堀田道空ムック2

堀田道空ムックの仮説の整理です。とにかく資料の少ない人物ですので、数少ない1級資料を尊重しておく必要があります。一番尊重しておきたいのが信長公記

七月十八日おどりを御張行

一、赤鬼平手内膳衆
一、黒鬼浅井備中守衆
一、餓鬼滝川左近衆
一、地蔵織田太郎左衛門衆辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。
一、前野但馬守辮慶
一、伊東夫兵兵衛辮慶
一、市橋伝左衛門辮慶
一、飯尾近江守辮慶
一、祝弥三郎鷺になられ侯。一段似相申し侯なり。
一、上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ侯。

津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。

この部分です。信長公記首巻は巻一以下に較べると年代が特定しにくいのですが、この津嶋での踊りのエピソードに引き続いて山口左馬助の鳴海方面での今川方への離反が書かれているところから、永禄3年ぐらいと見れるかもしれません。ただ津嶋の踊りのエピソードと山口左馬助のエピソードが時系列として並んでいるのか、前後があるのかはハッキリしません。ここは大雑把に桶狭間前ぐらいで良いかもしれません。時代的にはそんな時期ですが、

    津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。
要するに津島に堀田道空の屋敷があった点に注目します。この頃は道三とは正徳寺会見により友好関係が築かれていたと見れますから、信長は津島の堀田道空の屋敷の庭で踊る事によって、道三との同盟関係を強くアピールする政治目的もあったと見なします。あえて付け加えれば太田牛一がこのエピソードを書き加えた趣旨として、信長が堀田道空の屋敷で踊った点もあったと推測する次第です。これが確実な事実と前提した上で道空をあれこれ想像してみます。


船軍

まず注目したいのは美濃国諸家譜で道三の祖父とされる正純の系譜です。

船軍は水軍と解釈したいところですが、私は海の水軍ではないと考えます。じゃどこの水軍かといえば川の水軍です。これは地図が無いとイメージしにくいのですが、

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堀田氏は尾張国中島郡が根拠地として良さそうなんですが、中島郡の北隣が美濃国厚見郡ぐらいの理解で良いと思います。地図に使ったのは明治期のものですが、御存じの通り濃尾平野を流れる木曽三川は名うての暴れ川で、川筋を幾度も大きく変更しているので参考程度のものです。大雑把には木曽川を渡ると美濃って位置が中島郡ぐらいでしょうか。ほいでもって道三が稲葉山城を築くまで美濃の中心だったのが川手です。明治期の地図でも川が網の目のように走っているのがわかってもらえると思いますが、戦国期はなおさらだったわけです。

津島も今の地理感覚なら内陸部ですが、津島の南部にあたる海西郡は服部水軍(信長公記では服部左京亮が有名)の根拠地で桶狭間時点でも独立勢力でした。つまりは陸地と言うより海に近い感じを想像します。信長公記でも「河内」と表現されているぐらいです。でもって海西郡から上がってきた船から荷物を陸揚げする地点が津島って感じで理解したら良い気がします。

津島は「尾張の金銀はすべて津島を通る」と謳われたほどの商業都市ですが基本的には河口港で、そこで陸揚げされた荷物は津島で取引されて、今度は河川の舟運を使って尾張各地だけではなく美濃まで運ばれる状態だったと見て良いと思います。もちろん河川から海への逆の流れもあったはずです。尾張の河川は明治期でさえ網の目のようですが戦国期は「なおさら」だったはずで、海運が津島に集まる関係で河川舟運も津島が中心になっていたぐらいでしょうか。

堀田氏は河川の舟運に強い影響力を持ち、それが船軍みたいな表現になっていると私は見ます。河川の舟運も津島が南の拠点になるので、ここに堀田氏の一族が住んだのが道空の家の始まりじゃないかと考えます。以後は区別するために道空の家は津島堀田氏と呼ぶことにします。

気になるのは海の服部水軍と河川の堀田船軍の関係ですが船の大きさ・種類が違うので棲み分けしていたぐらいの説明でも良いのですが、ちょっと気になるのは正徳寺と長島の願証寺の存在です。服部水軍は長島一向一揆に参加していますから一向宗徒で良いでしょう。津島堀田氏、とくに道空が一向宗徒であったかどうかは不明ですが、堀田船軍の将兵一向宗徒が多かったのは容易に推測されるところです。同じ一向宗徒同士の関係も服部水軍と堀田船軍の間にあったと想像したいところです。

さて津島は誰が支配していたかですが住んでいた津島堀田氏と考えるのが普通ですが、気風として津島堀田氏の完全支配と言うより、保護によって自由都市的な性格を持っていたなんて想像もしたいところです。


織田弾正忠家と津島堀田氏

織田弾正忠家は尾張下四郡の守護代家である織田大和守家の家老ぐらいの存在であったと言われていますが、この津島の繁栄に目をつけ支配の手を伸ばします。美濃国諸家系譜で道空の父となっている正道の系譜ですが、

母祖父江駿河守頼徳女也 住尾州津島 明応九年庚申三月於津島戦織田大和守敏信同弾正忠信定等 打負美濃国落来 仕土岐美濃守政房 住厚見郡菅生村 後仕政房之子左京大夫頼芸 天承四年甲申七月 尾州津島之十一党大橋岡本山川等一所於濃州石津郡早尾村相戦織田備後守同彦五郎信友等 討死年五十一歳云々

或一伝曰 大永四年甲申七月 於早尾村正道戦死 後其子政兼初而美濃国落来 属土岐頼芸共云々

織田信定による津島支配は大永4年(1524)頃とされますが、これを嫌って津島堀田氏が抵抗した記録ぐらいに読めない事もありません。正道の

    或一伝曰 大永四年甲申七月 於早尾村正道戦死 後其子政兼初而美濃国落来 属土岐頼芸共云々
ここが信定の津島支配の記録と符合しているのに目がいきますが、早野村と津島、勝幡の位置関係は、

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弾正忠家に敗れた津島堀田氏が美濃に逃げたのは確実で、そうでなけりゃ道空が美濃に存在できなくなります。

ここで美濃になぜ逃げたのかの疑問はあります。別にどこに逃げたって構わないのですが、たとえば中島郡は堀田氏の根拠地であり、ここは尾張上四郡の守護代である織田伊勢守家の支配領域です。尾張上四郡が弾正忠家に完全支配されるのは信長の時代で、信秀の時代でも協力を得られる程度であったと考えています。簡単には中島郡に逃げられると当時の弾正忠家では手が出せないぐらいです。それでも津島堀田氏が美濃に逃げたのは土岐家から交易の便宜を図るために所領が与えられていたんじゃないかと考えています。そうであれば津島を失えば美濃の所領に逃げるのが自然になります。

ここはもう少し想像を広げたいところで、弾正忠家と津島堀田氏の津島支配を巡る抗争は短期間で終わったと思いにくいところがあります。津島奪還を目指す津島堀田氏は友好氏族の応援も頼んだでしょうが、大きな後ろ盾として土岐氏の協力も仰いだとしても不思議ないと思います。土岐氏も河川交通に大きな影響力のある津島堀田氏を取り込みたいと考え、それこそ厚見郡菅生村を所領として与えたぐらいです。そこまで政治感覚が敏感な者が土岐氏にいたかどうかですが、先代道三とされる長井新左衛門尉の存在が浮かんでくることろです。


さて津島の争奪戦は弾正忠家が勝ったのは間違いありませんが、弾正忠家が手にしたのは津島の陸地の支配権です。津島の繁栄はそこを物がたくさん通る事ですから、津島堀田氏が舟運を抑え込んでしまったら津島の値打ちが格段に下がります。そこで弾正忠家と津島堀田氏の間で和睦というか妥協による共存が行われたぐらいを考えます。たいした話ではなく、

  • 弾正忠家は津島の町からの利権を手にする
  • 津島堀田氏は河川の舟運の利権を確保する
津島堀田氏にしても津島の町を利用出来ないと困る訳で弾正忠家支配前同様に津島での交易を認めてもらう一方で、商売の利益から冥加金とか運上金みたいなものを収めるぐらいの関係を推測します。軍事は軍事、ビジネスはビジネスみたいな割り切った関係が弾正忠家と津島堀田氏の間に結ばれれば、堀田道空屋敷が津島に存在できる事になります。


堀田道空屋敷で信長が踊った意味

堀田道空は道三の重臣であったとして良いと思います。そうでないと言い出せばキリがないのですが、ここは道三の重臣であったのは前提とします。ほいじゃ何故に道空が道三の重臣になれたかになります。とにかく記録がないので想像するしかないのですが、とりあえずその武勇を認められてのものではない気がします。ここまでの推論の積み重ねになりますが、

  1. 河川舟運への影響力
  2. 織田氏との特殊な関係
  3. 美濃の国境線の中島郡の堀田の一族であること
  4. 広い見聞を含む経済知識
この辺が想像されます。道空は道三の尾張外交担当及び経済ブレインみたいな感じでしょうか。ほいでもって、堀田道空屋敷が津島に建てられたのは津島堀田氏が美濃に逃げてからそれなりの期間が経ってからの気がします。つうのも信秀時代にはかなり執拗に美濃への攻勢を繰り返しているからです。道空も実際に干戈を交えた織田氏ですから、ビジネスの割り切りがあっても屋敷まではすぐに建てられない気がします。

そこに転機が来ます。信秀の美濃侵攻は結果的に失敗で、相次ぐ惨敗でさすがの信秀も凹みます。そこで両家の和睦のために信長と帰蝶の婚姻話が出てきます。信長公記では平手政秀が積極的に動いたとなっていますが、政秀が交渉ルートに使ったのが織田氏と特殊な関係を持つ道空であったとしても不自然ではありません。美濃国諸家譜にある、

天文十年 正兼為媒酌相談平手中務政秀以斎藤道三之息女嫁織田信長

道空にとっても尾張と美濃が和睦するのはビジネスにとって大きなメリットがありますから、積極的であった気がしないでもありません。そこまで考えると正徳寺会見での道空の役割は大きかったと見れます。会見には色んな思惑があったと思いますが、道空から見れば政略的婚姻関係からもう一歩進んだ関係構築が期待できますし、そうなればビジネス・メリット高まります。そこを期待して働いたと見れるからです。会見のあった正徳寺は美濃と尾張の勢力圏の間の中立地帯であったと評されますが、見様によっては中島郡の堀田氏の勢力圏ともいえます。会見実現のために堀田氏への工作が必要であり、道空が責任者であったとするのが自然な気がします。

正徳寺会見の後に信長と道三の間に信頼関係が生まれたらしいのは史実して良いと思います。とくに信長にしてみれば東の今川氏との緊張が高まっており、北の道三と結んでおかないと話にならないぐらいはあっても良い気がします。そこで津島に道空屋敷を誘致したんじゃなかろうかです。道空が住む屋敷と言うより、道空の津島への出店みたいな性格ですが、道三重臣の道空の屋敷が津島にあるというだけで道三と信長の同盟関係は強力だと内外にアピールできます。

なんとなく道空屋敷の新築落成祝いも込めてのものの気がしています。


道三崩れ

道空の死は美濃国諸家譜では弘治元年となっており道三崩れの前年になります。一方で道空は道三崩れを切り抜け秀吉に仕え、なんと大坂夏の陣まで生きていたって説もあるようです。美濃国諸家譜を読む限りですが、明智城に籠って討死した一族の名は見えますが、義龍と道三の最終決戦である長良川の戦いでの戦死者は見当たりません。道空の一族が道三崩れの後に行方がわからなくなってしまうのは前回で検証しましたが、道三崩れを生き残った可能性を少し探してみます。

これはマイナー武将列伝・織田家中編にある「張州雑志」記載系図の記述だそうですが、

尾州津嶋ニ在居 織田信長幕下ニ属ス
後、入道シテ閑居ス
豪富之家トナレリ今其宅跡津嶋ニ有リ
此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス

ヒョットしたら、かつて弾正忠家に津島を追い出されたケースが繰り返されたんじゃなかろうかと思ったりしています。道空は織田氏への外交担当官ですし、信長と帰蝶との媒酌、正徳寺会見と信長にとってプラスになる事の影の実行者的功績があります。そのために信長から道三に所領を与えていた可能性はありえます。道三崩れで道空は所領のある尾張に逃げたんじゃなかろうかです。そしてかつて土岐氏の臣下になったように、今度は信長の臣下になったぐらいです。

ただ尾張に逃げた後は道空自身は隠居し、秀吉に仕えたとされる人物は道空の息子であったと考えるのが妥当な気がしています。