暴れ川なんですが、流路も変遷しています。調べるのに難儀したのですが、

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元はかなり北側を主流路が流れており、これは現在の境川にほぼ近いようです。これが貞観年間(859〜877)の氾濫によって南寄りに流路を変え、さらに天正14年(1586)の氾濫で現在の流路が出来たとなっています。なるほど天正14年の前では木曽川は犬山からほぼ西に流れて長良川に合流していた事になり、これをもって美濃尾張の国境にしていた理由がよくわかります。これが天正14年の洪水後に南に下る流路になった時に秀吉の判断により、新たな流路で美濃尾張国境線を引き直しています。とりあえず堀田道空の時代は貞観流路であったのが確認できるので津島から美濃の舟運は

こんなルートだったんじゃないかと想像できます。美濃の川手は道三が稲葉山城を作るまで、土岐氏の都として栄えwikipediaより、

1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。

川手の繁栄を支えた物資が津島からの舟運で笠松に運び込まれていたと想像するのは許されるかと思います。



もう一つこの川筋がわからないと秀吉の有名な墨俣築城が見えにくくなります。前野文書には、

  1. 木曽川上流で木材を切り出して流す
  2. 川島村松倉(笠松の少し上流)で大工が木材を加工、ここから


    • 資材運搬斑は木曽川から境川(昔の主流路)に入り墨俣に
    • 建築道具・食糧運搬斑は木曽川南岸を通り、小起から木曽川を渡河し墨俣に
私の描いた地図にも限界があるのですが、犬山から流れ出た木曽川は七流とも八流とも呼ばれた主流路以外の分流があります。おそらく川島村松倉は流路に挟まれた中州というか島みたいなもの(明治期の地図でもそんな感じです)であり、境川木曽川とつがっていたと見て良さそうです。つうか川島村松倉で木材加工をやったということは、その北側附近に境川への分流点があったと考えるのが自然です。

建築道具・食糧運搬斑が木曽川を渡った小起は起村の比定されていますが、このあたりまで木曽川の分流が広がっていたと見れます。起村近くには信長と道三の会見で有名な富田の正徳寺があったところですが、正徳寺が位置を転々としたのも、木曽川の分流による洪水のための可能性もありそうです。

美濃も尾張も地名は良く知っていましたが、改めて尾張国境から川手なり稲葉山城が近いのに驚いています。信秀が執拗に美濃への侵攻を繰り返し、信長も桶狭間後に伊勢でも、三河でもなく美濃を目指したのは、木曽川を渡ればいきなり美濃の心臓部に行き着き、そこでの決戦で勝てば一挙に美濃の心臓部を手中にできると感じたからじゃないかと思ってしまいます。一方で道三が稲葉山城を築いたのは、尾張からの侵攻があった時に美濃の脇腹があまりにも脆弱な点の懸念もあったからかもなんて思ったりします。川は要害ではありますが渡れますからね。

それと気になるのは信長公記の正徳寺会見シーンです。

上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。

川を渡って正徳寺に向かったとなっているので、当時の正徳寺は木曽川分流の間の島(中州)に建っていたのかもしれません。もう一つは読み方で「舟渡し」は普通は渡船を思い浮かべますが、そうではなくて津島辺りから船で北上した可能性もあるかもしれません。正徳寺も富田という大きな町を形成していたようですから、木曽川水運を利用していた湊でもあった可能性があるからです。それと長良川揖斐川流域も結構なもので木曽川とその利用から、

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ちょっと見にくい地図なんですが、長良川揖斐川流域も網の目のように川が流れており、秀吉が築いた墨俣一夜城も川の中州みたいなところだったんだと思われます。一方でこれだけ川が流れ込めば沖積作用は大きく、水が豊富なので稲作が発展したでしょうし、河川を使った舟運も発達したと思います。見様によっては津島から川手までの水路がある種のメインストリートであったとも思われます。蛇足の様に付け加えれば、木曽川水系の上流にあたる美濃の方が発展が早そうで、南側の尾張は治水に難儀するのも良くわかります。


中島郡

尾張誌に中島郡は、

当郡は国のうち西の方少し北によりたる地にて凡東西三里はかり南北四里はかり平面にして山なく原なく只田畠のみ広き郡なり

こう紹介されています。ホントお恥ずかしいのですが、調べ始めが濃尾国境だったのでかなり北側に位置すると想像していましたが、南の郡境は思ってたよりずっとずっと南側でした。津島・勝幡との位置関係がわかりやすいと思うので示すと、

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信長の根拠地と言えば清州が有名ですが尾張国明細図より

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赤線が中島郡境ですから清州は中島郡の東南隅ぐらいに位置しているのがわかります。とりあえず勝幡の北隣がもう中島郡ですから、堀田氏が本拠地とした中島郡から津島に陸路で向かうのは無理があるとしたのは謹んで訂正させて頂きます。さて堀田氏が最初に根拠地を構えたのが美濃国家系図では「尾張国中島郡中野市枝堀田庄」となっているのですが、これがどこかになるのですが尾州誌には、

堀田尾張守之高

堀田村の人也 寛永の諸家系図又奥事尻に孝元天皇四代武内宿祢後胤左衛門督行義子尾張守(従五位下)行高(一作之高)始移住住尾張国中島郡堀田村 母今川貞世弟蒲原氏兼女也 其子堀田弥五郎正泰(右衛門佐従五位下)興国四年正月於四条畷戦死(一作之泰) 於尾州津島立祖神武内之祀 俗呼弥五郎社 其子修理大夫之盛(一作正盛)新続古今集作者と見えたり

これを美濃国諸家系譜の記述に近いものの見なすと「中島郡中野市枝堀田庄 = 中島郡堀田村」と考えられます。尾州誌は「寛永の諸家系図又奥事尻」を参考にしているとしていますから、少なくとも江戸期の堀田氏は先祖伝説をこう主張していたぐらいにはいえます。その堀田村は尾州誌に

大家の東南名古屋の西の方三里余にあり

明治期の地図で確認すると、

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中島郡でも東南隅に近いところで清州の西側近くになります。漠然と北の方、木曽川とか起村に近いところを思い浮かべていたのは間違いであったことがわかりました。