年末に藤原京のムックを書いてから気になって仕方ないものがあります。滋賀県文化財保護協会の紀要6号(1993年3月発行)の中の「倭京の実像 - 飛鳥地域における京の成立過程」の図をもう一度引用しますが、
藤原京から北に真っ直ぐ伸びている道が2本あり、さらにその東側にもう一本北に真っ直ぐ伸びている道があります。これを東から上つ道、中つ道、下つ道と呼びます。現代の地図なら下つ道はほぼ国道24号線に該当しますが、さすがに中つ道、下つ道はチト判りにくくなっています。そこで明治期の地図を出してみます。こういう感じで3道の痕跡をたどれます。では3道は藤原京なり、その前身の天武時代の倭京建設の一環で作られたかと言えばそうではありません。wikipediaより、孝徳天皇は乙巳の変後に立てられた天皇ですが、乙巳の変の首謀者であり実力者である中大兄皇子の傀儡ぐらいで考えている人物です。この中大兄皇子は天智天皇になり、後に近江に都を遷しますが、その近江京と奈良を結ぶために作られたものでもないのも判ります。それ以前に計画建設が始まり、壬申の乱の頃には使用が可能であった事も確認できます。
まずwikipediaの図を引用します。
道という物は多くはある地点とある地点を結びつけるために形成されます。江戸期の五街道も江戸から目的地をもって作られています。東海道なら江戸と京都を結ぶためのものぐらいです。ところが奈良の3道(上つ道、中つ道、下つ道)は南端は当時の中心地である飛鳥に収束していると見えなくもありませんが、北端に目的地がありません。wikipediaの図では北端に平城京がありますが、道が計画された時には平城京はもちろんの事、藤原京さえ無いのです。もちろん近江京も影も形もありません。つまりはどこかに向って作られた道ではなさそうと言う事です。そのためかwikipediaにも、-
三道の目的については、よく分かっていない。
- 7世紀に飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われた。とりわけ斉明朝には、巨大な建築物や山をも取り込んで石造の巨大施設が作られており、その材料の運搬のための道路であるとも考えられる。
- 壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないか、とも推測されている。
どっちも無理がある気がします。斉明期の土木建設のための資材路であるなら、道はもっと飛鳥に収束するように建設される考えるのが妥当です。この説明では上つ道、中つ道はある程度説明できても、下つ道はどうなんだが出てきます。2つ目の軍事用道路も「???」です。軍事用道路ならそれこその目的地があるはずです。どこかの地点を攻めるために作られる訳です。たとえば戦国期の信玄が謙信との抗争に備えて作った棒道の様なものです。3道が軍事用であるなら、後の平城京辺りに強大な敵対勢力が存在する必要があります。平城京でなくともせめて近江・山城あたりに必要と考えますが「そんなものいたっけ?」の世界です。
私はもっと違う目的のために作られたと考えます。
孝徳天皇が作らせたとの記紀の記述を信用すると、違う側面が見えてくる気がします。孝徳天皇は乙巳の変後に改新の詔を発します。この改新の詔も真偽が疑われている部分があるようですが、大きな政治改革が始まったのは事実であろうとされています。その改新の詔の第1条は公地公民制です。これは政権を握った中大兄皇子一派としては是非推進したい政策ではないかと考えます。この政策の狙いはあからさまで、豪族から民と土地を取り上げて大王家の物にしてしまえるものだからです。
話を単純化しますが、公地で大王家の物になった土地を公民になった民に公平に分割する政策が当然セットになります。有名な班田収授の法と言う事になりますが、班田収授を行うためには土地を公平に分割する必要があります。このために区画整理と言うか農地改革が行われたと考えています。これまた有名な条里制です。条里制とはどんなものかと言うと
- 1間四方を歩(現在の坪単位)とする
- 60間四方(3600歩)の土地を坪(古代単位の坪で現在の坪ではありません)とし、それの1/10を段(360歩)として口分単位とする(1坪は現在の1町にあたり、段は1反にあたる。ただし太閤検地で1反は300歩になったので注意)。
- 36坪を1里とする。
- 開拓道路
- 基準線
3道が開拓道路であると考えると目的地は不要です。不要と言うか、納税場所が目的地であり、2地点を結ぶ道路として作られていない事になります。荒地を開拓するにはまず道を通し、道から資材人員を運び、道に沿って開拓地を広げていくのは不思議な手法とは思えません。奈良盆地を俯瞰するのは可能ですから、まず大きく3つの南北方向の開拓道路を作ったたんじゃないかと推測します。
基準線とは何かですが、条里制のためにはキチンと区画のサイズを決めていかないといけませんが、どこかに直線の基準があると作業がしやすくなります。その役割を3道に求めたぐらいです。だから南北に直線であったと言う事です。曲がりくねっていては基準線にならないからです。また3道の間隔はwikipediaより、
南北にまっすぐ通る三道は、ほぼ4里(一里 = 531メートル、四里で約2120m)の等間隔をなしており
なぜ等間隔なのかが古代史的には謎とされているようですが、区画整理のための基準線の役割があると考えれば、等間隔であるのが当然になります。
古代の1里は5町です。単位基準が煩雑なんで一度整理しておきますが、
長さ単位 | ||
1間 | 約1.82m | * |
1町 | 60間 | * |
1里 | 5町 | 300間 |
面積単位 | ||
1歩 | 1間四方 | * |
1段 | 360歩 | 太閤検地以前の1反 |
1坪 | 60間四方 | 太閤検地以前の1町 |
1里 | 6坪四方 | 36坪で1里、360間四方 |
道路の規模は34.5メートル、路面幅は18メートル
34.5mはおよそ19間になります。つまり道の3道の間で農地として使える幅は1200間ではなく1181間になります。しかしこれでも100間ほど余ります。条里制では里単位で区切っているので、里と里の間に広めの道路があるとしても、3道の間に入る里は3つですから道は2本しかなく、50間の道があったとするのは無理過ぎになります。3道が19間ですから、広くとも半分の10間ぐらいが関の山です。仮に10間としてもまだ80間ぐらい余ります。ほかに道としてありそうなのは坪と坪とを区切る道です。これは1里につき5本あり、里が3つなら15本になります。この道は里を区切る道よりさらに狭いはずですから、里の間の道を10間としたらせいぜい5間でしょうか。
まあ、坪と坪の区切りが5間なら15本で75間になり帳尻は合うのですが、5間と言えば9メートルぐらいになります。チト広すぎるんじゃないだろうかです。広いと言えば里と里を区切る10間も18メートルぐらいになり広すぎる感じがします。
わかんないのですが、ちょっとしたヒントはありそうな気がしています。古代距離では1里を5町にしている点です。wikipediaからですが、
里は元々は古代中国の周代における面積の単位であり、300歩四方の面積を表していた。後にこの1辺の長さが距離の単位となった。
周代の1歩は1.3メートルぐらいであったとされますが、古代日本では1間すなわち1.82メートルぐらいになっています。それはともかく、面積単位の里の1辺の長さが距離単位の里であった点は注目します。古代日本の里の一辺は6坪となり360間となり、距離として6町のはずですが、なぜか古代の1里は5町です。何が言いたいかわかりますか? 条里制に基づいた3道計画の時に、道と道の間に本来は4つの里を置くプランじゃなかったかと推理しています。設計者は
-
距離1里につき、面積単位の1里が置けるはずだ
そこに条里制計画が持ち込まれる事になります。なにをモデルにしたかは不明ですが、36坪で1里と言う単位が出来ます。これに基づいて南北の開拓道路兼基準線計画が立てられます。当初計画は道路の間に4つの里を置くであったんじゃなかろうかです。そこで設計者は4つの里を置くのなら、3道の間隔は4里でOKみたいな感じです。でもって作ってしまったです。
もっともこの推理でも3道の間に4つの里を置くのは難しくなります。ギリチョンの幅しかなければ、今度は里の区切りにも通路を作れなくなれます。用水路なんかも必要ですし、いくら奈良盆地がフラットと言っても地形的制約も出て来るでしょうから、1200間に3つの里を置くぐらいでちょうど良くなった気がしています。私の仮説が正しいかどうかを明治時代の地図とニラメッコしてましたが、何とも言えないぐらいしか感想は出ませんでした。