堀田道空ムック4

あまりにも情報量の乏しい堀田道空をムックするのは自ずから限界があるのですが、個人的には面白いので続けます。


道三・道空・信秀の年表

道空に関わる主要人物として道三・信秀がいますが、道三の事歴を中心に簡単な年表を作ってみました。信秀は永正7年(1510)生まれで良いのですが、道三は明応3年(1494)説、道空は美濃国諸家系譜の文亀2年(1502)とします。

事柄 道三年齢 道空年齢 信秀年齢
1517 第一次お家騒動 23 15 7
1518 第二次お家騒動 24 16 8
1519 第三次お家騒動 25 17 9
1524 織田弾正忠家、津島を支配 30 22 14
1525 第四次お家騒動 31 23 15
1527 信秀家督を継ぐ 33 25 17
1530 守護代長井長広死亡 36 28 20
1533 父新左衛門尉死亡 39 31 23
守護代長井景広死亡
道三、守護代になる
1535 第五次お家騒動 41 33 25
1538 守護代斎藤利良死亡 44 36 28
道三、斎藤氏を名乗り守護代になる
1542 頼芸追放、道三国主となる 48 40 32
1544 朝倉・浅井・織田軍介入 50 42 34
1547 加納口の合戦 53 45 37
1548 信長と帰蝶の婚姻 54 46 38
1551 信秀死亡 57 49 41
1554 義龍に家督を譲る 60 52 *
1556 道三崩れ 62 54 *
偶然ですが道三・道空・信秀はちょうど8歳ずつの年齢差になります。


津島の堀田道空屋敷

マイナー武将列伝・織田家中編にある「張州雑志」記載系図の記述より、

尾州津嶋ニ在居 織田信長幕下ニ属ス
後、入道シテ閑居ス
豪富之家トナレリ今其宅跡津嶋ニ有リ
此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス

張州雑志というのは1770〜1778年ぐらいの間に尾張藩9代藩主徳川宗睦の命で編纂された100巻にも及ぶものだそうなのですが、遺憾ながら原著は抄録ないし抄しか公開されておらず引用部分の前後を確認できませんでした。張州雑志の資料的評価としては基本的に真摯に集められた情報を記載しているとされ、編纂時の津島に張州雑志に書かれているような口碑・伝承があったと見ても良さそうです。この伝承が今でもあるかどうかですが、ググった限りでは出てきませんでした。

この張州雑志の伝承ですが、これを信じる前提にします。ごく素直に信長公記の堀田道空庭に連動すると考えられるからで、ただでも乏しい道空資料ですから、これぐらいは取り上げないとなんにもムックができなくなります。張州雑志の伝承のポイントは3点で、

  1. 信長の家臣であった(織田氏に仕えていたぐらいに取ります)
  2. 豪富之家は富商と取ります
  3. 「此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス」は少々保留にします。
とくに道空ないし道空の家は富商、すなわち商人であった点に注目します。


堀田氏の系図の再検証・武家堀田

江戸期に栄えた堀田氏は堀田正吉の子孫として良いでしょう。この正吉ですが元亀2年(1571)生まれで、弘治2年の道三崩れの25年後になります。一方の道空ですが美濃国諸家系譜を信じれば文亀2年(1502)生まれですから、道三崩れの時に54歳になっています。つまり正吉と道空には69歳の歳の差があり、二世代から三世代ぐらい離れています。

wiipediaの堀田氏系図寛永諸家系図伝寛政重修諸家譜ぐらいから出来ていると考えられるのですが、正吉の父は正秀であり、祖父は正貞となっています。さらに正貞の兄弟に道空がいる関係です。正吉にとって道空は叔父になるなっていますが、世代を考えるとチョット無理がある気がします。そこで前に作った美濃国諸家系譜からの私のモデファイ版をさらに改良したものを見てもらいます。

20170306181450

こうであれば道空は正吉の大叔父(or 大伯父)になり年齢的に無理が少なくなります。もう一つwikipediaの堀田氏系図美濃国諸家系譜で共通しているのは、先祖を遡れば正純・正道親子につながる点です。どっちの系図も怪しい点はあるにしろ、江戸期の堀田家は少なくともそう主張していた点は考慮に置きたいところです。系図学的には正道ぐらいまでは家伝の系図のタネ本があったぐらいの見方になるぐらいでしょうか。

この作り直した系図でまず注目したいのは

    喜左衛門 − 正貞 − 正秀 − 正吉
この系統です。喜左衛門も正貞も信秀に仕えたとなっていますが、とくに喜左衛門は美濃国諸家系譜に

降参織田信秀尾州中島

ここは降参して信秀に仕えたで良いと思います。正貞も

仕織田備後守信秀 一説ニ実ハ喜左衛門某ノ子云々子孫無シ

喜左衛門の実子かどうかはなんとも言えませんが、喜左衛門の跡を継いで信秀に仕えたと見ても良さそうです。正秀は美濃国諸家系譜では見当たらない人物なのですが、ひょっとしたら二代続きで養子であったかもしれませんし、実子であったかもしれません。正秀の子の正吉は事歴がぐっと明瞭になるのですが、なんとなく信秀というか織田氏の介入があった感じがします。これも歴史の彼方の話になるのですが、正貞に子が無く、堀田氏とまったく関係のない人物が堀田氏の名跡を受け継いだだけの可能性も残るぐらいのところです。

ただ系図の細かい点をいくら考えても答えが出るわけでないので、ここでの前提は、

    堀田喜左衛門系は尾張国中島郡堀田村で信秀・信長に仕える武家であった
こうしたいと思います。


堀田氏の系図の再検証・商家堀田

堀田喜左衛門系が武家堀田とすれば道空系はどう考えるかです。まずなんですが堀田喜左衛門は信秀に降参しているとなっています。また堀田喜左衛門の父である正道は織田弾正忠家に津島を追い出され美濃に亡命したと美濃国諸家系譜ではなっています。美濃国諸家系譜を額面通りに取ると、信秀に敗れた堀田氏は

  • 降参して中島郡堀田村に住んだ堀田喜左衛門
  • 美濃に亡命した正道・道空
この2系統に分かれる事になります。そういう事も戦国期ではよくあるのですが、ちょっと津島を巡る争いを想像してみたいと思います。

津島は当時尾張最大の商業都市でいわゆる金の卵を産む鵞鳥みたいなものです。ここの支配権を織田弾正忠家が握ったのは史実なのですが、織田弾正忠家が支配権を握る前はどうだったかです。ここで四家七氏を出したいと思います。四家七氏については戦国期にどれほどの存在感があったかについての疑問もあるようですが、織田弾正忠家の前は四家七氏の連合体が津島を支配していたと見ても悪くはないと思います。弾正忠家は信秀の時代に大きくなっていますが、切り従えたとされる近隣の小豪族とはそれこそ四家七氏で良いというか、四家七氏も当然含まれるぐらいです。

正道については美濃国諸家系譜に引っ張られて弾正忠家に最後まで抵抗をしたと思ってしまいますが、最後まで抵抗したのは各個撃破を喰らった四家七氏の生き残りであって、堀田氏は案外早く弾正忠家に降参していたんじゃないかと思います。ここでの降伏条件として、

  1. 正道は家督を喜左衛門に譲って隠居
  2. 正道の息子の道空もまた隠居
なにを想像しているかといえば弾正忠家が堀田氏攻略に当たり、次男の喜左衛門に家督相続を条件に調略を行った結果ぐらいの見方です。その手の調略条件も「よくある手」です。でもって隠居の地が津島じゃなかったんだろうかです。津島神社の神主家も堀田の一族ぐらいの縁です。ひょっとしたら正道は隠居後にも反弾正忠家秀勢力に加担したかもしれませんが、道空はそれには同調せずに津島で商人になったぐらいです。想像は膨らむのですが、もし正道が隠居でありながら四家七氏に加担した時点で道空は出家し、法名の道空を名乗って袂を分かったぐらいは妄想のうちです。

道空が商人になったのは20代前半ぐらいの時でしょうか。弾正忠家が支配する津島ですが、実家の堀田村の堀田氏は弾正忠家の家来になってますし、父の正道の反弾正家運動にも加担しなかったのであれば弾正忠家の覚えも目出度く、やがて「豪富之家」になってくれないと信長公記で信長が津島の堀田道空庭で踊れません。


道三と道空

道空の商売はやはり津島を拠点とした交易商人であったとするのが自然です。その得意先が美濃まで広がっていてもおかしくはありません。道三の父の長井新左衛門尉は道三伝説の前半生を担う人物ですが、その晩年に取引は既にあったかもしれません。ここも想像するしかないのですが、長井新左衛門尉の御用商人的な地位ぐらいにいたのかもしれません。ただ年数的にはせいぜい5年程度しかクロスしませんから、やはり道三との関係の方が重かったとみたいところです。

道三が守護代になったのが1533年、頼芸を追放したのが1542年なのですが、この間も道三は頼芸を籠絡するために数々の珍品を贈っていたとするのが通説です。この調達を担っていたのが津島の道空であったとしてもあり得るお話です。ただこれだけでは道空が道三の重臣になる理由が不明になります。

難しいのですが、道三は美濃を盗った後に周辺諸国の介入を受け続けます。これは1533〜1547年まで断続的に続いたと見れます。さすがは道三でこの介入を巧妙に撃退していますが、ちょっと注目したいのは撃退はしていますが侵攻はしていません。これは侵攻となれば嫌でも長期戦になり、これを道三は嫌がり国内の体制固めを優先したんじゃなかろうかと見ます。つまり国主となった道三が欲した政治課題は、

    美濃の平穏
これの最後の障害となったのが「尾張の虎」の信秀ってところです。この信秀に対する和平工作の担当者として白羽の矢が立ったのが道空と見たいところです。

道空像は本当に見えにくいのですが、とりあえずいつから道三の家来になったのかが不明です。このエントリーを書くときのプロットとして信秀との和平工作のときに家来となり、信長と帰蝶との婚姻の手柄で道三重臣にぐらいのストーリーを考えていたのですが、それじゃ余りにも遅いし、重臣になるだけのインパクトに欠ける気がします。

道空は時代小説、とくに司馬遼太郎の脚色もあってあんまり有能そうな人物の印象に薄いところですが、道三が無能な人物を重臣にするとは思えません。では堀田氏が美濃での有力家かといえば、これまた到底思えません。ほんじゃ合戦場で数々の手柄を重ねた武勇の人かといえば無理がありそうな気がします。道空が道三に評価されていた才能は文官的な能力、今日の仮説からすると財務能力じゃなかったかと思っています。つまり国主となった道三が財政面での担当者として道空を家臣として引き抜いたんじゃなかろうかです。これは道空が40歳ぐらいの時になります。おそらく商家の方は隠居して息子なりに譲っての道三への仕官です。

とくに国主になってからの道三は数々の合戦を重ねざるを得なくなっていますが、これを財政面から支えたのが道空の手腕じゃなかろうかです。同時に悲鳴をあげたのも財務担当の道空であったぐらいです。美濃と尾張の平和は同時に津島の道空商店の繁昌にもつながりますから、尾張との和平工作の担当者に指名されれば張り切らざるを得なくなるってところです。

道空の話は想像ばかりになるのですが、ヒョットしたら当時「うつけ」と言われた信長の将来性を道空は高く評価した可能性すらありそうな気がします。この辺は微妙なんですが道三は後継者候補の義龍も、孫四郎も、喜平次もあんまり高く評価していなかった気配があります。道空の和平工作はその点をテコにした感触があります。

そもそも当時の信秀と道三の力関係は加納口の合戦の惨敗もあり「信秀 < 道三」です。そういう状態での婚姻政策による和睦なら劣勢の信秀側から娘を人質として嫁に出すのが通例です。それを道三側から娘を人質として差し出すのは、他に切羽詰まった状況があったとしても道三にとって嬉しい条件とは思いにくいところがあります。これを説き伏せたのが道空の高い信長評価であったと見るのも面白いところです。その評価が後に正徳寺会見につながっていったと私は見たくて仕方ありません。


道空の最後

mino阿弥様から、

斎藤道三の子斎藤孫四郎と喜平次が弘治元年11月12日に暗殺されています。
(常在寺に位牌が存在)。美濃国諸家系譜」記載の卒年は誤りです。
しかし、「美濃国諸家系譜」には堀田道空の卒年が記されていて弘治元年12月8日葬常在寺とあります。
こちらは正しいと仮定すれば、斎藤孫四郎と喜平次の暗殺が堀田道空の死に何らかの関わりがあったのではないか考えられます。

これは鋭い見方で、美濃国諸家系譜では道空の所領は厚見郡菅生村にあったらしいと推測できます。この菅生村と稲葉山城の位置関係ですが、

20170307115030

道三が隠居城にしていた鷺山城を含めて近い距離にあります。直線距離でいえば、

いやぁ、こんなに鷺山城と稲葉山城が近いとは初めて知りました。それはともかく義龍が孫四郎・喜平次を暗殺したというのは鷺山城の道三への宣戦布告になります。そうなると菅生村の道空の所領は義龍にとって目障りになります。端的には東美濃から義龍に加担する軍勢が駆けつける時に邪魔ってところです。そこで孫四郎・喜平次暗殺に引き続いて攻めたんじゃなかろうかの推測です。さらにmino阿弥陀様は、

奥磯栄麓氏の論文「美濃焼」の中に、斎藤苑可知行宛行状が紹介されており、義龍の弟二人を殺害した桑原右近衛門尉は、その功により4500貫の地を拝領したとする内容です。この古文書の真偽のほどは不明ですが単なる二人だけの暗殺ではなく、想像以上に大がかりな事件で、その褒賞として斎藤道三方の所領を配分したのではないかと推察されます。

4500貫はおおよそ9000石ぐらいになりますから、それだけの所領を褒美で捻出するには道三重臣の所領を奪わないと難しいのではないかの見方です。「道三 vs 義龍」戦の展開は

  1. 義龍による孫四郎・喜平次の暗殺
  2. 道三が井ノ口の町と鷺山城を焼いて大桑城に退却
道空の所領が菅生村なら主人不在の土地であり、道三軍に道空が加わっていたら義龍から見れば敵ですから接収するはずです。そこで道空側の抵抗があったかどうかですが、美濃国家系図で道三の息子とされる正種の系譜に、

正兼死後 斎藤左京大夫義龍之為所領押領 暫蟄居尾州山辺

これを信用すれば道空は自然死ないし暗殺死で、義龍に平穏に菅生村を接収され蟄居を命じられたぐらいになります。ここでもし道空が弘治元年に亡くなったとすれば、

  1. 孫四郎・喜平次暗殺時に道空も稲葉山城に見舞いの使者、もしくは孫四郎・喜平次の付き添いでおり一緒に暗殺された
  2. 稲葉山城は切り抜けたが、その時の傷が原因で死亡
  3. 別の刺客が道空を襲い暗殺された
  4. 井ノ口の町を焼き払った時に流れ弾にでも当たり死亡
この辺が思い浮かびますが、本当に道空が美濃国諸家系譜にあるように弘治元年の12月8日に死んでいたのなら、道空は稲葉山城でも菅生村でもなく大桑城で死んだ可能性が高くなります。調べる限り道空は竹腰道塵のように義龍側に寝返った形跡は認められないからです。もっとも「道三 vs 義龍」戦は弘治元年11月の孫四郎・喜平次暗殺から始まり、弘治2年4月の長良川の決戦まで続きますから、その途中の小競り合い、もしくは道三の味方を募るための使者に出て亡くなった可能性もあります。もちろん病死もありえます。

とにもかくにも道空の足取りなんて探しようもないのですが、ここまで道空ムックをやっているともう少しでも生かしてあげたいと思ってしまいます。たとえば文官であった道空を道三が尾張に落としてしまったのもあっても良い気はします。信長が道空を酷く扱う理由はありませんから、無事津島の堀田商会に戻り余生を過ごした可能性も皆無とはいえないんじゃないでしょうか。