水野氏再考と村木砦の合戦

桶狭間時の水野氏の動きが引っかかるのでムックし直してみます。


水野氏の構成

水野氏は知多半島に勢力を持っていた一族ぐらいの理解で良さそうで宗家は緒川水野氏となっています。この水野氏は多くの分家があり、なおかつ水野氏として団結力があったなんて説明があり、そういう形態を一族一揆ともしています。一族一揆については調べてもイマイチ良くわからなかったのですが、もう少し単純化して考えてみます。戦国時代ですから本拠地を城にします。勢力が広がれば新たな戦略拠点として城を築きます。この新たな城なんですが、セットで城を維持する領地もついていたと見て良いと考えます。

そこに新たな城主を任命するのですが、誰を選ぶかとなると親族が優先されます。でもって任命された新城主は世襲権も同時に得ていたんじゃないかと見ています。なんというか本拠地の宗主権を認めていますが、城主に任命されると分家として独立するぐらいの形態です。鎌倉時代に相続で細分化し家が衰えたので惣領相続になったのに反するように見えますが、分割単位が領地とセットとなっている城ですから、細分化の弊害を抑制できるのと、実際問題として1人の領主が複数の城主を兼任できないので分割統治みたいな感じでしょうか。

これは水野氏独特のものではなく、たとえば松平氏もそうであったと見ます。岡崎の松平氏は宗家だったかもしれませんが、一方で十八松平と呼ばれる分家があったからです。本家と分家の関係も代を重ねると濃淡が出るのは世の常ですし、血筋上の本家が衰微して分家が宗家になったりもあったと思います。ただ内部で争いがあっても外部の敵に対しては基本的に大同団結するぐらいでしょうか。緒川水野氏は宗家とはなっていますが、本当に求心力のある宗家になったのは水野信元の代になってからのように思えます。wikipediaに書かれている信元の知多半島における戦績ですが、

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大雑把にいうと知多半島の東岸には戸田氏がおり、これを北から駆逐していったようです。宮津城を落として亀崎城を作り、そこから成岩城、富貴城と攻略し、布土城を築いて河和城の戸田氏を圧迫した上で婚姻により従属関係にしたぐらいです。常滑城は常滑水野氏と婚姻関係を結び、半島南部の佐治氏に対しては野間まで進出した上で戸田氏同様の扱いにしたぐらいです。こうやって地図で見ると知多半島の覇者になった事が良くわかります。

信元が知多半島の覇者となれた原動力の一つが織田氏との同盟とされています。西三河の覇権は清康急死後に衰えた松平氏に代わって織田氏が安祥城まで勢力を伸ばしおり、この同盟関係を利用したってところでしょうか。同盟関係が密接だったのは信長の初陣が吉良大浜であったことでも窺えるとして良さそうです、


刈谷城明け渡し問題

水野氏は弱小勢力ではありませんが、大勢力ではありません。ここも単純に織田氏や今川氏と正面から争えるほどの力はありません。織田氏や今川氏から水野氏を見ると、滅ぼすにはチト手間がかかるが、味方になってくれたら助かるぐらいの規模ぐらいでしょうか。ですから松平清康三河を平定した時にはこれと結び、織田氏が西三河に台頭してきたら結んでいる訳です。ここでわかりにくいのは、1549年の今川氏による安祥攻略後の水野氏の動きです。当然ですが、次代の覇者は織田か今川かの算盤勘定をやっていたはずです。ここでなんですが新たな事実がわかりました。1949年の今川氏による安祥攻略ですが、それだけではなかったようです。水野史研究会様の水野氏と桶狭間合戦に、

今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、謹言

これは豊明市史の妙源寺文書として紹介されているものだそうです。大意は山口左馬助(鳴海城主、後に今川氏に離反)の周旋で今川氏と織田氏が和睦。この時の和睦条件として今川氏が占領していた刈谷城を水野氏に返還するぐらいになります。今川氏が返還するということは今川氏が刈谷城を持っていた事になります。そのため新修名古屋市史では、

同年九月今川勢は織田方の吉良氏と戦い、十一月には雪斎の率いる大軍は安祥城を攻略し、城将織田三郎五郎信広を捕らえた。今川氏は、信秀と交渉して信広と交換に竹千代をとりもどし、駿府に送った。さらに、今川勢は、信秀の同盟者水野氏の三河刈谷城も攻略して、軍事的に優位に立った

こういう経緯があったとしているようです。今川氏の安祥攻略後に織田信弘と松平竹千代の人質交換が行われたのは知っていましたが、どうもその周旋に山口左馬助が奔走し、和睦条件の中に刈谷城の水野氏への返還もあったぐらいに解釈して良さそうです。ただなんですが、和睦条件としては今川氏がチト不利の気がします。そりゃ折角奪い取った刈谷城を明け渡しているからです。これには思惑というより明確な意図があったと見る方が自然です。和睦成立前は、

    織田・水野同盟 vs 今川
この構図であったはずです。この構図に乗っかって水野氏も知多半島の覇者になっています。ここで織田氏と今川氏が和睦すれば、形の上では織田氏と今川氏は友好関係になると同時に今川氏と水野氏もまた友好関係になるわけです。この形の上の友好関係を実質的なものにする意図が今川氏にあったと見たいところです。つまりは刈谷城を与えることにより、水野氏を織田陣営から切り離し今川陣営に取り込む工作です。水野氏にとっても魅力的な条件であったはずです。西三河から織田勢力は退潮しており、今川氏はどう見たって強大な勢力です。水野氏は乗りたかったはずです。


水野氏の外交

織田氏が西三河で覇を唱えている時期は良かったと見ています。織田氏は安祥城まで進出し岡崎の松平氏に圧力を加えていますが、矢作川を渡って岡崎城を奪うことが出来ていません。なぜそうしなかったは不思議な点も残りますが、ここは単純に松平氏の背後にいる今川氏との激突を避けたぐらいに見ておきます。信秀時代の織田氏も強かったですが今川氏を踏みつぶすほどの力はさすがになく、対今川氏戦を考えると水野氏は大切な同盟軍になります。

信元が織田氏寄りを鮮明にしたメリットは、北部が同盟軍の織田氏の勢力圏になったため、知多半島にその戦力を注ぎ込めたからじゃないかと思っています。もちろん織田氏への兵力提供は課せられたとは思いますが、それ以上に知多半島で美味しい思いをしたぐらいです。それが1549年に安祥城が今川氏に奪われると様相が変わります。西三河の覇権が今川氏に大きく傾くことになります。そうなった時に水野氏が今川氏にサッサと乗り換えなかった点が解釈に難しいところです。

信元が何を考えていたかなんて知りようがありませんが、今川氏の覇権は、清康時代の松平氏や、織田氏の覇権とかなり異なる分析をしていた可能性はあると思っています。今川氏の強大さは西三河の覇権を維持するのに必ずしも水野氏を必要としないぐらいでしょうか。水野氏の存在価値は西三河に覇を唱える勢力が水野氏の協力を必要とするところです。今川氏は単独で織田氏を滅ぼす力をもっており、西三河から尾張東部に勢力を広げた時に水野氏の存在が不要になるぐらいの見方です。

でもって存在が不要になったモデルケースが岡崎の松平氏であり、このまま今川氏が西に進めば水野氏も「ああなってしまう」懸念があったぐらいです。そのためには今川氏への対抗勢力として織田氏が健在である必要があります。ほいじゃ、織田氏との同盟を堅持して今川氏に対抗するかと言われれば、織田氏が負ければ水野氏は属国化どころか根こそぎ滅ぼされかねません。信元は安祥落城後の織田氏の力の見極めと、どの時期に水野氏を今川氏に高く売りつけるかのタイミングを計っていた気がしています。


水野十郎左衛門尉

ここで微妙な水野氏外交を担った重要人物として

    水野十郎左衛門尉
こういう人物が存在します。ドンちゃんの他事総論から水野十郎左衛門尉の書簡を紹介してみます。
Date 差出人 受取人 文面 出典
天文13年(1544年)9月23日 斎藤道三 安心軒・瓦礫軒 其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言 新編東浦町誌「斎藤利政判物」
天文13年(1544年)9月25日 斎藤道三 水野十郎左衛門尉 先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候、可得御意候、恐惶謹言、 新編東浦町誌「長井久兵衛書状」
天文13年(1544)閏11月11日 織田信秀 水野十郎左衛門尉 此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、 新編岡崎市史 「織田信秀書状写」
天文15年(1546年)3月28日 鵜殿長持 安心軒 貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被
仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝
事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、
去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
静岡県史「鵜殿長持書状写」
永禄3年(1560年)4月12日 今川義元 水野十郎左衛門尉 夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀申付、人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言 別本士林証文にある「今川義元書状写」
1通目は斎藤道三が水野十郎左衛門尉への連絡を要請しているものであり、4通目は信秀が安心軒経由で飯尾信豊に出した密書が水野十郎左衛門尉の手に渡り、鵜殿長持に送ったところ安心軒を叱責した内容と言われています。いずれにしても斎藤道三織田信秀、さらには今川義元とさしで書簡を交換できる立場の人物であるのは確認できます。この水野十郎左衛門尉は長く謎の人物されており、説としては水野信元か水野信近ではないかが有力だそうで、そう仮定すると都合のよい点は確かに多々あるので基本的に同意です。

ただ水野十郎左衛門尉が水野氏を代表して外交を取り仕切っていたかについての見解は少し異なります。水野氏と織田氏が同盟を結んでいた時期がありますが、織田氏にとっても水野氏は必要な同盟軍ですから同盟強化に努めていたはずです。強化するポピュラーな手法は婚姻ですが、水野一族の中に織田シンパを作るのも含まれていると思います。一方で今川氏の進出に危機感を覚え今川氏との同盟を考える勢力も出ていたはずです。水野十郎左衛門尉は今川シンパの代表格だったぐらいです。

これは想像ですが水野氏内の織田シンパ勢力は案外多くて、宗家の信元とて独断で今川シフトを明言しにくい状況があったのかもしれません。下手に公言すれば織田シンパの水野氏が織田氏の支援を受けて宗家に反旗を翻しかねないぐらいです。そういう見方からすれば水野十郎左衛門尉は信元の代理人的な性格を帯びていたとはいえます。一つ言えるのは国主と直接書簡を交わせる立場の人間ですから、書簡を送る側からすれば水野十郎左衛門尉が信元の意志であると受け取っていたように思えます。


村木砦の合戦

当時の推測地形図を先に見てもらいます。

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今川軍はまず重原城を攻略します。情け容赦のない攻撃だったようで後世に山岡氏の記録が残らないぐらいの結果になっています。重原城を確保した今川軍は、そこから村木砦建設の資材を運び出したとなっています。重原は舟運の要衝だったそうで、それもあって今川軍はまず攻め落としたぐらいでしょうか。さてなんですが、舟運といっても重原から村木砦に向かえば緒川城と刈谷城の間を通ります。水野氏は地形的にそれなりの水軍も有していた可能性があり、たとえ有していなくとも舟を出して輸送の妨害を行うはずです。

そうなると重原から丘越えで高津波あたりから村木砦に向かうルートぐらいが思いつきますが、急増の砦といってもそれなりに本格的なものなので陸路を挟む輸送は手間がかかります。つうか、それなら別に重原城を攻略する必要がありません。もちろん織田方の城ですから刈谷城攻撃のために邪魔だから落としたはエエのですが、なぜに重原を補給拠点としたかが少々謎です。この点は悩んでいたのですが、どうも重原から直接舟運で村木砦に資材を運んでいたんじゃないかと思い始めています。

つうのも砦は建設中に攻撃するのが定石なのですが、砦が完成するまで緒川城にいたはずの水野信元が手を拱いて見ていたのが腑に落ちません。ヒョットしたら村木砦の合戦自体が今川氏と水野氏の出来レースじゃなかったかの疑念が私にはあります。水野氏が今川氏と連絡を取り合っていたのは書簡から確認できます。今川氏がいずれ尾張に侵攻するのは時間の問題であり、勝ち馬は誰が見ても今川氏です。信秀時代の力は織田氏にはなかろうと見るのが自然です。

先ほど水野氏内部に織田シンパがいるだろうの推測を書きましたが、信元は織田シンパも納得する形で今川氏に加担する策を練っていた気がします。いや今川がそういう状況を作ったのかもしれません。村木砦の合戦では今川氏は織田氏との連絡路であった寺本城を寝返らせ遮断しています。これは織田氏の援軍が簡単には来にくくなる策だと思います。そうしておいて緒川城の目と鼻の先に村木砦を構築して攻略の姿勢を示します。緒川城の三河からの防御の要は天然の外堀である知多湾であり、村木砦はこの外堀を無効化する狙いです。

そういう状況になれば水野氏は織田氏に援軍を要請することになりますが、当時の信長は尾張平定戦の真っ最中で緒川城まで出てくる余力はないと見たのだと思います。寺本城は織田の援軍の阻害の意味もありますが、信長が「こういう状況の援軍は無理」の言い訳を出来るようにしたとの考え方もできます。水野氏の危急存亡の時に信長が援軍に来れなかったら、今川氏と和睦しても織田シンパは納得するでしょうし、信長が援軍に来なかった点で織田氏を見限る効果も期待できます。こういう見方をすると、どうも村木砦の合戦の焦点は、

    信長の援軍の有無
今川氏も水野信元も「来ない」の計算で連携プレーをやっていたんじゃなかろうかです。そういう状況を信長はどれぐらい読んでいたかどうかも不明ですが、かなりの無理を押して水野氏の援軍に駆けつけます。道三に援軍を要請し、美濃からの援軍を本拠地の防御に置き、織田主力軍を率いて知多半島を一周する奇策です。道三は「蝮」の異名が当時から定着していたはずで、これは間違っても信用が置けるを意味しません。信長が村木砦に向かっている間に道三に尾張を乗っ取られる危険性はテンコモリあるってことです。それを押してでも信長は来援します。なんとなくですが、村木砦の合戦は信長が来た時点で終っていた気がします。来ないはずの信長が来てしまうと
  1. 水野氏は織田氏側で戦わざるを得なくなる
  2. 水野氏は重原から村木砦への海上補給ルートを真剣に妨害せざるを得なくなる
  3. 村木砦が機能しなくなると緒川城攻めは渡海攻撃になってしまうし、そんな準備は今川氏にはない
信長が来援して村木砦が落ちるとこの合戦は終結します。信長の来援は水野氏内の織田シンパの勢力が大きくなる結果をもたらし、信元の今川氏に加担するプランは瓦解してしまったぐらいです。その傍証として刈谷城があります。今川氏は重原城を猛攻で落としています。一方で刈谷城は落とさずに引き返しています。村木砦を落とされたことにより、緒川城攻略の拠点を失ったとはいえ、刈谷城は陸続きですから攻略可能です。今川氏が本気で水野氏を潰しに来ていたのなら、刈谷城は攻め落としてもおいても良いはずです。それをしなかったのが綾ではないかと見ています。


蛇足の桶狭間

水野十郎左衛門尉の書簡の中で一番注目されているのは、

    夏中可令進発候条 其以前尾州境取手之儀申付 人数遣候 然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

尾州境取手之儀申付」を義元から尾張国境に砦を作るように命じられたと読むのが通説の様ですが、実際に水野氏が作ったかどうかは不明です。水野氏が関連しそうな砦としては大高城に向山砦、氷上山砦、正光寺砦があります。このうち氷上山砦は千秋四郎が守り、正光寺砦は佐々隼人正が守っていた説があり、ほんでもって最後の向山砦は水野氏が守っていたらしいです。3つの砦の場所がはっきりしないのですが、

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たぶんこんな配置であったようです。千秋四郎・佐々隼人正が守っていたのもあやふやな部分はあり、もし守っていて撤退したのであれば5/18午後になるはずで、少なくとも佐々・千秋の2人は5/19午の刻には中島砦の前方にいて、そこから今川軍に突撃しているからです。佐々・千秋は今日は置いとくとして、この3つの砦で合戦があった記録は残されていません。そうなると大高城別動隊が到着した頃には撤退していた可能性が高いことになります。妥当とは思いますが、他の可能性を少し考えてみます。

「其以前尾州境取手之儀申付 人数遣候」の主語は義元ではなく信長に出来ないだろうかです。つまりは信長が水野氏に要請して大高城に対する砦を作らし軍勢を派遣させたって解釈です。次の「然者其表之事」は然れどもそれは表向きの事、すなわち偽装であると読みます。「弥馳走可為祝着候」これはいよいよ馳走、すなわち今川軍への寝返りを行うことで、「尚朝比奈備中守可申候」その事は大高城主の朝比奈備中守にも伝えてあるぐらいに読みます。あくまでも読みようですが、大高城別動隊が兵糧を運んで来たら水野氏が寝返る計画でもあった気配を感じます。

実際にそんなことが起こっていれば桶狭間後の水野氏の立場はさすがに宜しくありませんから、大高城別動隊が到着する前日にそれこそ佐々・千秋は中島砦方面に撤退し、一緒に守っていた水野氏の軍勢も一緒に撤退となってしまった気がなんとなくします。戦場の主導権を握る織田氏側から「帰ってよろしい」と言われて残るのは変ですからね。この3つの砦跡を実際に見られた方によりますと、規模は小さくて死守する砦というより、監視用のものじゃなかったかの感想もありました。

ただそこまで水野氏の寝返り計画が進んでいたのなら、大高城別動隊がすんなり大高城に兵糧を搬入できた理由につながります。ルートは村木砦の時と似たルートで、重野から海路で現在の大府市あたりに上陸し、そこから陸路で大高城に至るです。この辺は水野氏の勢力圏だと思いますが、水野氏が今川氏に加担していたのなら安全ルートです。ちょっと微妙な点も残りますが元康の大高城からの帰路も水野氏が一枚かんでいるのはそのためとも受け取れます。

この水野氏が桶狭間の時に既に寝返っていた傍証の一つに鳴海城主の岡部元信の行動があります。元信は鳴海城に取り残された格好になりますが、義元の首を貰い受ける事を条件に開城します。敵地での開城ですから和睦条件に帰国するまで敵対しないぐらいは付いていたと思います。しかし元信は帰路に刈谷城を襲い、水野信近を血祭りに挙げています。元信にしても鳴海城から駿府に早く帰りたかったはずですが、わざわざ刈谷城を攻撃したのは一つの謎とされています。

ちょっと強引な解釈ですが元信にも水野氏の寝返り情報は伝わっていても不思議ありません。この寝返ったはずの水野氏が織田方にいるのが許しがたかったと想像します。ですから元信の解釈として、今川を裏切った水野氏を討つのは和睦の条件に反しない制裁ぐらいだった気もしています。

もう一つあって、大高城からの撤退には世話になっているはずの元康が桶狭間の翌日に水野氏を攻撃します。当時の元康はまだ今川氏に従属している姿勢を保っており、桶狭間の復讐を建前としていたとなっています。元康の真の狙いは今川氏からの自立と三河平定だったでしょうが、大義名分は桶狭間で今川を裏切り義元を死に追いやった水野氏の制裁であった気がしています。