堀田道空ムック5

資料の乏しい堀田道空なのですが、もう少し続けます。


堀田盛重

織豊期の堀田氏で確実に存在した武将に堀田盛重がいます。盛重は秀吉の七手組に属したとなっていますが、まず七手組とはwikipedaiより、

七手組(しちてぐみ)は、豊臣秀吉馬廻組から武功の者として選抜された精鋭およびその組頭衆で、御馬廻七頭の異称。七手組頭とも言う。

七手組は元は秀吉の黄母衣衆であったとされ、秀頼の時代に七手組として再編されたとの研究もあるようですが、黄母衣衆にも七手組にも堀田盛重の名は確認できます。またこの七手組は、

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、冬の陣の後に使者として出て帰還しなかった青木一重と徳川氏に内通していた伊藤長次の2名を除く、ほぼ全員が落城と共に討ち死を遂げた。

最後まで豊臣氏に節義を守った勇士であったと見て良さそうです。道空が大坂夏の陣まで生きていたのお話は、どうも盛重(盛高)を道空と同一人物としているようです。たとえば武家家伝・堀田氏には、

正貞には何人かの男子がおり、その長男が盛重である。かれは『寛政重修諸家譜』では正高とされているが、法名の道空で知られる人物である。秀吉に仕え、馬廻衆となり一万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、戦後、秀頼に仕えてやはり一万石を領した。大坂城七手組の一人で、大坂夏の陣のときに自刃している。

この七手組に具体的にどんな人物がいたかなのですが、

大坂夏の陣七手組 小田原征伐黄母衣衆
氏名 生年 大坂落城時
青木一重 1551年 64歳 服部一忠
郡宗保 1546年 69歳
伊東長次 1560年 55歳 伊東長次
中嶋氏種 不詳 不詳
野々村雅春 不詳 不詳 野々村雅春
真野頼包 不詳 不詳 真野頼重
堀田盛重 不詳 不詳 堀田盛重
小田原征伐の黄母衣衆は調べきれていないのですが、堀田盛兼が小田原征伐時から存在しているのは確認できます。ここで簡単な年表を出しておきますが、
西暦 元号 事柄 弘治2年からの年数
1556 弘治2年 道三崩れ 0
1582 天正10年 本能寺 26
1590 天正18年 小田原征伐 34
1615 慶長20年 大坂落城 59
道三崩れから大坂落城まで59年になります。ここで堀田盛重の大坂落城時の年齢を考えたいのですが、
大坂落城時 道三崩れ時
60歳 1歳
70歳 11歳
80歳 21歳
90歳 31歳
100歳 41歳
110歳 51歳
大坂夏の陣でも奮戦したとなっていますから、せめて60歳ぐらいを想定したいのですが、それでは道三崩れの時に1歳になってしまいます。逆に道三崩れの時に道三の重臣であった訳ですから、せめて41歳を想定すると大坂夏の陣では100歳になる関係です。これだけで
    堀田道空 ≠ 堀田盛重
これは証明できます。この盛重の年齢も謎が多いと言うか、系図上の無理があって、江戸期の堀田系図武家家伝様から必要部分をピックアップしてみると、

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大坂落城時に堀田正吉は43歳になります。正吉と盛重は伯父甥関係ですが、

  1. 盛兼は正貞の長男であり正吉の父の正秀は正貞の四男
  2. 正吉は正貞の五男
どう少なく見積もっても系図上では30歳は離れていると見るのが妥当です。この辺がどこまで信用できるかってところです。


寛政重修諸家譜美濃国諸家系譜の堀田正道

ここで寛政重修諸家譜を参考にしていると見て良い武家家伝様のところに興味深い記述があります。

正重の子正純は、尾張守護斯波氏に仕え、尾張国中嶋郡北島・有堀・丸淵・甲山などを領し、永正七年(1510)に没したという。正純の子が正道で、かれは織田信秀および信長に仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。天正十一年(1583)には、尾張国中嶋郡において二千四百石余の所領を与えられたという。

美濃国諸家系譜から拾えるところで較べておくと、

  1. 正純の没年は永正5年(1508)。
  2. 正純は文明15(1483)時点で船軍の大将となっている
  3. 正道は大永4年(1524)没
寛政重修諸家譜で興味深いのは正道が天正11年(1583)まで確実に生きているしているところです。正純の没年からこうなります。一方で正純は船戦の大将から没年まででも理由は不明ですが江戸期の堀田氏家系図は正道を長生きさせすぎていると思います。


もっとシンプルに考えてもエエような

どうにも道空関係の資料の乏しさから系図の系譜を追いすぎた感じがしています。系図はその家の記録ではありますが、一方で書くときの当主の意図や都合が優先されるため資料としての信憑性はまさに玉石混交です。ここまでムックした感触では

  1. 美濃国諸家系譜は正道ぐらいまではまだしも、道空以後になると創作が多すぎる気がする。
  2. 江戸期の堀田系図は正吉以降は信用できたとしても、そもそも正吉の父とされる正秀から正貞につながっているのかさえ疑問が残る
参考までの美濃国諸家系譜の正純以降を出しておくと、

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極論すれば2つの系図で正道以後で共通する人物は正貞ぐらいしかいないってところです。ここで道空の数少ない1級資料を思い出して欲しいのですが信長公記

    津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。
津島は当時最大の尾張商業都市ですが、津島神社門前町でもあります。津島の発展とともに津島神社も繁栄したと見て当然なのですが、堀田氏は津島神社の当時の社家です。この時代ですから宮司であっても武将になるのは熱田の大宮司の千秋氏もあるので違和感はないのですが、当然ですが神職の堀田氏もいるわけで、信長が踊ったのは神職であった堀田道空邸であった可能性はまず一つあります。もう一つは張州雑志で「豪富之家」の表現で、これは栄えた津島神社の社家であったからかもしれませんし、堀田の一族の中で神職にもならず、武家にもならず商家になったものがいたって構わない訳です。

堀田氏は江戸期には栄えていますが、戦国期から織豊期にかけては私の知る限り「さして」の有名人を出していません。その中で辛うじて歴史に名を残しているのが堀田道空と堀田盛重の気がします。堀田氏の系図を作るにあたって数少ない先祖の有名人を系図に取り込もうとして、道空を取り込んだのが美濃国諸家系譜であり、盛重を組み込んだのが江戸期の堀田系図だったんじゃないかと思っています。


堀田盛重って何者なんだろう?

この人物もかのwikipediaに載っていません。ですから想像するしかないのですが、秀吉・秀頼に仕えているのは史実ですが、秀吉の前は信長であったとするのは異議も少ないかと思います。信長に仕えるといっても2タイプあって、

  1. 信長の直臣(馬廻りとか)
  2. 信長の配下の武将の家来
ここで名前を考えたいのですが、ここまでムックした限り堀田氏の一族では「正」の字が諱として世襲されている気配が濃厚です。であれば盛重ももともとは「正重」であったかもしれません。これが盛重に変わるには、仕えている主人から諱をもらうってケースがポピュラーで、そういう視点で考えると佐久間信盛の配下であった可能性はあります。佐久間信盛天正4年(1576)に信長の勘気を蒙って高野山に追放されていますから、その後か、本能寺の後に秀吉に仕えたぐらいが推測されます。

大坂夏の陣に堀田盛重が出陣ていたのは間違いないのですが、たとえば60〜70歳ぐらいなら道空の息子の可能性ぐらいは残ります。もし本当に盛重に法名として道空を使っていたら父にあやかっていた可能性があるのと、法名ではなく盛重が自分の出自を誇る時に父の道空の名前を出していたぐらいはありえるかもしれません。

う〜ん、資料が少ないので想像できるのはこの辺りまでです。