以仁王の令旨の原文は残っていないそうです。現在のところ一番信用されているのが吾妻鏡で、他には平家物語ぐらいしかないようです。前回のムックの時は平家物語の方の手を抜いていたのですが、調べるとかなり興味深い事実が出てきました。平家物語の以仁王の令旨ですが、通本には内容はどうもないようです。あるのは延慶本で、
くだすとうせんとうかいほくろくさんだうしよこくのぐんびやうとうのところ
はやくきよもりほふしならびにじゆうるいほんぎやくのともがらをついたうせらるべきこと
みぎさきのいづのかみじやうごゐのげかうみなもとのあつそんなかつな、さいしようしんわうのちよくせんをうけたまはるにいはく、きよもりほふしならびにむねもりら、ゐせいをもつてていわうをほろぼし、きようどをおこしてこくかをほろぼす。ひやくくわんばんみんをなうらんして、ごきしちだうをりやくりやうす。くわうゐんをへいろうし、しんこうをるざいす。かだましくくわんしよくをうばひて、ほしいままにてうしようをぬすむ。
これによつて、ぶぢよはきゆうしつにとどまらず、ちゆうしんはせんとうにつかへず。或はしゆがくのそうとをいましめ、ごくしやにしうきんし、あるいはえいさんのけんまいをもつて、むほんのらうにあつ。ときにてんちことごとくかなしみ、しんみんみなうれふ。よつていちゐんだいにのみこ、かつうはほふわうのいうきよをやすめたてまつらんがため、かつうはばんみんのあんどをおぼしめすによつて、むかしじやうぐうたいし、もりやのげきしんをはめつせしがごとく、ほんぎやくのいちるいをちゆうして、むかのしかいををさむるなり。しかればすなはち、げんけのともがら、かねてはさんだうしよこくのぶようのやから、よろしくよりきをげんめいにくはへて、ちゆうばつをきよもりにいたすべし。もししゆこうあらんにおいては、ごそくゐののち、あておこなはるべきなりてへれば、せんによつてこれをおこなふ。ぢしようしねんしぐわつぴ いづのかみじやうごゐのげみなもとのあつそん
きんじやう さきのうひやうゑのすけどの
読みにくいの私も同じですから我慢してください。内容的には吾妻鏡に類似しており、「ぢしようしねんしぐわつぴ」はたぶんですが治承四年4月日と読むと思いますし、「いづのかみじやうごゐのげみなもとのあつそん」とは仲綱の事だと思います。ところが平家物語では以仁王の令旨の他に後白河法皇からの院宣も頼朝に下ったとなっています。
はやくきよもりにふだうならびにいちるいをついたうすべきこと
みぎかのいちるいは、てうかをいるかせにするのみにあらず、しんゐをうしなひぶつぽふをほろぼし、すでにぶつじんのをんできたり、かつうは、わうぼふのてうてきたり。よつてさきのうひやうゑのすけみなもとのよりともにおほせて、よろしくかのともがらをついたうして、はやくげきりんをやすめたてまつるべきじやう、ゐんぜんによつて、しつぽうくだんのごとし。
ぢしようしねん七月六日 さきのうひやうゑのかみふぢはらのみつよしがうけたまはり
延慶本には異本バージョンも書かれていまして、
きやうねんよりこのかた、へいじわうくわをないがしろにして、せいたうにはばかることなく、ぶつぽふをはめつし、てうゐをかたぶけむとほつす。それわがてうはしんこくなり。そうべうあひならびて、しんとくこれあらたなり。ゆゑにてうていかいきののち、すせんよさいのあひだ、ていいうをかたぶけ、こくかをあやぶむるもの、みなもつてはいぼくせずといふことなし。しかればすなはちかつうはしんたうのみやうじよにまかせ、かつうはちよくせんのしいしゆをまもりて、へいじのいちるいをちゆうし、てうかのをんできをしりぞけて、ふだいきゆうせんのへいりやくをつぎ、るいそほうこうのちゆうきんをぬきんでて、みをたていへをおこすべしてへれば、ゐんぜんかくのごとし。よつてしつたつくだんのごとし。
ぢしようしねんしちぐわつ ぴ さきのうひやうゑのかみざいはん
さきのひやうゑのすけどのうんうん
こちらの方は通本の平家物語にも記載されていまして、
しきりの年よりこのかた、平氏、王皇蔑如して、政道にはばかることなし。仏法を破滅して朝威を滅ぼさんとす。
それ、我朝は神国なり。宗廟相並んで神徳これあらたなり。かるが故に、朝廷開基の後、数千余歳の間、帝猶を傾け、国家を危ぶめんとする者みなもって敗北せずということなし。
しかれば則ち、且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守って、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を退けよ。譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んでて、身を立て家を興すべし。
ていれば、院宣かくのごとし。よつて、執達件のごとし。
治承四年七月十四日
前右兵衛督光能が承り
謹上前右兵衛佐殿へ
こちらの日付は7月14日であり、前右兵衛督光能の名前で出されています。
頼朝に下った書状は平家物語による2通になります。1通は以仁王の令旨であり、もう1通は後白河の院宣です。一方の吾妻鏡には以仁王の令旨は記載されていても後白河の院宣の記録はなさそうです。石橋山の合戦の記録でも
8月23日 癸卯 陰、夜に入り甚雨抜くが如し
今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。
令旨を掲げたとしています。吾妻鏡の記録はあくまでも以仁王の令旨を報じての挙兵としている事がわかります。記録としての信憑性は
この関係になりますし、平家物語は歴史記録と言うより軍記物語です。ただなんですが、どちらも後日に記録をまとめたものです。ここで吾妻鏡には鎌倉幕府の公式記録の側面がありますが、一方の平家物語は鎌倉幕府と無関係に成立しています。なにが言いたいかですが、院宣の話はそういう伝承がなければ書かれる必要性が薄いということです。別に令旨だけで頼朝が挙兵したって構わない訳で、わざわざ平家物語が院宣の話を書き残しているのは、そういう伝承が成立時に残っていた可能性を考えます。では本当に正式の院宣があったかとなると大いに疑問です。同じ年に以仁王の陰謀が露見して大騒ぎになったのは後白河も見ています。同じクラスの陰謀をやらかすと到底考えられないからです。あまりにリスクが高すぎると言うところです。それでも院宣はあったと私は思います。いや、正式の院宣ではなく院宣と称する書状が頼朝の下に存在していた考えています。存在していただけでなく、その存在を関東武士に大いに宣伝した可能性は十分にあると推測します。だから平家物語に書かれているぐらいの見方です。
以仁王の令旨の謎は、吾妻鏡に遺されている内容では諸国の源氏が決起するには内容が余りに薄いと言う疑問があります。ましてや肝心の以仁王は陰謀があっさり露見して宇治で戦死しています。そんな代物で全盛の平家政権打倒に安易に立ち上がれるものかと言う疑問です。頼朝も流人とは言え都の情報は定期的に入手しており、都の政治情勢をある程度把握していたと見て良いのでなおさらです。頼朝が挙兵するにあたって重要なものは大義名分です。徒手空拳に近いからこそ重要と言えます。その大義名分は大きく権威があるほど関東武士に有効ですから、
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後白河の院宣を偽造した