松平氏の経歴を少しムックしておきます。この辺になるとドンドン資料が少なくなるのでwikipedia程度であると先に白状しておきます。
松平氏で記録に現れるのは松平信光からとされ、その前となると「よ〜わからん」の世界になっているぐらいの理解で良さそうです。そこからいわゆる十八松平の系図を書き出してみます。
分家が多いのですが分布を地図にプロットしてみます。
興味深い分布で、信光流は南東部の丘陵地帯に多く分布しており、親忠流の分布は北部、長親流は安祥から南西部に広がっている感じです。これは素直に松平氏の勢力拡張がその方面にあったと受け取りたいところです。信光は長沢城を奪って根拠地にしたため長沢松平とも呼ばれた時期があったとなっていますが、信光事業で大きかったのは安祥城奪取であったとなっています。wikipediaより、
永享12年(1440年)、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏(畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の安城古城が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。その後文明3年(1471年)、三河国岩津城主の松平信光が城の近くで祭りがあるとうわさをたたせ、それを知った城の者はみな祭りだと興奮し祭りに行ってしまったとされる。そして城に人がいなくなったのを見計らって無血落城させた。以後4代、松平氏の居城となる。この4代の間を安祥松平氏と呼ぶ。
安祥城を根拠地にすることで西三河に台頭する基盤を築いた人物ぐらいで良さそうです。地図を見る限りでは能見に進出することで矢作川西岸に達し、安祥を奪うことで矢作川東岸経営の拠点を築いたぐらいにも見えます。でもって次代は親忠になっているのですが、殆ど記録に残っていない人物だそうです。親忠に関しては
『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康ら松平氏を代表する人物が現れたため、親忠が第4代当主扱いされたと言われている。
曖昧模糊なんですが、親忠は三男で兄がいた(系図上もそうです)となっています。兄がいても庶出であれば正室の三男が継ぐことは普通なのですが、この辺にどうも疑問があるようです。信光が安祥城を奪ったのは史実としても信光が安祥城を根拠地にしたかどうかは疑問符が付けられるのかもしれません。一方で親忠流の分家は存在します。なんとなくですが親忠は前線の安祥城で分家となり、惣領家は別だったの見方が研究者にはあるようです。
事歴のはっきりしない親忠の次代が長親です。この長親も三男で長男は岩津松平となっています。この岩津松平ですが宗家であったとの説もありました。そりゃ長男の家ですから可能性は十分あるのですが、系図を見ていると岩津松平は親忠の長男から始まったのではなく、信光の時から宗家であった気がなんとなくしています。でもって親忠が宗家の直系に系図上でなったのは長親の活躍によるものであり、親忠系の分家も長親の功績によるものの気がします。それぐらい長親の影響は大きい気がしています。
長親が台頭したのは松平氏の危機の到来によるもので良さそうです。遠江まで勢力を広げた今川氏(義元の父の氏親の時代)が三河にも勢力を伸ばそうとしたとなっています。この今川氏(北条早雲指揮であったとされます)の進攻を撃退したのが長親とされます。どうもこの勝利によって本家筋の岩津松平は衰退し、長親の安祥松平が宗家とみなされるようになったとされているようです。長親が松平氏のカリスマみたいな地位についたぐらいを想像しますが、長親は30歳の若さで隠居してしまいます。
年 | 松平長親 | 年齢 | 松平信忠 | 年齢 |
1473 | 出生 | 0 | * | * |
1490 | * | 17 | 出生 | 0 |
1501 | 今川氏撃退 | 28 | * | 11 |
1503 | 隠居 | 30 | 家督相続 | 13 |
1506 | 今川氏撃退 | 33 | * | 16 |
1511 | * | 38 | 隠居 | 21 |
- 1501年説:柳営秘鑑
- 1506年説:徳川実紀
あえて考えると宗家の地位の不安定さだったかもしれません。十八松平の系図は江戸期に成立したと思っていますが、いわゆる宗家の地位は実力主義の奪い合いの様相があったのかもしれません。長親は今川氏撃退の功績により宗家として認められていましたが、この地位を早期に世襲することで固める狙いぐらいがあったのかもしれません。
家督を継いだ信忠ですが、三河物語では愚物とされています。この辺も真相はわからないのですが、とにかく長親と信忠は仲が悪かったようです。実権を求めての勢力争いもあった気がしますが、長親の方が求心力が強かったようで信忠は21歳の若さで隠居させられ信忠の子(長親の孫)である清康が12歳で家督を継ぐことになります。
清康の経歴を三河物語から拾ってみます。
年 | 松平清康 | 年齢 | 織田信秀 | 年齢 |
1510 | * | * | 出生 | 0 |
1511 | 出生 | 0 | * | 1 |
1523 | 家督継承 | 12 | * | 13 |
1525 | 山中城攻略 | 14 | * | 15 |
1527 | * | 17 | 家督相続 | 17 |
1529 | 尾島城攻略 | 18 | * | 19 |
1530 | 岩崎城攻略 | 19 | * | 20 |
宇利城攻略 | * | |||
吉田城攻略 | * | |||
1532 | * | 21 | 那古屋城攻略 | 22 |
1535 | 森山崩れ | 24 | 森山崩れ | 25 |
ちなみにこの時代の今川氏は氏親から氏輝の時代で義元は1536年に家督を継いでいます。氏親時代には三河まで押し寄せていますが、氏親時代の晩期から氏輝時代は甲斐の武田信虎と緊張関係にあったようです。ここは単純化すると信虎が今川氏の北の脅威になっており、今川氏は西に延びる余裕が乏しかったぐらいでしょうか。この流れの延長線上に義元が家督を継いだ時に信虎との同盟成立があったと見て良さそうです。
武田氏と今川氏の緊張関係がわかっていないと清康に信虎の使者が来た理由がわかりにくくなります。ただ、それでもわかりにくいのは三河物語では森山出陣に関連して信虎と美濃三人衆の使者が来たとなっています。美濃三人衆とは安藤守就、稲葉良通、氏家直元でエエと思いますが、信虎と美濃三人衆の利害は異なります。信虎は清康に遠江方面に進出して欲しかったと思いますし、美濃三人衆は尾張方面です。清康は尾張方面への進出を選択したというところでしょうか。まあ普通に見れば今川より織田の方が組し易しと判断すると思います。森山崩れの時の関係地図ですが、
岡崎を出て岩崎城に宿泊したようです。最初は飯田街道の可能性もあるんじゃないかと思っていましたが、この時には沓掛城も松平方ですから鎌倉往還でも良さそうな気がします。でもって当時の信秀の根拠地は那古屋城ですから、守山城は目と鼻の先になります。守山城で清康は急死するのですが、しなかったら那古屋城攻略に進む予定かと思われます。信秀も名将ですが、この時点では三河をまとめている清康の方が優勢な気がしますから、尾張をかなり切り取っていた可能性はありそうな気がします。
松平氏はこの後に長い低迷時代が来るのですが、もめたのは宗家の継承問題に集約されそうです。つうか継承に関する内紛は松平氏には通弊としてあった気がしないでもありません。嫡々でいうと清康の子である広忠なんですが、まだ9歳。元服さえしていない歳です。この時に長親の三男である信定が岡崎を「押領」したとの表現が出てきます。後から見れば押領でしょうが、信定にすれば宗家争いに名乗りをあげたぐらいだった気がしています。この時に長親が信定の押領を黙認したとの表現も見られます。
歴史は勝者が書きますから、後に家康につながる広忠が善になるのでしょうが、戦国時代に9歳の当主は無理があるとの判断はそんなにおかしいと思えないところがあります。ただ英雄清康の存在は死んでも大きかったようで、信定派と広忠派の内紛が起こってしまったぐらいに見ています。この内紛は信定が死に、広忠が岡崎に復帰することで決着を見たようですが、松平氏に取って不運だったのは広忠が凡庸であったことだと思います。もちろん西から信秀の侵入があり、内紛後に求心力となるにはかなりの器量が必要なんですが、いずれにしても広忠にはそこまでの器量はなかったってところです。
松平氏の系譜を見る限りでは長親はかなりの人物であり、清康は英雄として良い人物のようです。一方で信忠、広忠はイマイチってぐらいでしょうか。才気は一代おきで次が傑出した英雄の一人である家康につながるぐらいです。アラアラでしたが、これぐらい知っておけば松平氏の流れがわかりそうです。